はじめに
映画で事物を伝える方法は数知れずあるけれど、その中でセリフは最下位に位置すると考えていいだろう。本書はセリフを使わない表現テクニックを100種類集めた、言わば映画的ストーリーテリング(受け手を物語に引き込む語り口)の百科事典的なものだととらえてもらえればいいと思う。この「百科事典」では、紹介するテクニックの例として映画史上でも指折りの印象的な名シーンの数々を挙げている。紙面の都合上、紹介するテクニックは100種類に限定されたものだが、脚本家や監督が映画媒体におけるストーリーテリングの潜在能力を、より深く効率的に理解する大きな助けとなれば幸いである。
映画的ストーリーテリングとは何か?
映画史における最初の20年間は、映画的ストーリーテリングが映画で物語を伝えるための唯一の方法だった。シンク・サウンド(映像と音声を同期させて上映すること)がまだ開発されていなかった無声映画時代の『大列車強盗』、『メトロポリス」、『戦艦ポチョムキン』といった作品は、セリフ以外の表現テクニックで登場人物やストーリー展開を伝えなければならなかった。どうしても必要なときには字幕カードが用いられているが、それはあくまでも最後の手段とされていた。
カメラ位置、照明、画面構成、モーション、編集が、ストーリーテリングのための主要要素として最大限に利用されていたのだ。たとえばカメラは、単なる映画撮影のための道具にとどまるものではなく、登場人物を表現して筋書きを前に進めるという重責も負っていたわけだ。当時は、いまだ存在しないセリフに頼って怠けることが不可能だったのだから。
1926年以降になると、音声のセリフやナレーションが続々と映画で使われはじめた。文語に起源を発するこの表現方法は、本来は小説や演劇で利用されていたものだが、それが映画の世界にも大きく広がっていったのだ。多くの純正主義者たちがサウンドの導入を嘆いていた一方で、これを進歩として享受する人々も少なくはなかった。どちらにしても、現在の脚本家と監督には、両方のストーリーテリング方法が利用可能となっているわけだ。
文語的ストーリーテリングと映画的ストーリーテリング
文語的なストーリーテリングが強力なツールとして加わったとはいえ、映画的ストーリーテリングも継続していた。『市民ケーン』、『サンセット大通り』、『十字砲火』、『サイコ』、『ピアノ・レッスン』、『赤ちゃん泥棒』なども、映画的ストーリーテリングを見事に使った教科書のような作品として挙げられるだろう。
映画的な表現ツールは、たとえばアクション、ホラー、ノワール、心理ドラマ、サスペンスなどのジャンルで特に多大な効果を発揮するものだが、文語的表現の代表格のようなウディ・アレンの作品でも、第2幕でマンハッタンのどこかを舞台にしたハラハラするシーンがとても映画的に描かれていたりする。
ほとんどのジャンルで映画のストーリー展開は映画的ストーリーテリングで描かれているというのに、脚本のハウツー本のほとんどがこれについて触れていないのは不思謙なことだ。映画的なツールがわざとらしくなりすぎてしまうケースもないわけではないが、それはあまり多くはない。むしろ、直接的な表現を避けながら、観客の感情を操り、登場人物や筋書きを見せることができるものだ。だからこそ作品に効果と魅力を吹き込めるのだろう。たとえば『E.T.』の出だしの10分が好例だ。設定そのものが完璧に映画的なのだ。セリフは一言もないのに、それでいて8歳児の観客でも、どの登場人物が悪者なのか、そしてその理由まで理解できるだろう。映画的ストーリーテリングは観客の潜在意識に機能することが多いだけに、それを言い当てるのは容易ではなく明瞭であることは稀だ。だからといって、脚本家や監督がこのツールをより巧みに使えるようになる必要もないという理論は成り立たない。むしろその重要性に注目すべきだろう。
映画的ストーリーテリングとは、ドキュメンタリーとドラマの違いであると言うこともできる。効力のあるストーリーテリングのツールを利用するのか、しないのかという違いなのだ。ストーリーテリングの根底を押し広げ、脚本家や監督たちの力を養い、これら映画媒体ならではのツール探求に本書が役立つことを祈っている。
この本の読み方
脚本家にとって映画的ストーリーテリングとは何か?
