ためし読み

『レオス・カラックス 映画を彷徨うひと』

鮮烈なデビュー以来、現在に至るまでわずか6本の長編作品を手掛けただけでありながら、ヌーヴェル・ヴァーグ以降の映画史において、つねに最も重要な作家の1人として世界中で注目を集めるレオス・カラックス 。その最新作『アネット』が2022年4月1日より公開、それに合わせてカラックス監督の9年ぶりの来日が実現した。渋谷ユーロスペースで行われた初日舞台挨拶では、カラックスは司会の坂本安美さんに導かれて登場。満員の客席からの拍手に軽く笑みを浮かべて壇上に上がり、立ち位置を確認しながら、さっきまで被っていたと思しき帽子を足でちょこちょこと蹴って遊んでみせる。

彼は久々に訪れた東京の印象を「すごくエレガントな部分と、下品な、猥雑な部分が同居している街だ」と語る。それは中篇『メルド』で臆することなく描ききったものと同一の感触であるだろう。彼はこんなふうにも日本について語っている。

日本におけるコントラストの強さにはいつも驚かされる。渋谷を散歩すると、とても醜いものを目にする。極端なミニスカートにピンクの靴下、街で酔っぱらって吐いている若者たち……。その一方で、素晴らしく洗練された日本文化を目にする。芸術、エロティシズム、ガストロノミーなど。そして、「いったいこのビザールな混合は何なんだ? 繊細さと粗暴さ、俗悪さの融合は」と、混乱させられる。そのすべてが僕にとっては興味深い。
(『レオス・カラックス 映画を彷徨うひと』所収、インタビューより)

彼の映画は、思えばその全てが「ビザールな混合」を呼吸し続けてきたのではないか。一見対立し合うかのように見える要素が、時に衝突し、融合し、あるいは入れ替わるような、そんな不安定な瞬間を、たえずそのフレームの内側に続けてきたのではないか。

この日の舞台挨拶には、『アネット』で映画全体が大きく動き出すある重要なシーンに出演した古舘寛治が客席から登場。オーディションでの古舘のキャスティングの理由について、彼ははにかみながら「(オーディションで)いちばん歌が下手だったから」と語ったが、司会の提案で古舘は映画の場面を彷彿とさせる歌唱を披露。非常に楽しい場だったという撮影の様子を彷彿とさせた。彼は「俳優が歌うこと」について、こんなふうにも語っている。

『アネット』ではプロの歌手を起用しなかったから、彼らが歌うときに生まれる脆さを生かしたいと思った。
 人々が実際に動きながら歌っているのをカメラに収めるのは、とても美しいと思う。単純に僕やスタッフにとってそれは心を動かされるもので、集中力をもたらされる。それに俳優は歌うことで不安定になり、新しい顔が見える。
(同上)

『アネット』公開に先立ってユーロスペースで行われている特集上映「WE MEET LEOS CARAX」は大好評につき、現時点で4/8(金)まで開催されることとなった。その全貌をスクリーンで発見するにあたり、『レオス・カラックス 映画を彷徨うひと』をそのガイドにしていただけたら嬉しい。本書はこの稀有な作家について、全監督作品評論、諸テーマをめぐる論考・対談とともに、監督と関係者へのオリジナル・インタビューまで凝縮した。以下、レオス・カラックス本人へのロング・インタビューの冒頭部分を公開させていただく。ぜひお楽しみください。

『アネット』 
https://annette-film.com/
渋谷ユーロスペースほか、全国順次公開中

特集上映「WE MEET LEOS CARAX !」
http://www.eurospace.co.jp/works/detail.php?w_id=000583
渋谷ユーロスペースにて4/8(金)まで開催予定

第2章──LCによるLC
Interview[監督]レオス・カラックス


「始まり」と「終わり」の探究

最初の長篇『ボーイ・ミーツ・ガール』から最新作『アネット』に至るまで、レオス・カラックスの映画はつねに観客を安心させてくれない。映像と音響は美しくも残酷に時を刻み、登場人物たちは悲痛な出会いと別れを繰り返す。映画を見終えた私たちは、身体の全てが造り替えられてしまったようにさえ感じる。おそらくはレオス・カラックス自身もまた自身の映画制作という旅を、登場人物たちのように彷徨い続けていたのではないか。彼はその中で何を求め、何を失い、そして何を得たのか。40年に及ぶ全キャリアについて、じっくりと話を伺った。

