ためし読み

『デューティーフリー・アート:課されるものなき芸術 星を覆う内戦時代のアート』第1章 台座の上の戦車

いま最注目のアーティスト、ヒト・シュタイエルによる初の邦訳書となる『デューティーフリー・アート:課されるものなき芸術 星を覆う内戦時代のアート』
本書では、現代美術、資本主義、政治、戦争、破壊されたインターネットの交差点で、デジタルグローバリゼーション時代のアートと、その生産、流通、消費の変容を考察。無数の複雑で現代的なトピックを用い、驚くべき方法論で、グローバリゼーションによる富と権力の格差、高度にコンピュータ化された時代の視覚文化やアート制作における矛盾を明らかにします。
今回のためし読みでは、「第1章 台座の上の戦車」の冒頭部分を公開いたします。

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A Tank on a Pedestal

台座の上の戦車

歴史を愛してはいるけど、
こっちばかりの片思いだ。
電話したっていつも留守電。
歴史の声で、「ロゴをここにペーストしてください」ってメッセージ。

 台座の上の一りょうの戦車。エンジンからは蒸気が上がっている。ヨシフ・スターリンにちなんでIS‐3と名付けられたソビエト時代の重戦車が、親ロシア派の分離主義グループの手で、ウクライナ東部のコンスタンチノフカで復活した。第二次世界大戦を追悼する台座の上にあったのだが、そこから出発し、間を置かずに紛争に現場入りした。何でも現地の民兵によると、それは「クラスノアルメイスク地区の都市集落にある検問所を攻撃し、その結果ウクライナ側で三人が死亡、三人が負傷したが、我々には痛手はなかった」らしい[★1]

 戦車が歴史的陳列という役を得たら最後、その現役としての機能は終わると思うかもしれない。しかしこの台座について言うなら、それは戦車が戦いへと速やかに召還されるまでの、いっときの保管場所として機能していたと考えることもできる。つまり、美術館(博物館)への──もっと言えば、歴史そのものへの道は、一方通行ではないのかも。美術館はガレージなのだろうか。それとも兵器の収蔵空間?記念碑の台座は軍事的な基底材/基地なのだろうか?

 この点から、より広範な問いが示されうる。惑星規模にまで広がった内戦、拡大する不平等、そして所有権に帰趨するデジタル技術に特徴づけられた時代のアート・インスティテューションについて、どう考えることができるだろう?そうした制度の境界線は今やあいまいである。オーディエンスをツイッター上でのバズり・・・に仕向けるのはもう当たり前で、将来的には、絵画自らが顔認識システムと視標追跡スキャンで鑑賞中の人々を監視し、自分たちの人気度や誰かが不審な行動に出ないかをチェックする、そんな「ニューロ・キュレーション」ができるかもしれない。

 この時代状況にあって、20世紀に生まれたあの「制度批判」[☆1]という概念を更新することは可能だろうか。それともほかのモデルやプロトタイプに当たるべきなのか? そもそも、こういった条件下でのモデルとはどんなものか。いかにそれは(ときに表面化し、ときに潜伏する)スクリーンからなる現実を橋渡しし、数理と美の問いを、未来=将来と過去を、また理性と反逆を結びつけるのか。そしてそれは生産行為としての投影と予測がチェーン状に地球を覆う状況で、どんな役割を持つというのか?

 この戦車略奪の一件では、歴史は超越的な同時代性の次元におよんでいて、出来事の事後的な記録ではなくなっている。それは役割を得て、再演し、変化し続ける。歴史は万態を移ろう行為主体、または何というか、正規ルートを外れた戦闘員みたいなものだ。それはたえず背後から襲ってきて、未来という未来の流れを塞いでしまう。率直に言って、こんな類の歴史って最悪な気もする。

 この歴史は樹立に向けた高邁な営みではない。それはループの形成を回避すべく、人類の名にかけて正体を明らかにする必要がある、そうした何かである。いっぽうでこの種の歴史は平等性を欠いてゲリラ的、さらに民営化や私法人しほうじん頼りのもので、私利私欲に向かう企業体、社会の上位にいるような気分にさせてくれる手立て、共存に際しての他覚的な障害、にわかに立ち込めて夢想された起源へと人々を縛りつける、霧のようなものだ[★2]。被抑圧的存在の伝統はここで、抑圧的であったいくつもの因習、その再結集となって現れる[★3]

