ためし読み

『デューティーフリー・アート:課されるものなき芸術 星を覆う内戦時代のアート』第6章 メディア──イメージの自律性

いま最注目のアーティスト、ヒト・シュタイエルによる初の邦訳書となる『デューティーフリー・アート:課されるものなき芸術 星を覆う内戦時代のアート』
本書では、現代美術、資本主義、政治、戦争、破壊されたインターネットの交差点で、デジタルグローバリゼーション時代のアートと、その生産、流通、消費の変容を考察。無数の複雑で現代的なトピックを用い、驚くべき方法論で、グローバリゼーションによる富と権力の格差、高度にコンピュータ化された時代の視覚文化やアート制作における矛盾を明らかにします。
今回のためし読みでは、「第6章 メディア──イメージの自律性」の冒頭部分を公開いたします。

06
Medya: Autonomy of Images

メディア
──イメージの自律性

 ハルーン・ファロッキは《目/機械》という作品で、とある造語を提起した。それは「自死カメラ」だ。この作品には、第一次湾岸戦争でミサイルの尖端に取り付けられていたカメラが出てくる。そのカメラの映像が、爆発の瞬間までライブ中継されていたのだ。しかし予想に反し、この措置でカメラが破壊されることはなかった。ではどうなったか。それは、何十億個もの小型カメラ、スマートフォンに内蔵された極小のレンズへと砕け散ったのだ。ミサイルの付属カメラは爆発して膨れ上がり、その破片が人々の生、感情、アイデンティティを射し貫き、人々の思考と金銭をかすめ取った。

 ミサイル尖端のカメラに求められていたのは、標的を捉え、追うことだ。しかしそれは自爆し、激増した。これらは今日、対象を見定め続けるだけではない。カメラは、対象と深い関係を持つ機器、その所有者、所有者の身ぶり、感情、また彼ら/彼女らの大半の行動とコミュニケーションを同定し、追跡している。ミサイルの先に内蔵されたカメラが「自死カメラ」なら、スマートフォンのカメラは死に損なった「ゾンビカメラ」だ。

 では、爆発したのがカメラだけでなく、そこに生じるイメージでもあったとしたらどうだろう。認識できないまでにイメージが砕け散る、そんな状況が生じるのだとしたら。

 ここにみせる図像だが、これは頭部のない人間の上方を飛ぶハゲワシを表しているのだという[図1]。少なくとも考古学者はそう主張している。みただけではなかなか分からないかもしれない。説明とみるものが一致しないと思う。放射能を浴びて突然変異を遂げた、ニワトリか何かのようだ。そしてその下の奇妙な形が、頭のない人物ということらしい。

 私は、遡ること1万2000年前に誕生したこの石柱レリーフを、この目で確かめたくなった。というわけで実際に、トルコのウルファ近郊にあり、世界最古の宗教施設として知られる、このギョべクリ・テペ遺跡を訪ねてみた。ストーンヘンジを思わせもするが、違う点は、さらに6500年古いということ。そしてぽつんと巨大な石柱サークルが1つある代わりに、およそ20基が存在するということだ。それらのほとんどはまだ完全には発掘されておらず、多くの石柱には、恐ろしげな動物が精巧に彫られている。

 しかし結局、目当てのレリーフは現地でみることができないと分かった。拝めるのは石柱の背面だけで、レリーフ自体は人目に触れないようになっている。みる手段はというと、それはスマートフォンだけなのだ。インターネットに接続して、グーグル検索。もちろんこれはほぼ場所を選ばない。だがいわゆる「現実」では、そのアクセスは閉ざされている。

 とはいえ、イメージをみたのは私だけではなかった。スマートフォンもまた私と私のいる場所、私の行動をみていた。

 2015年1月。ギョべクリ・テペにまで届きそうなほどの轟音が、シリア北部の街、コバニで鳴り響いていた。戦闘である。コバニがISISによる大規模な攻撃の的となったのは、2014年10月のことだった。いつ陥落してもおかしくない状況で、国境のトルコ側では関心のある数百人が眼差しを向け、市内とその周辺の複数の前線で起こる戦闘をみようとしていた。軍用の双眼鏡とありったけのカメラを通し、無数の目がそこでの出来事に向けられていた。