聞き手・構成=佐藤久理子|編集協力=ヨンカ・タル


映画作家以前

―あなたの映画との出会いについて改めて教えてください。原体験的な作品や機会とは、どのようなものでしたか。

レオス・カラックス(以下LC) 僕はパリの郊外で育った。そこには映画館が1軒だけで、ル・レジャンという名前だった。だからそれほど選択はなく、週に1、2本の映画が掛かるだけだった。そこで観ていた作品が、僕の子供時代の映画体験と言える。
 僕は自分の部屋にたくさん、映画のポスターを飾っていた。でもそれらは俳優目当てのもので、まだ映画監督という存在について何も知らなかった。たとえば当時僕はチャールズ・ブロンソンにはまっていて、セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』(1968)をはじめ、彼がニューヨークを舞台に、正義の裁き手となって復讐する映画はどれも好きだった。10歳の頃にはマリリン・モンローにも情熱を燃やしていた。
 その後、母と一緒にもっと“シリアス”な映画を観るようになった。イングマール・ベルイマンやフランソワ・トリュフォーといった当時の映画作家たちの作品。でもたぶん、カメラの後ろに誰か統率する者がいるということを理解するようになったのは、70年代に入ってからだったと思う。当時僕はカシアス・クレイ(カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア、モハメッド・アリの本名)が大好きで、彼がジョー・フレイザーと対戦する試合がフランスのテレビでも生中継された。フランスでは夜中の3時頃で、僕は母に頼んでテレビを僕の部屋に移してもらい、その素晴らしい対戦を1人で鑑賞した。その後も1日か2日、テレビを借りていられたので、そのときに、ミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(1960)だったか、あるいはロベール・ブレッソンの『ブローニュの森の貴婦人たち』(1945)のどちらかをテレビで観たんだ。そのとき初めて、ここに映っていることすべてを統率する人がカメラの後ろにいること、その人がこの女優や俳優たちを選び、カメラを通して見つめているのだということを理解した。
 当時フランスのテレビでは「シネクラブ」という番組があって、その後「シネマ・ドゥ・ミニュイ」という名前に変わったけれど、1週間に1度映画が放映されていた。そこで僕は、他の古典的な映画や、ロベルト・ロッセリーニ、ジャン゠リュック・ゴダールなどの作品を観た。そして、カメラの後ろにいる者が重要なのだということ、誰がこれらの映画を作ったのかを知ることは大切なのだということをさらに理解した。

―その当時すでに、映画を作りたいという願望が生まれたのでしょうか。

LC いや、僕は観客でしかなかった。当時はとても孤独な時期で、映画と本と僕のギターに没頭していた。孤独な者にとって、それが若い人であればなおさら、映画が与えるインパクトは大きいと思う。

―ではその後、どのような経緯でカメラを手に取るようになったのですか。

LC リセを終えた16、17歳のとき、僕はパリ郊外でほとんど1人で暮らしていた。2人の姉は、共にすでに家を離れていたし、母はつねに働いていたから、いつも1人でいることが多かった。当時はポスター貼りや配達のバイトをして少しお金を稼いでいたけれど、たいしたことはしていなかった。ピンボール・ゲームが大好きだったから、カフェに行ってはよく遊んでいた。でもその頃、『デジャ・ヴュ』Déjà-vuという長篇映画の構想を練っていた。そのなかのいくつかの要素は、僕の初長篇の『ボーイ・ミーツ・ガール』に反映されている。アレックスという青年が主人公で、半自伝的な話だった。
 16歳の夏、トーマス・マンの『魔の山』を読んで、そこに出てくるクラウディア・ショーシャというロシア人女性に恋をした。『デジャ・ヴュ』のストーリーには、彼女と『魔の山』の主人公、ハンス・カストルプの関係における何かを織り混ぜていたと思う。
 どうやって知ったのかは覚えていないが、CNC(フランス国立映画・映像センター)に「アヴァンス・シュル・ルセット(制作費前貸し制度)」というものがあるのがわかり、『デジャ・ヴュ』の脚本を送った。その返事は、僕がまだ未成年でこれまで何も実績がないので、お金は貸せないというものだった。でも同時に、「もし短篇を応募するなら、特別に配慮します」と付け加えてあった。それで短篇の脚本を考えて、1本か2本送った。その後しばらくしてお金をもらうことができて、『絞殺のブルース』Strangulation Blues(1980)を作った。