 まさか現状で、時間が逆行するようになっているのか。誰かが時間の前進ギアを外してしまい、それを循環構造へと追い立てたのだろうか。一見して堂々めぐりになり代わった、この歴史なるもの。

 こうした状況にあって、歴史の繰り返しを喜劇とするマルクスの卓見を再度取り上げてみたくなるかもしれない。マルクスは、歴史の反復(なかんずく、その再演)は滑稽な結末をもたらすと考えた。しかし、マルクスはもとよりあらゆる歴史上の人物の言葉を引くという、この行為自体が(喜劇とは言わずとも)堂々めぐりを引き起こすものではないか。

 代わりにもっと有益なのは、トム・クルーズとエミリー・ブラントに言及することだ。大ヒット映画『エッジ・オブ・トゥモロー』〔邦題『オール・ユー・ニード・イズ・キル』〕では、ミミックと呼ばれる獰猛なエイリアンが地球を侵略している。ブラントとクルーズ演じるところの人物たちは、それらの退治に四苦八苦するうち、戦闘のタイムループから抜け出せなくなる。何度も命を奪われて、一日が始まるとそのゲームに再登板するほかない。二人に必要なのは、このループから抜け出す方法を見つけることだ。さて、ミミックたちの親玉の居場所は?なんとあの、ルーヴル美術館に設置されているピラミッドの真下なのだ!そしてブラントとクルーズは、このボスを討ち滅ぼしにそこに向かう。

 敵は美術館の内部、もっと言うとその表面下にいる。ミミックたちはそこを我有化し、時間をループ状に変えているのである。ではこのループという形状の意味するところは何で、またそれはどう戦闘に結びつくのだろう?ジョルジョ・アガンベンは近年、ギリシャ語のstasisという概念について考察している。内戦と定常という二つの意味を持つこの語が示唆するのは、潜在的にきわめて動的な何かであると同時に、その真逆の状態だ[★4]。今日では多くの紛争が、この2つの意味でステイシス(stasis)に捕らわれているかに思える。ステイシスは、解消されずにずるずると続く内戦のあり方なのだ。紛争は抜き差しならない状況への強行解決手段ではなく、それを維持する装置である。ポイントは、危機が泥沼化しているということだ。その期限や境界はあやふやであらねばならない、なぜなら、それが利益の豊かな源泉となるのだから。不安定性が尽きせぬきんの鉱床/宝庫となるのだ[★5]

 ステイシスは、私的領域と公共圏の間で氷結された、移行状態として発生する。それは資産の偏った再分配にうってつけのメカニズムだ。公共に属していたものは暴力的に私的領域に移され、かつての私的領域での憎悪が新たな公共の帰属意識に一転する。

 ステイシスの現代版が生じる時代とは、未曾有かつ最新鋭の戦いの時代だ。今日の紛争の担い手は、単発仕事ウーバーを請け負う民兵、銀行がバックについたボット軍団、クラウドファンディングされた小型ドローンだったりする。これらの行為主体はビデオゲームやエクストリームスポーツ用の器具を身につけ、ワッツアップ・メッセンジャーを使いヴァイス(Vice)[☆2]の特派員とスケジュールに関するやり取りを行う。その結果が、見わたす限り代理機能プロキシが目詰まりを起こしているなか、パイプライン機能と3Gの携帯電話が武器代わりになる、そんな有象無象の紛争なのだ。巨大産業と化した現代の終わりなき戦い──その実践主体は、歴史上の戦闘を再現や再演する者たち(ウクライナの事例の場合、それは紛争の両当事者である)、言うなれば、実在としての復古主義者ミミックである[★6]。ステイシスは、終わりなき戦争と私有化/民営化を背景に持つ、時間の再帰的な収束現象だ。美術館は過去を現在へと漏出させ、歴史はその際に深刻な傷を負った上、領域を狭められる。

