ためし読み

『クリティカル・ワード 文学理論 読み方を学び文学と出会いなおす』

現代社会や文化および芸術に関わるさまざまな領域を、[重要用語]から読み解き学ぶことを目指したコンパクトな入門シリーズ[クリティカル・ワード]がついに刊行。本シリーズでは、基本的かつ重要な事項や人物、思想と理論を網羅的に取り上げ、歴史的な文脈と現在的な論点を整理します。もっと深く理解し、もっと面白く学ぶために必要な基礎知識を養い、自分の力で論じ言葉にしていくためのヒントを提供します。
今回のためし読みでは読むことの基礎と批評理論の現在が学べるキーワード集『クリティカル・ワード 文学理論 読み方を学び文学と出会いなおす』から「はじめに」部分を全文公開いたします。
フェミニズム、環境批評、ポストヒューマン、精神分析、ポストコロニアリズム……多彩なトピックから文学の可能性に飛び込もう!

はじめに

わたしたちの精神の木立は荒れはて、木々は野心という名の無益な火にくべられるために売られたり、種々の工場や製材所に送られたりしてしまって、〈思索〉の鳩がとまるための小枝すら、もうほとんど残されてはいない。
― H・D・ソロー『ウォーキング』

この本を手にとったあなたは、きっと、「文学」という漠としたことばにどこか惹かれるものを感じて――とまではいかずとも、どこか引っかかるところがあって、いま、このページを開いたのでしょう。「文学作品」と呼ばれる詩や小説、戯曲やエッセイなどを読んで、なにか得体のしれない〈大きなもの〉にふれた/ふれられた経験をしたことがきっかけ、という人も少なからずいることでしょう。その〈経験〉になんらかの〈表現〉をあたえたくて、自分でもなにか別の作品を書いてみたり、絵画や音楽といった異なる媒体をためしてみたり、はたまた親からあたえられたこの・・身体をさまざまに動かしてみたり(逆に、動きを止めて観じてみたり)、いろいろとあがいてみた人もあるかもしれません。そういった〈表現〉を手助けする手段のひとつとして、「理論」――〈思索〉についての〈思索〉――と呼ばれる、またひとつの漠とした領野フィールドがあると考えてみてはいかがでしょう。

1990年代なかば、わたし自身も、そういった〈表現〉を模索する文学部の一学生でした。ちょうどその頃、わたしが通う大学に新たに赴任なさった先生が、「現代批評/文学理論」の講義を開講なさいました(当時、「文学理論」の名を冠する講義は、日本ではまだめずらしかったと思います)。なにかを期待するでもなく講堂のうしろの方で聴講していた生意気な学生だったわたしでしたが、講義の冒頭でその若い先生がおっしゃったあることばに強い知的興奮を覚えたのを、いまでもありありと思いだすことができます――「文学理論を学べば、さまざまな境界をどんどん越えていくことができる」。巨大な一本の木の前に立って、どれくらいの高さがあるのかもわからないそのてっぺんの方を見上げるような感覚でした。どうにか足掛かりをみつけて、その大木をよじ登ることができれば――てっぺんとまではいかずともどこか上の方の枝の先まで到達すれば、下からは見ることができなかった紅くてきゃしゃな花が一輪そこには咲いているかもしれない、なにかまた違った景色をそこから見ることができるかもしれない。そして、となりの木へ、またそのとなりの木へと、自由に飛び移ることができるようになるのかもしれない……。