―初めてカメラを買ったのはいつですか。

LC 17歳の頃。16ミリの、モーターが付いたクランクハンドル式の中古のボレックスだ。でも僕はとても扱いが下手だった。今もテクニカルなものはうまく扱えない。僕にとってはとても複雑な機械で、モーターをいじってへまをやらかしてしまった。それですぐに、誰か他の人にカメラの扱いを任せないとだめだと理解した。
 『絞殺のブルース』の前に、お金はないが1本短篇[『夢見られた娘』La fille rêvéeを撮ろうとした。ポスター張りをしていた会社で、僕より10歳上で、カメラの扱いを知っている男に出会った。
 当時はパリに引っ越した最初の年で、ルーヴルの近くの屋根裏部屋に住んでいた。パリに知り合いは誰もいなかったから、リベラシオン紙に小さな告知を出した。とても気取ったもので、「未来の偉大な監督が、初の短篇のために若い男性と若い女性を探している」というような内容だった。こうして出会ったのがブリュノという成年で、僕にとってパリで初めての知り合いとなり、最初の短篇で撮影をした。
 実は高校生のとき、フロランスという名前の、とても好きな女の子がいた。でも僕が好きなことを彼女は知らなかったし、1度も話したことすらなかった。彼女は学校の人気者で、ちょっと生意気でとても綺麗だった。僕がよくカフェでピンボールをしていた理由の1つは、彼女がよく友だちとそこにいたから、僕はピンボールをしながら彼女を見ることができたためだ。
 僕は高校の古い友だちに頼んで、フロランスから連絡をもらえるよう伝言してもらった。それで彼女が電話をくれたので、「僕は初めて映画を撮るのだけど、出演してくれないか」と訊いた。彼女はとても真面目に、「わたしは医学を勉強する学生で女優じゃないわ」と答えた。それで僕は、構わないから演じて欲しいと頼み、彼女は承知した。
 撮影は高校を離れてから1、2年経った頃で、僕はずっとフロランスに会っていなかった。パリに来た年で、ルーヴル近くの、屋根裏部屋に住んでいた。撮影はその小さな部屋でするはずだった。ベッドと冷蔵庫を置いたらいっぱいになるようなところで、フロランスの最初のシーンは、彼女がベッドで悪夢を見て目を覚ますというものだった。でも僕は自分にまったく自身がないことに気づいた。自分が何をしていいのかわからない、フロランスをどう演出すれば良いのかも、自分が何を望んでいるのかも、カメラをどこに置けばいいのかもわからなかった。何かがうまくいかない。それでも、もう少し撮影を続けた。自分の郊外の街にあった中華レストランで撮影をしたとき、ライトを設置しながらカーテンを燃やしてしまい、レストランから追い出された。たぶんそれがきっかけで、映画を撮るのをやめてしまったと思う。1度も編集すらしなかった。

―そのあとで、『絞殺のブルース』を撮ったわけですね。

LC そう。ルーヴルから引っ越して、当時はリュクサンブール公園近くの小さなワンルームに住んでいた。近所に、ステュディオ・デ・ジュルシュリーヌ(Studio des Ursulines)という、歴史的な映画館があった。かつてシュルレアリストたちが映画を観に来て、気に入らないとトマトやインクをスクリーンに投げつけたところだ。僕の記憶では、僕が大好きなカール・テオドア・ドライヤーの『ゲアトルーズ』(1964)がパリで初めて上映されたのもここだったと思う。映画は罵声を浴びたそうだが。
 ステュディオ・デ・ジュルシュリーヌの向かいに、映画専門の書店があって、僕はよく本を盗んでいた。でも奇妙なことに、そこの風変わりなオーナーと仲良くなった。少し話をするようになって、僕は彼に、短篇用のアヴァンス・シュル・ルセットを得ることができたと話した。すると彼は、「自分は小さな製作プロダクションを持っているが、他の者が担当している。レ・フィルム・デュ・ラゴン・ブルーといって、すぐそこにあるから、行ってみたら」と教えてくれた。それで訪ねて行って、プロデューサーのボドワン・カペに会った。彼は『絞殺のブルース』を製作することを承知してくれた。それで俳優とスタッフ探しを始めたんだ。

