2020年10月24日発売予定『ドキュメンタリー・ストーリーテリング[増補改訂版]』では、ドキュメンタリーやノンフィクション作品をつくる際に必要なあらゆる知識が凝縮されています。旧版(弊社刊、2014年)の発売以来、日本でも多くのドキュメンタリー作家、物語創作者、ジャーナリスト志望者、報道番組関係者などが手に取り、作品づくりや構造分析の強い味方としての役割を果たしてきました。今回の増補改訂版では、想田和弘さんをはじめ、ドキュメンタリー作家の声を多数追加収録しています。インターネットにおける動画配信時代にも対応している本書。そのなかから、イントロダクションの一部を公開します。
イントロダクション
ドキュメンタリーとは何でしょう。ノンフィクション映像作品が好きな人たちの中には、自分たちが好きなノンフィクション作品はドキュメンタリーではないと主張する人が、少なからずいます。ドキュメンタリー作家の中にも、自分が制作するノンフィクション作品をドキュメンタリーと呼ばないでくれと言い張る人が大勢います。この人たちの定義にしたがうとドキュメンタリーというのは、小5の社会や中1の理科で見させられた退屈きわまりない映画を指すようです[日本なら記録映画という言葉がこの認識に当てはまるかもしれません]。アメリカでは「板書映画」と揶揄されるそのような作品は、無感情なドライさと、のべつ幕無しにしゃべり続けるナレーション、そして科学的事実の羅列のせいで、見るのも苦痛というのが一般的な認識です。このようなドキュメンタリーの類型があまりに強烈に私たちの意識に浸透しているので、経験の浅い映像作家や、主義主張の激しい作家の中には未だにこの型を真似てしまう人がいます。結果として出来上がるのは、ひたすらデータを読み上げて何かを証明しようと躍起になる、図解入りの講釈の域を出ない作品です。そういう退屈な作品がドキュメンタリー。だから私たちが好きな、革新的かつ豊かな想像力を駆使して観客の心をつかむノンフィクション作品はドキュメンタリーではない何が別のものに違いない。観客も制作者たちもそのように考えるにいたったというわけです。実はそれも、とても良くできた上質なドキュメンタリーなのですが。
そう、これらの上質なドキュメンタリー作品群は、まるで「フィクション映画」のようにキャラクターを重視し、キャラクター間の相克や、乗り越えがたい困難や挑戦、劇的な展開と結末が見る者の心を揺さぶります。観客を物語の世界にのめりこませて、普遍的な主題を探求する旅に誘い、観客がその映画を見るまでは気にも留めなかったトピックについて、考えずにはいられなくしてしまうのです。それでも、これらの劇的なドキュメンタリー作品は、ある力強い1点においてフィクション作品と異なっています。それが本当のことであるという1点において。その物語が、現実の世界に根差した事実に基づいているという重要な点です。
巧く語られたドキュメンタリーを観ると、とても楽々と作られているという錯覚を覚えます。他にやりようがないという必然性すら感じます。しかし、制作者に聞けばそれは気のせいだと教えてくれるでしょう。企画の萌芽から編集の終わりまで、すべての工程が、綿密で忍耐を要する大変な作業です。そして本書は、そうした制作に含まれるすべての工程を解説していきます。
ドキュメンタリーの定義
ドキュメンタリーとは何か。もう一度定義し直してみましょう。一般的に言って、実在の人物、場所、そして出来事といった現実を正確に切り取ったイメージによって、見る者を新しい世界、そして新しい体験へと導くもの、それがドキュメンタリーです。そうして描かれるのは、『黒い魚(Blackfish)』のように、捕獲され囚われの身ですごすうちに獰猛になってしまったシャチや、『未来を写した子どもたち』に登場する、閉塞的な環境の外に広がる世界を、カメラを手にすることで実感するコルカタの子どもたち、そして『戦争中継テープ(The War Tapes)』に登場する、イラクの戦場で戦闘の日々を送る自らにカメラを向けた兵士たちです。しかし、事実に基づいていればドキュメンタリーなのかというと、そうではありません。切り取られた事実の断片を、ドキュメンタリー作家が巧みに、何倍もの意味を持つように整理して並べながら物語を紡いでいく。それこそがドキュメンタリーの本質なのです。「ドキュメンタリー作家というのは、映像と音声の中に何か特別なものを見つけ出す情熱に駆り立てられて映画を作るのです。しかも見つけ出された何かは、自分の想像力で作り出すものよりはるかに優れているという自覚があるのです」。1974年に刊行された『Documentary』の中で著者のエリック・バーノウが言っているとおりです。「フィクションを創作する作家と違ってドキュメンタリー作家は、創作しないことに命をかけているのです。発見したものを選択して並べ替える行為によって、表現するのです」。