あれから四半世紀、多くの大学では文学理論が正規レ ギュラーの科目として講じられ、書店には入門書・概説書のたぐいが多く並べられるようになりました。いまでは自分がそういった授業をする立場になっているわけですが、学生時分のわたしなどは怖くてなかなか口にすることのできなかった「脱構築」とか「主体」とか「他者」といった専門用語を若い人たちがそらんじている様をみるにつけ、なんともたのもしいことだと感心しています。それ自体はたいへん良い傾向だと思っていますが――ことに、揺り戻しバックラッシュが一部で顕著になってきている今日ですから――ただ、ときおり、不安を感じることがあるのも事実です。ときおりですが、本棚にならぶ入門書・概説書のたぐいが、木立から無理やり伐り出されて製材所できちんと形を整えられた角材の束のように見えてくることがあります。てっとりばやく使えそうな角材を握り、ふりまわしては他人を威嚇してみたり、チャンバラごっこをしてみたり、それに飽きたらポイと投げ捨て、またちょっと違うサイズの角材を手にとってみる……「理論」が、そんな風にして「使われる」ものになってしまっているのではないのか、という不安を感じることがあるのです。「それが制度化というものだ」という常套句ク リシェが聞こえてきそうですが、「制度化」とはかならずしも「硬直化」に直結するものではないはずです。むしろここは見方をかえて、「制度化」とは「制度」を不断に更新するダイナミックな運動である、と考えてみましょう。そうすると、現在いまある「制度」はけっして固定したものではなく、「制度化」の運動が否応なく持ち込む〈偏差〉によって(潜在的に)つねに〈開かれ〉たものとなります。「制度化」をむしろ積極的に、飽くことなく推し進めること。

すでにすぐれた類書が多く存在するなかで(巻末「Book Guide」参照)、本書はそこに屋上屋を架そうというのでもなく、かといってまったく斬新な試みであると主張するものでもありません。ただ、スマホでネット検索すればたいていの人名・用語は詳細に(しかもアップデートされた形で)説明されている今日の状況にあって、文学理論の入門書――木登りのススメ――はどのようなものであるべきか、ということを執筆者一同で話し合い、ともに考えた結果できあがったものです。2部構成になっていて、前半では「文学理論」の根っこに降りてみて思索すること(Fundamentals)を、後半ではいくつかの大枝の先まで登ってみてそこに現在いま咲き誇っている花を愛でつつその花弁の内奥に新たな思索の糸口を発見=発明すること(Topics)を、目指しました。

「基礎講義編――文学理論のエッセンス」と題した前半は、文学理論が日本にも定着した1980・90年代の空気を吸いながら文学研究の道に入った5人の筆者が、「テクスト」「読む」「言葉」「欲望」「世界」というテーマをめぐって、それぞれ独自の切り口・語り口で論じたものです。アプローチは多様ですが、「文学」を「理論」的に思索するとはどういうことか、という共通の〈問い〉に向き合う態度は一致しています。「トピック編――文学理論の現在いまを考えるために」と題した後半は、現役の大学院生5人が集い、「こういうものが欲しかった」を合言葉に、現在進行形の諸主題=思索の場トポスがなす多島海を航行ナヴィゲートするための認識地図を作製したものです。こうやって論拠の在り処トポスを発見=発明する技法を西洋の古典修辞学では「トピカ」と呼び、判断=批判の術である「クリティカ」よりも先に来るべきものとして(かつては)重視されていたものです。

江戸時代、京都は堀川のほとりに私塾をかまえていた伊藤仁斎という在野の儒学者がおりました。今風にいえば、超一流の「文学理論家」と呼んでもいいでしょう。その仁斎先生が『童子問』という著書のなかで、「多学」を戒め「博学」を勧める有名な一節があります――「博学」が「いつにしてばんく」もので、根から幹、幹から枝が生え、そこに葉や果実が繁茂稠密する「根有るの樹」であるのにたいして、「ばんにしてまたばん」の「多学」は布ぎれでつくった造花にすぎず、一度にぱっと咲きみだれ人目をよろこばしはするものの、しょせんは死物、成長ということがない。ひるがえって今日、政治家も知識人もこぞって電脳空間でツイート・リツイートをくり返している様は、まさにきらびやかな造花ばかりの百花繚乱、しかも野次馬たちは、そうやって根のない造花同士が「頭頭相排」するのを眺めては嗤っている始末。そんな現在いまだからこそ文学は、せめて文学は、「根有るの樹」としてその枝先にひとしれず小さな美しい花を咲かせてほしいものです。そんな花を見つけてみようと木登りを思い立ったあなたのために、本書がささやかな足掛かりとなりますように。

(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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クリティカル・ワード 文学理論

読み方を学び文学と出会いなおす

三原芳秋/渡邊英理/鵜戸聡=編著
郷原佳以、新田啓子、橋本智弘、井沼香保里、磯部理美、森田和磨、諸岡友真=著
発売日 : 2020年3月26日
2,200+税
四六判・並製 | 276頁 | 978-4-8459-1932-1
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