いま最注目のアーティスト、ヒト・シュタイエルによる初の邦訳書となる『デューティーフリー・アート:課されるものなき芸術 星を覆う内戦時代のアート』。
本書では、現代美術、資本主義、政治、戦争、破壊されたインターネットの交差点で、デジタルグローバリゼーション時代のアートと、その生産、流通、消費の変容を考察。無数の複雑で現代的なトピックを用い、驚くべき方法論で、グローバリゼーションによる富と権力の格差、高度にコンピュータ化された時代の視覚文化やアート制作における矛盾を明らかにします。
今回のためし読みでは、「第3章 容赦なき現存在の戦慄──美術界における「居ること」の経済性」の冒頭部分を公開いたします。
03
The Terror of Total Dasein: Economies of Presence in the Art Field
容赦なき現存在の戦慄
──美術界における「居ること」の経済性
「インターナショナル・アーティスト・ストライキ」(1979)は、「美術界の持続的な抑圧構造と、制作活動から生じるアーティストの疎外への抵抗」だった。ジョルジェヴィチは、このゼネラルストライキへの参加を説き勧める手紙を世界中の相当数のアーティストに送り、39通の返事を受け取った。多くは難色を示すもので、そうした人々にはソル・ルウィット、ルーシー・リパード、ヴィト・アコンチがいた。スーザン・ヒラーはこう答えている。「じつは夏場にずっとストライキをしていましたが、何かが変わったかというとそんなことはなくて、じきに制作に戻れるのが嬉しくて仕方ありません」。[★1]
ゴラン、手紙をありがとう。自分としては1965年から(つまりもう14年間だ)制作に新しいやり方を取り入れずにいて、ストライキをしてきたみたいなものだ。これ以上の何かはできそうにもない。頑張ってくれ。──(ダニエル・)ビュレン[★2]
1979年のことだ。伝説的なコンセプチュアル・アーティストのゴラン・ジョルジェヴィチが、美術界のゼネラルストライキに参加できるアーティストを募った。しかし何人かはこう答えた。自分たちにしてみたらこれがストライキ中のようなもので、どのみち無産か、新たな形式の開拓もなしだと。ただ、それで通用したわけである。これは明らかに、ストライキとその機能に関する当時の既成概念を狂わせるものだったろう。ストライキとは雇用主から求められている労働力の撤退であって、これを受けて雇用主は労働者の要求に対する譲歩を行わねばならない。しかし美術の領域では事情は違っていたのだ。
現代のアーティストがこれにどう反応するか、見当はつく。美術界の誰一人として、自分にしかできない仕事をしているとは考えないし、控えめに言ってそれが重要になるとはもう思っていない。フリーランスで溢れているというより、フリーランスが仕事に溢れている時代に、特定の誰かの労働力が厚遇されるという発想はもはや異質ともいえる。
もちろん美術界と他分野では労働の意味するところも違っていて、これはずっと変わらない。ただし現代には現代なりの要因があり、その一つといえるのが、今日の美術の経済にみられる「居ること」への依存だ。この経済は、これまで考えられてきたようなモノの生産に関わる労働力から、存在へと軸足を移している。この場合の存在=居ること(presence)とは、物理的な意味での所在─個人が直接場に臨み、身を置くということだ。なぜそこまで存在に価値が求められるのか。この「居ること」という概念は、障壁なきコミュニケーションへの希望、捕らわれのない実在の高揚、身近に感じられる経験、人々が実際に互いを前にすること、これらの条件的な素地となる。それが意味するのは、アーティストとそれ以外のすべての人々が場を共有するということだが、その状況や利点は一言では言いにくい。どう言えばいいのか、「居ること」とはつまりああいう感じのものだ、偽りなきディスカッション、情報交換、コミュニケーション、ハプニング、イベント、臨場性、リアルな事態……何となく想像がつくだろうか。