この「並べ替える」行為を可能にしてくれるのが、物語なのです。出発点は、ほんの小さなアイデアや仮説、または一連の疑問かもしれません。制作の流れの中で焦点が定まり、引き込まれるような序章、予想を裏切る中盤、そして腑に落ちるような納得のいく結末が見えたら、作品は完成です。その過程で、より深く自分が語っている物語を理解することができれば、自分が語ろうとする物語を、より効果的に、そして創造的に語る方法を見つけられるようになります。物語を理解していれば、登場人物への共感も深まり、より効果的なロケーションを選ぶこともできます。結果としてカメラが切り取る映像の力も増すのです。そうは言いながらも、先が読めないのがドキュメンタリー制作ですから、予想外の展開を追っていく心の準備も大切です。ドキュメンタリー制作の現場では予測不能な展開が避けられない以上、それすらも積極的に受け入れ、上手に利用しましょう。それこそが、あなたの作品を一層力強いものにする要素なのだと知っておくのは、強味になります。
The War Tapes (2006) Official Trailer # 1 – Zack Bazzi HD
ノンフィクション映画、またはビデオの題材としてのドキュメンタリー
序章で書いたように、ドキュメンタリーという名前で括られる映像作品は、内容的にも作風的にも多岐にわたります。最高のドキュメンタリー作品は、受け手を積極的にその世界に巻き込み、没入させる力を持っています。『ヴィルンガ』ではアフリカの国立公園を命がけで守る戦い。『ザ・スクエア(The Square)』ではカイロのタハリール広場で繰り広げられる映画制作者たちの潜入取材。そして『バックステージの歌姫たち』では音楽史に重要な貢献をしながら無名に留まったバック・シンガーたちの舞台裏。このような題材を扱った場合、ドキュメンタリーほど強い力で観る者を巻きこんでしまえるものは、他にありません。
ドキュメンタリーは作った本人をも驚かせるようなインパクトを持つことがあります。アカデミー賞候補『苦難の谷・ある中西部劇(Troublesome Creek: A Midwestern)』で自分が生まれ育った農場を競売にかけることになってしまった両親にカメラを向けたジーニー・ジョーダンとスティーブ・アッシャーは、この作品がオーストラリアの農業政策に影響を与えたと公開後に知らされました。アメリカ西部の水源と自然環境に起こっている変化を描いたジョン・エルズの『砂漠のキャデラック(Cadillac Desert)』は、政策方針の参考としてアメリカの議会で上映されました。アメリカ軍によるイランおよびイラクの捕虜収容施設内の暴力を暴いたアレックス・ギブニーの『「闇」へ』は、2008年の大統領選の最中に候補者たちによって繰り返し上映され、アメリカ陸軍法務総監部の研修にも使われました。作品が観客に対してこのような効果を持つためには、心の機微に触れる巧みな物語だけではなくて、公平で誠実な、信頼に足る内容によって観客の信用を勝ち取らなければなりません。
この本で詳しく見ていく物語を作るための仕掛けや技巧は、様々なメディアに向けて制作されたノンフィクション作品に適用できるものですが、ここでは主にテレビ番組、テレビシリーズ、または劇場長編の尺に当てはまる作品を例に説明していきます。文筆の世界では、事実に基づいた文章を文芸的な技巧を用いて書いていく人たちを指してクリエイティブ・ノンフィクション作家、その作品をノンフィクション文学と呼びますが、その例に倣って本書に登場するドキュメンタリー作家たちも「クリエイティブ・ノンフィクション映像作家」であるという認識で捉えたいと思います。
ヴィルンガ 予告編 – Netflix [HD]
(つづきは本編でお楽しみ下さい)
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現役のドキュメンタリー作家、関係者絶賛!
この本を読むまで“ドキュメンタリーの技法”とは いい素材を味付けせずにそのまま出すのだと思っていた。 しかし、素材の味を引き立たたせる、 絶妙な“切り方”が作品を魅力的にするのだと本書は教えてくれる。
東海テレビ・ディレクター 圡方宏史 (『ヤクザと憲法』『さよならテレビ』監督)
日本のドキュメンタリーが世界で通用するために 本書が格好の手引になることは間違いない。 国際映像プロデューサー 今村研一 (Tokyo Docsアドバイザー)
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