テレビジョン=「虚像」が想像力とされた時代の作家像、作品概念を、現代の視点で分析する『虚像培養芸術論 アートとテレビジョンの想像力』。
本書では、東野芳明・磯崎新・今野勉の思考を軸にマスメディアの中の芸術家像を検証しながら、現代美術、現代思想、現代メディア論を縦横無尽に横断し、メディア芸術の歴史的な視座を編み直していきます。
今回のためし読みでは、「第1章 知覚のボディ・ビルディング──その日常性への上昇」の冒頭部分を公開いたします。
第1章
知覚のボディ・ビルディング
──その日常性への上昇
21世紀だョ! メディア芸術?
2001年に制定された「文化芸術基本法」第3章「文化芸術に関する基本的施策」の第8条では「芸術の振興」、第9条には「メディア芸術の振興」が謳われている*1。「芸術」の対象は「文学、音楽、美術、写真、演劇、舞踊その他の芸術(次条に規定するメディア芸術は除く)」、「メディア芸術」は「映画、漫画、アニメーション及びコンピュータその他の電子機器等を利用した芸術」と定義される*2。ざっくばらんにいえば、前者はオリジナルを、後者はコピーを作品概念とする芸術形式だ。この大別は、第二次世界大戦後、日本においてアートがどのように展開し、市民社会に浸透したのかをしめす指標でもあるだろう。
私が気になったことは、「芸術」に並べてもらった複製芸術の言い換えとしての「メディア芸術」という雰囲気だった。それはまず、社会階層の格づけに「芸術」というブランドがあり、敗戦後、アメリカから受容したインフラストラクチャーであるマスメディア(出版文化と放送文化)を分母とした文化現象が、「芸術」に上昇したという印象だ。同時に、芸術という分野のなかで、既存のハイアートに差別されるロウアートとしての複製芸術という位階だった。いずれも、意味の差異化というよりは、具体的な価値化へと意識が向いている。言い換えれば、社会のなかで位置づけられる「芸術」、ハイブランドと認定できる文化現象の弁別は、商品の議論であり、ハイとロウの大別は作品の品質を保証することになるだろう。後期資本主義社会における芸術様式は、テーマパーク化する美術館や、スペクタクル化する展覧会の問題として指摘される。他方で、こうして芸術と社会の紐帯が結ばれているとみる向きもあるだろう*3。
いずれにしても、「コンピュータその他の電子機器等を利用した芸術」という文言について、インターネッ元年と呼ばれた1995年以降、四半世紀を経てどう考えるかだが、スマートフォンをはじめとするウェアラブル端末まで、インターネット環境はかつてのマスメディア同様、インフラストラクチャーとして社会の分母となって久しい。その観点からすれば、もはや電子機器を利用しない芸術など存在しない。
これを私に実感させたのは、2012〜15年まで所属した東京藝術大学芸術情報センター(AMC)での経験だ。AMCは学内共用施設で、古めかしい言い方をすれば、コンピュータ室、つまりデジタルのアトリエだ。利用する学生の作業を、モニター越しに覗いてみるのだが、その作品が音楽か美術かあるいは建築なのか、よくわからない。どの分野の学生も、専門的なソフトウェアに特化せず、ブリコラージュして制作をしているからだ。制作環境に基づく諸芸術の分類は不可能になりつつあり、新たな専門性が登場しているようにも見えていた。つまり、学生の所属する学部の意味も解体しつつある気がした*4。それゆえに私は、「芸術」と「メディア芸術」の分類に違和感をもつようになった。
こうして振り返ると、「文化芸術基本法」は、日本におけるポストメディウム状況の端緒だったのかもしれない。
私の場合、後期資本主義社会の状況と、これに関連して芸術が分母とするインフラストラクチャーへの関心は、1960年代のいま考えるべき論点となった。前者はネオ・ダダや反芸術論争に、後者は美術批評家、東野芳明(1930〜2005年)が「テレビ環境論」(『季刊フィルム』vol. 3、1969年6月)で指摘した、テレビの存在がもたらした認識論的な問題を召還する*5。
インターネット以後、マスメディアに対置されるニューメディアだが、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)や動画共有サイトYouTube、写真共有サイトInstagramが連動する現在のメディア環境は、文化的にもその成熟期を──いや、とうに過ぎているのかもしれないが……、いずれにしても、もはや新しくないニューメディアが自己省察するための批判理論を確立するためにも、マスメディアの成熟した1960年代のアートシーンを再検証する必要がある。マスメディアの象徴でもあった、地上アナログ放送が2011年に終わり、インターネット文化はSNSとストリーミングによる動画へと本格的に集約され、デジタル環境でテレビを継承したように、私には見えている。
「芸術」は、その性格のひとつとして「模倣」の創造力/想像力を探求してきた分野である。20世紀後半からマスメディアによって、社会自体が「複製技術時代の芸術」化していることを自覚すれば、複製技術に関する意味批判能力を持つ専門領域として、日常的に芸術作品を問い、作家の思考を問う鍛錬から、市民の日常生活批判能力と接地し、文化現象を論じていくことができるだろう。
私はこんな意識を、美術批評家、東野芳明の1960年代のテキストの再読を通じて、ぼんやり考えていた。それを明確に主張すべきでないかと私が意識したのは、「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」展(府中市美術館、2011年12月10日〜2012年2月26日)を成相肇が企画したことによってだった。東野を媒介に、同時代の美術批評家、石子順造(1928〜1977年)の眼差しもまた、マスメディアに育まれた視覚文化、芸術と社会の接点で鍛えられた「知覚のボディ・ビルディング」だと思うのだ。
注
1──制定時は「文化芸術振興基本法」で、2017年に名称変更された。
2──第10条では「伝統芸能」、第11条は「芸能」、第12条で「生活文化」「国民的娯楽」が定義される。
3──クレア・ビショップ『人口地獄 現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年5月(原著2012年)。
4──本書第2部第7章《ポスト・ユニバーシティ・パック》を参照。
5──第1部第2章、第2部第5章、第3部第9章参照。
(この続きは、本編でお楽しみ下さい)
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