アーティスト(広義には、コンテンツのプロバイダー)は近年、作品の発表に併せて無数のサービスをこなす必要があるが、これはほかの表現形式よりも重要になりつつある。上映よりも質疑応答、論考よりもリアルタイムの講演、作品との出合いよりもアーティストとの出会いが重要となってきている。間遠ではない存在をその場に差し向けるルートを増設する、準アカデミックな、またソーシャルメディアでの拡散向けの多彩なフォーマットについては言うまでもない。マリーナ・アブラモビッチのとあるパフォーマンスのタイトル(そこには彼女自身の名も含まれている)のように、アーティストは「その場にいる」べきなのだ。ここで言う存在とは、独壇場で放たれる存在感、初見の機会、または好奇の視線を過剰なほど引き寄せる存在だ。アーティストの仕事は、持続的な存在へと再定義される。しかし、概ねその場限りの出来事の果てしなき生産、未経験の内容や生身の臨場感をつくり出す流れ作業的な面を鑑みれば、出来事の生起とは(スフェン・ルティケンが言い表したように)「ゼネラルパフォーマンス」──効率性や社会的労働の総和から定量化できる、そんな数値的事象でもある。
この「居ること」の経済性は、美術の経済に行き渡っている。美術の市場経済には、アートフェアを舞台とする固有の「居ること」の経済性がみられる。顧客リスト、VIPエリアや行く先々でのアクセス可/不可の実行モードがそうであるし、大型展示のプレビューはもう富裕層には合っておらず、重鎮はそうした内覧にさらに先立つ機会にしか姿をみせない、という話もある。
美術の経済でなぜ人々がその場にいるべきなのか、そのもっともな理由はいくつかある。人間が特定の場を占めることは、輸送と保険、またときに設置の施工が必要な作品の「在ること」よりも、平均して費用を抑えられるのだ。「居ること」はその人物目当ての客を誘う蜜となるが、これは助成金のパイを奪い合う文化機関にとっては正攻法の一手につながる。ある種の機関は大御所の連続セミナーやワークショップのような学会もどきの形式を常として、チケットどころか特定人物に謁見する機会を売るのであり、人脈を広げて関わりを増やしたいという人間心理を商機につなげる。早い話、「居ること」は容易に数に変換し、マネタイズできるのだ。そして支払う人間の数が支払いを受ける人数をはるかに上回るのだから、利益率もきわめて高くなる。
しかしこうした存在=居ることは、報われる見込みもなく延々と使い勝手を求められる、ということでもある。ほぼ何でも複製できてしまう時代にあって、人間という存在は無制限には増やせない稀有なものの一つだ。それは有用な資源だが、どこか構造的に欠けを持っている。一定の活動に勤しむことが存在の意味するところであっても、職を得たり雇用されたりとまではいかないのだ。存在はたいてい、閉塞した状況でひたすら自らの出番を待っていて、補欠要員から引き抜かれる可能性もあるが、空きを埋める「そのほか大勢」の一人であったりもする。
興味深いことに、全面的な存在、空間や時間的な近さの需要は、間に割って入る機能、つまりインターネットをはじめとする様々なコミュニケーション・ツールから生じる。それは技術に対立するのではなく、技術あってこそのものなのだ。
ウィリアム・J・ミッチェルによれば、「居ること」の経済性を特徴づけるのは、技術によって強化された、関心や時間、活動のための販路──慎重な選択を要する投資のプロセスである[★3]。要は、技術は遠隔的かつ即時性を欠いた存在向けのツールを提供するわけだが、このとき物理的な「居ること」はあくまで一つのオプション、それも著しく不足したオプションと化す。ミッチェルはこう述べる。「居ることによる直接の対面が、時間と金銭を費やすに値するか否かを個人が決定するとき、居ることの選択がなされる」。存在=居ることは畢竟、投資の一形式となるのだ。