原注
★1 この興味深い事例について教えてくれたオレクシー・ラディンスキーに、記して感謝する。台座からこの戦車が離脱していく動画は、以下で視聴可能。military.com. 中立的な機関による傍証はないが、報道によると、この動画の撮影以降、戦車はウクライナ軍によって奪回されキエフに送られたらしい。
★2 これは、先頃発表された以下の論考でも言及されている。Brian Kuan Wood, “Frankenethics,” in Mai Abu ElDahab (ed.), Final Vocabulary (Berlin: Sternberg Press, 2015), 30–41.
★3 武器が禁止されているという設定のSF映画『デモリションマン』(1993)を知るきっかけをくれた、スティーブン・スクイブに感謝する。主人公たちにとって必要な武器の入手経路は博物館であり、それ以外にはもう選択肢がなくなっている(この点では、それはウクライナの事例と異なる)。暴虐の過去を戒めとして平和を願うその制度的取り組みは、内戦の再興にきっかけを与えてしまうのだ。
★4 Giorgio Agamben, La guerre civile: Pour une théorie politique de la Stasis (Paris: Points Collection, 2015). この概念がたどった変遷とそこに伏する多義性については、ここでは大要に触れる程度にとどめたいが、最初に挙げるべきはカール・シュミットによる「世界内戦(Weltbürgerkrieg)」という発想だ。そのさらなる源流は、エルンスト・ユンガーの思想にたどることができる。1980年代にエルンスト・ノルテが同概念を採用したことでいわゆる「ヒストリカーシュトライト(歴史家論争)」に火が点き、第二次世界大戦へのドイツの責任と同国の一切の罪過を矮小化したいドイツの右派歴史家による、修正論というべき議論が巻き起こった。しかしそれ以外の多くの思想家は(例えば、ハンナ・アーレントとその1963年の著作『革命について』がそうだが)、この概念を鋳直している。これに具体的な関心をみせた論者は多く、例としてマイケル・ハートとアントニオ・ネグリ、ジャン゠リュック・ナンシーがいる。
★5 しかしむろん内戦の結果として第一に挙げられるのが、自らの組織体を軍備で整える意志、またはその可能性を持たない者たちの貧困である。
★6 歴史的戦闘を再現したロシア側の人物としてもっとも有名なのは、イゴール・ストレルコフだろう。彼は現在、指揮していた部隊がマレーシア航空17便撃墜の容疑を受けており、遺族から告訴されている。またアレキサンデル・ニーベンホイスによると、ウクライナ側では「軍事リエナクトメント同好会が、ウクライナ軍所有の老朽化したソビエト時代の機具を修理中である」。これについては以下を参照。news.vice.com, September 14, 2014.

訳注
☆1 制度批判(Institutional Critique)とは、主に1980年代以降に美術の表現動向として定着した概念。視覚芸術全般ではなく、美術館の伝統的役割、画廊の空間を基盤とする市場、美術関係の労働環境や出版活動などを含む、ファインアートとしての美術の「業界」と、そこでの生産や流通、消費の制度的枠組みを、社会学的な観点から分析する、あるいは指標化する表現や方法論のこと。ただし、美術史家のイザベレ・グラーフがシンポジウム「制度批判とその後」(ロサンゼルス・カウンティ美術館、2005年)での講演で総括したように、「制度」の範疇を含め、制度批判の定義やカテゴリーは必ずしも明確ではなく、コンセプチュアル・アート、とりわけ記号論的なアプローチから美術表現をメタ的に俯瞰するコンテクスト・アート、一部の「アプロプリエーション」の系譜との区別はあいまいなところもある。アート・アンド・ランゲージのメンバーだったメル・ラムズデンが美術の市場とその官僚的な属性を批判した「実践論」(1975)にすでに「制度批判」という語はみられるが、アンドレア・フレーザの小論「場の内と外で」(1985)がこの動向を明確化した最初の言説とされる。代表的なアーティストとして、マイケル・アッシャー、マルセル・ブロータス、ダニエル・ビュレン、ハンス・ハーケ、マーサ・ロスラーなど。
☆2 ヴァイス(Vice)とは、1994年にカナダで設立されたメディア企業。ヒップスター的なカルチャー色が強く、共同創業者のギャビン・マキネスは、白人至上主義的な発言でしばしば物議を醸した(ただし、当該のメディア自体はそうした思潮と関わりはない)。マキネスはヴァイスを離れた後、欧米(白人)男性の優位性を主張するトランプ支持派の武装集団、「プラウド・ボーイズ」をアメリカで結成した。

(この続きは、本編でお楽しみ下さい)

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デューティーフリー・アート:課されるものなき芸術

星を覆う内戦時代のアート

ヒト・シュタイエル=著
大森俊克=訳
発売日 : 2021年9月25日
2,600+税
四六判・並製 | 384頁 | 978-4-8459-1831-7
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