 しかしコバニの戦闘を多数の人間が目撃したところで、彼らは何をみたというのか。というか、私は何をみたのか。

 ISISの居場所をつきとめようと、見物人たちはシリアに接する国境で、私のカメラ・ファインダーを使っていた。ISISの車が走っているのが遠くにみえると言う者もいたが、正直言って私には全く分からなかった。目に入ったものといえば、煙、クラウド、あとは建物くらいだ。もしかすると彼方に、車か、あるいはただ日光のきらめきがみえたかもしれない。見物していた数百人のうち、自分たちが事実何をみているのかを理解していたのは、ほんの一部だった。私にはそれは無理だった。何かがみえたとしても、それはイメージというよりは壮大に爆発して空中に舞い散っているような、イメージの欠片だった[図2]

 カール・フォン・クラウゼヴィッツは、「戦場(theater of war)」という概念をこう定義している。

 戦場とは元来全臨戦地域の一部であって、掩蔽えんぺいされた諸側面と、そのためにかなりの独立した面を持つ地域のことをいう。この掩蔽は要塞によることもありうるし、その土地の大きな障害物、または臨戦地域の他部分から遠く隔たっていることによる場合もありうる。そのような一部分というのは、全体のたんなる部分というのではなく、それ自体が小さい全体をなすものである。[★1]

 「戦場」という語には、軍事活動の見世物的な面も含意されている。コバニを取り巻く丘陵は一定期間、まさに劇場シアターと化した。戦車や見物人向けの、ドライブイン形式の映画館さながらに。

 私たちは、飛翔体、雲ほどのスケールの煙、閃光をみた。スマートフォンでは、ISISの動画で頭部のない人々をみることもできた。これらはすべて、ギョべクリ・テペの石柱レリーフと同様、理解の域を超えていた。

 首を斬り落とされた人間の上方を飛ぶ、ハゲワシ。私はそれをスマートフォンでみた。あなたも手持ちの機種で見つけられると思う。グーグルでの検索ワードは、Göbekli Tepe〔ギョべクリ・テペ〕、vulture pillar〔ハゲワシの柱〕だ。そうすると、形を分かりやすくするために、無頭の人体に当たる部分を赤線でマークした画像が出てくるはずだ。

 そしてこれは、機械がイメージを「理解」する方法でもある。機械は対象を追跡、分析するために、ライン四角い枠ボックスを写真に投影する[★2]。線と枠をイメージに足すことで、機械がより自律的オートノマスになるのだという。その最たる例が近年の兵器システムだ。それは、管理と制御という人的な営みから離れつつあることから、「自律型」と呼ばれる[★3]

 ただし、イメージがコードとして機械に解読されるとき、その目的は機械が持つ知性の証明にはとどまらない。イメージには有用性がある。行為を誘発し、現実を創造するモデルとしての有用性である。まさに、世界を一変させる図面と地図を人間が利用したように、機械は自らにとっての解読可能な通信回路に依拠し、世界を変えようとする。

 いっぽうでこのautonomy(自律)という語には、いくつかの異なる意味がある。コバニでの戦闘自体は自治オートノミーに向けた闘い、機械ならぬ人間のための闘いだった。そしてコバニの街を守り抜こうとする人々にとっては、「自治」の意味合いも異なる。それはあくまで、国家という存在に対する自治である。シリアやトルコといった国家だけでなく、国家それ自体との間にも一線を引く自治。自治とは分離主義でも、国家の奪取や占領でもなく、既存国家の内側に併存する体制、その創出なのだ。

原注
★1 Carl von Clausewitz, On War, trans. J.J. Graham (1873), Book 5, Chapter 2. clausewitz.com.〔カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』(上)清水多吉訳、中公文庫、2001年、413頁〕
★2 これに関しては、ハルーン・ファロッキの先駆的な作品──《目/機械》および《認識と追跡》──で秀逸な分析が行われている。この二つの作品で扱われているのは、コンピュータの視覚情報処理機能を紐帯とする、戦争と生産行為の関係性である。
★3 ここで私は、ハルーン・ファロッキの自律性に関する思想を想起したのだが、その糸口となったのは、トレバー・ペグランの優れた寄稿の一節であった。ウェブ版の『アート・フォーラム』に掲載された、ペグランによるファロッキの追悼記事がそれである。「ファロッキが鑑賞者に求めたのは、〈自律機械による戦争がどんなものか、想像することだ。それは労働者不在の工場生産のように、兵士のいない戦争である〉」。以下を参照。Trevor Paglen, “Passages: Harun Farocki (1944–2014),” artforum.com, February 6, 2015.

(この続きは、本編でお楽しみ下さい)

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デューティーフリー・アート:課されるものなき芸術

星を覆う内戦時代のアート

ヒト・シュタイエル=著
大森俊克=訳
発売日 : 2021年9月25日
2,600+税
四六判・並製 | 384頁 | 978-4-8459-1831-7
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