ただし「居ること」の経済性は、時間をあてにされ、おしなべて持ち分以上の時間を販売(あるいは交換)できる人々に関係するだけではない。その経済機構がいっそうの重要性を持つのは、こんな人々だ。生計を立てるため、あるいはそれすら叶わないのに仕事をいくつも掛け持ちしなければならない者。過密スケジュールを調整し、優先順位の折り合いをつける綱渡り状態のなか、単発仕事の入り乱れた予定を取りまとめる者。自分の時間と存在がいつの日か何らかの交換価値を得るという、遠く淡い希望を抱き続ける者。分裂気味のスケジュール、それから、乱高下する連関なき時間とくたびれたタイムテーブルの果てしない綻びの正体を、人々が必死に突き止めようとしている──そんな機能不全の崩壊した時間効率経済に依って立つ一過性のインフラに、疎外と媒介を免れた、稀有な存在のアウラが張りついている。それはジャンクタイムであり、綻びて、どこからどうみても壊れている。ジャンクタイムは打ち砕かれてさすらい、非連続的で分散し、いくつもの組み立てラインを並走する。もし場違いな状況や時機の悪さを体験しがちで、さらには不相応な時を同じくして2つの間違った場所に存在できていたら、それがジャンクタイムの只中にいるということである。ジャンクタイムのもとでは、どんな因果法則も解けていく。始まりの前に終わりが来て、しかも始まりは著作権の侵害で削除済みになっている。そしてその中間にあるものはいずれも、予算の関係でカットされている。全き直接性に貫かれたとめどない存在という発想、その実体的基盤をなすのが、このジャンクタイムなのだ。
ジャンクタイムは擦り切れ、妨害され、ケタミンや神経薬、企業イメージのせいで感覚を鈍らせている。それは、情報が活力ではなく苦しみのもととして出現する、そんなときに生じる。早技的にこなせるという考えが、過去の早とちりだったのだ。今日になったら、クラッシュして成果も出せぬ我が身を悟る。四角い広場をオキュパイしたり〔仕事の〕幅を広げたりと頑張ってみても、誰が学校まで子供を迎えに行ってくれるというのか。ジャンクタイムの決定要因は速度であり、もっと言えば、速度の出せなさである。それは時間の代わりとなるもの、時間の衝突試験用のダミーだ。
ではジャンクタイムは、存在=居ることへの高まった希求とどう関係するのか?世の哲学者のお歴々に次のように尋ねてみたいのだが、ここで本章のタイトルが一枚嚙んでくるというわけだ。
それはこんな問いである。「タスク・ラビット」[☆1]とアマゾンの「メカニカルターク」が普及する時代にあって、この「居ること」の過熱した需要は、かの「現存在〔=そこに居ること〕(Dasein)」なるハイデガーの思想概念に新たな命を吹き込みはしないか。「居ること」が実相を獲得し、やるべき何かに専従するとき、コピー・アンド・ペーストのおよばぬこの存在に対する希求はつまり、現代の多くの活動における事物をくまなく浸す非情なまでの数値・定量化、その実態を明かしているのではないか。それは、来訪者のデータとお気に入りに関する情報を集めながら、その集客数をもって恣意的な重要性を正当化するある種の機関が行っている、人的資源のカウントと軌を一にしてはいないか。掛け持ち仕事を抱えて引き裂かれたジャンクタイム──裁ち屑や端切れのようになって増大しつつタイミング的にはギリギリ、そんな時間の様態が立ちはだかる状況は、疎外や妨害もなく光輝を発し、終わりもなくそして「気遣い」を帯びた恐怖の「現前性」 、そのキッチュ極まりない類型の素地をつくり出してはいないか?
原注
★1 “An Investigation Into the Reappearance of Walter Benjamin,” azlitt.net.
★2 “The International Strike of Artists? Extracts,” stewarthome society.org.
★3 William J. Mitchell, e-topia: “Urban Life, Jim, But Not As We Know It” (Cambridge, MA: MIT Press, 1999).
訳注
☆1 日曜大工や家事代行を中心に、いわゆる便利屋の労働市場をオンラインで提供するサービス企業。2008年にカリフォルニアでローンチされ国際的に展開した後、2017年にIKEAに買収された。
(この続きは、本編でお楽しみ下さい)
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。