脚本とは、サウンドと映像で語られる映画のストーリーの青写真である。
優れた映画の脚本には少なくとも2つの条件が求められる。優れたストーリーであること、そしてそのストーリーが映画的に表現されていることだ。前者について解説した素晴らしい本は数多く出版されている。そういった本は、筋書き、構成、登場人物設定について網羅しているものだ。これらはあらゆるタイプのフィクション作品にとって、不可欠な要素だ。実際にはそれらの内容は小説にも戯曲にも同じように当てはまるものなので、より正確に言うならば、映画脚本のための理論というよりも、むしろドラマツルギーを論じた内容だろう。いずれにせよ、これは前者の条件にあてはまる、とても重要で不可欠な要素だ。もう1つの条件は、そのストーリーを映画的に表現することである。これが満たされなければ、いくら優れたストーリーであっても、優れた映画にはならないということは、もはや誰にでも想像できることだろう。
映画は小説と同じものではない。脚本には脚本家が深く知っておかなければならないテクニックが求められる。ここがその他の媒体のライターと脚本家の違いなのだ。多くの初心者は、映画媒体の特性を活かした創作の機会を見過ごし、セリフやナレーションに頼ってしまう間違いを犯しがちだ。映画的なテクニックを無にした書き方は、作品の根本を道端に置き去りにしたまま進んでいくようなものだ。 脚本とは映画作品の青写真として成立するものでなければならず、そのためにはスクリーン上で見聞きされるものをきちんと表現していなければならない。
映画の萌芽期には、レフ・クレショフ、セルゲイ・エイゼンシュテイン、フセヴォロド・プドフキンといった理論家の監督たちが、この新しい媒体が秘めたストーリーテリングの可能性を理解しようと試みはじめた。そして彼らは、現在でもなお当てはまる、他の媒体でなく映画だからこそ可能な2つの側面を意識的に認識するに至った。撮影された画像とモーションである。この認識によって脚本家は文字通り何万もの選択肢を得たことになる。
たとえば編集の側面では、切り返しの導入により、チェイス・シーンなどをはじめとする数多くのドラマティックな描写が急速に開発されている。カメラを屋外にも出せるという特性を活かして、野外のシーンと屋内のシーンを並置させることもできる。世界中のあらゆる場所を映した画像、それにクローズアップをはじめとする新たな視点からの画像を利用することもできる。レンズによってそれぞれ画像にあたえるビジュアル上の特質があり、それを活かしてストーリー性を高めることもできる。クレーンなどの機材(後にステディカム・カメラも出現)を利用したカメラ移動により、さらに新たな可能性が開けている。
脚本家にとってそれが意味するものとは?
映画史の初期にあって、プドフキンはシナリオ書きの仕事を「この新たな媒体を活用できるストーリーを書くこと」と認識している。1926年、 彼は脚本家たちにたいして、スクリーン上で展開されるより良いストーリーを書くためには編集をはじめとする映画の技術的側面をマスターするべきだとアドバイスしている。
本書が目指しているのは、映画的ストーリーテリングの探求に取り組んだこうした初期の理論家たちの道筋を受け継ぐことだ。 ここには、業界屈指の脚本家や映画監督たちが実際に利用しているセリフに頼らない100種類のテクニックが収められている。『メトロポリス』から『キル・ビル』まで、500枚を越えるコマ写真例や76種類の脚本抜粋を交えながら、映画という媒体がどのようにしてストーリーを進めるものなのか、検証していく。本書によって脚本に込められた映画的側面の価値を理解していただければ幸いである。
脚本抜粋について
本書に引用されている脚本抜粋は、脚本家や脚本家志望者のために加えられたものだ。これらの抜粋を読めば、いかにして優秀な脚本家が逸脱することも監督の仕事を浸食することもなく映画的ストーリーテリングを脚本に溶け込ませているかを理解することができるだろう。これらの抜粋には、専業の脚本家によるものもあれば、 脚本/監督を兼務した者によるものもある。アラン・ボール、マイケル・ブレイク、ロバート・タウンら脚本家によるもの、そしてクエンティン・タランティーノ、ジェーン・カンピオン、コーエン兄弟といった脚本/監督によるものも含まれている。
これら抜粋の最終的な目的は、脚本家が映画的ストーリーテリングをより流暢に使いこなせるようになることにある。
映画監督にとって映画的ストーリーテリングとは何か?
フィルムメイキングの授業では、ストーリー作りと撮影を分けて教えることが多い。脚本家を1つの枠に入れ、もう1つの枠には製作サイドを入れてしまうのだ。残念なことに、この分け方は、 最も強く結ばれていなければならないところを分断する分け方だと言わざるを得ない。これではストーリーから撮影技術の側面が排除されてしまう。
映画はストーリーにはじまってストーリーに終わる。極論すれば、映画が商品になる理由も、スタッフが雇われる理由もそこにあるのだ。大きな製作費をかけた映画が、目もくらむようなSFXを駆使して素晴らしい映画製作を行なったにもかかわらず、芳しい結果を得られないことがよくある。それは彼らがストーリーを忘れてしまったせいだ。テクノロジーの素晴らしさやそのスタイルに、ストーリーが置き去りにされてしまったからなのだ。
映画監督にとってそれが意味するものとは?
優秀な撮影技師なら特定のショットを撮る方法を知っているが、監督はそのショットを必要とする理由まで理解していなければならない。撮影技術分野におけるそれぞれの特質を理解し、それをクリエイティブに利用してストーリーを先に進めることが、監督の持つべき知識の一部として求められる。コンテンツとテクニックをきちんと融合させなければ、それぞれの分野をバラバラに見せる作品となり、その結果としてテクニックばかりを誇示するような作品が出来上がってしまうことが多い。
本書では、フリッツ・ラング、オーソン・ウェルズ、アルフレッド・ヒッチコック、フランシス・フォード・コッポラ、スティーヴン・スピルバーグ、ジェーン・カンピオン、ティム・ バートン、コーエン兄弟、リュック・ベッソン、ジェームズ・キャメロン、ウォシャウスキー兄弟をはじめとする監督たちの作品を例に挙げている。それぞれの例を使って、 ストーリーに貢献する具体的なテクニックの分析を試みるものだ。これらの監督を含む多くの優れたフィルムメイカーたちのショットは、すべて筋書きを前に進め登場人物を表現することが念頭に置かれている。無駄なショットは一切存在しない。 監督の仕事は、まずは観客が、いつ、なにを、どのように感じるべきかを把握すること。次いで、それを実現させるためにツールを駆使することである。
本書の目的は映画製作と脚本執筆の掛け橋となることにある。業界屈指の監督たちが、どのようにして形式と機能を融合させ、映画史上最も印象的な場面の数々を作り上げきたのか、それを分かりやすく解説したつもりだ。