―あなたは、映画の根源とはD・W・グリフィスとリリアン・ギッシュにあるとお話しされていたことがありますが、サイレント映画を愛する理由について伺えますか。

LC グリフィスが映画監督として興味深いのは、彼が最初の偉大な実験映画作家だからだ。でもリリアン・ギッシュは、キング・ヴィダーの作品のなかの方が光っている。
 パリに引っ越す前、僕はバイクを持っていて、それでよく郊外からブローニュの森を通って、トロカデロのシャイヨー宮にあったパリのシネマテーク(フランス国立映画博物館)へ通い、そこでサイレント映画を発見した。また映画を安く観るには学生証が必要だったので、サンシエのソルボンヌ・ヌーヴェル大学(パリ第三大学)に登録した。学食で安くご飯を食べるのも目的だった。登録したのはたしか歴史科だったと思うけれど、授業に出たことはなかった。でもそこで毎週教師が主催する、無料の映画上映会の張り紙を見つけた。こうして、『カイエ・デュ・シネマ』の主に2人の批評家、セルジュ・ダネーとセルジュ・トゥビアナが手がける上映会に行くようになった。僕の 憶では、とくにゴダールの、どちらかといえば70年代の実験的、政治的な作品──たとえば『パート2』(1975)や『ヒア&ゼア こことよそ』(1976)などを上映していたと思う。同じ時期にテレビでは彼の素晴らしいシリーズ、『二人の子どもフランス漫遊記』France Tour Détour 2 Enfants(1977-78)が放映されていた。
 『カイエ・デュ・シネマ』の連中はみんな若くて感じがよく、政治的だった。だから僕は授業に登録していなくても、上映会に行って話を聞くことができた。
 あるとき、2人のセルジュが僕のことに気づいて、彼らの授業に登録もしていない、発言したことのない青年は誰なのかと不審に思ったらしい。それであるとき2人のうちの1人が、たぶんダネーだったと思うけれど、僕のところに来て、少し話をした。僕は彼に、『デジャ・ヴュ』という企画を持っていたが、資金が集まらず撮ることができなかったと話した。彼は脚本を読みたいと言った。そのあと、2人のセルジュから、カイエで仕事をしないかと誘われたんだ。僕はカイエのことをまったく知らなかったけれど、もちろんウイと言った。
 それで2、3の批評を書いた。1つはシルヴェスタ・スタローンの『パラダイス・アレイ』(1978)だ。それから彼らは僕を南仏のイエール映画祭に派遣した。そこで10歳年上の青年に出会った。彼の名前はアンドレだけど、僕はのちに彼をエリー・ポワカールと名付けた。エリーは芸術の歴史家のエリー・フォールから、ポワカールは『勝手にしやがれ』(1960)のキャラクターの名前から取ったものだ。パリに戻ったあと、エリーは僕が知らなかったパリの街をいろいろと案内してくれた。とくに彼は、他の映画や文学のことを沢山教えてくれた。20年後に僕が『ポーラX』として映画化した、ハーマン・メルヴィルの『ピエール』を勧めてくれたのも彼だ。僕らは同じ情熱を共有した。フランス人作家のルイ゠フェルディナン・セリーヌ、スイス人のシャルル゠フェルディナン・ラミュ、映画監督のサミュエル・フラーなど。
 エリーのおかげで随分と、すべてを観ることなくして映画のなかで何が僕にとって大切なのかを知ることができた。すべての映画を観ることはできない。だから誰かに最初からガイドしてもらうことが必要だ。それでもし、たとえばグリフィスとギッシュの作品を観てギッシュに興味を抱いたら、彼女がキング・ヴィダーと撮った作品を観て、ヴィダーを発見し、彼の他の作品を観るようになる、といった具合に。

―『カイエ・デュ・シネマ』時代についてですが、映画を語ることや論じることにもご興味があったのでしょうか。

LC いや、それは僕に向いていないとわかっていた。僕は無秩序だし、理論家ではない。ヌーヴェル・ヴァーグの批評家は、ゴダールもトリュフォーもジャック・リヴェットも、みんな優れていた。僕は彼らの足元にも及ばない。でもカイエにいたおかげで、イエール映画祭に行って映画を観たり、そこでエリーやマルグリット・デュラス、アメリカのインディペンデント監督のロバート・クレイマーなどと知り合うことができた。

―そしてゴダールの撮影現場も訪問したのですよね。

LC そう。ゴダールと言えば、まだ僕がパリに住む以前、『気狂いピエロ』(1965)をパリのサン゠タンドレ・デ・ザール映画館に1人で観に行って、出てきたとき、道で100フラン札を拾ったことがあった。当時は僕にとって大金だった。僕は、「きっとゴダールがチャンスをもたらしてくれたんだ」と思った。映画をとても気に入って、アンナ・カリーナに“恋をした”。それも僕にとっては重要だった。

(この続きは、本編でお楽しみ下さい)

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レオス・カラックス

映画を彷徨うひと

フィルムアート社編集部=編
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発売日 : 2022年3月26日
3,200円+税
A5判・並製 | 464頁 | 978-4-8459-2114-0
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