序文 デイヴ・アディのせいで締切を破ってしまった。
数年前のこと。わたしは『ニューヨーク』誌に翌日掲載される長い文章の書き直しを、何とか終わらせようとがんばっていた。どうしてそうなったかは覚えていないが――たぶんソーシャルメディア上で始まった、映画についての何かの議論のせいだろう――気づいたらわたしは、「Futura」だの「SF映画」だのをググっていて、何だかんだでしまいには、「タイプセット・イン・ザ・フューチャー」というウェブサイトにたどり着いていた。のちにこの本となるウェブサイトである。
そしてそこには、望みうる最高の発見がすべてあった。あまりに特別で魅惑的なので、このサイトはほんとうに実在するのか、それとも自分は夢を見ているのかと一瞬思ったくらいだ。
「タイプセット・イン・ザ・フューチャー」は、「未来」の概念を適切に伝えるためにSF映画がフォントをどう使用しているかについての、画期的なウェブサイトだった。それがサイトの第一の焦点であり、アディがこの中心的使命に対し、修道僧のごとく献身的に取り組んでいることはただちに見て取れた。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』をはじめとして、複数の古典SF映画について熟考をめぐらす彼は、画面をコマ止めし、細部をズームアップし、時には画像を傾けたりひっくり返したりしてよりよく見ようとする。タイトルや字幕を見、標識やマニュアルを見、コンピュータ・スクリーンやテレビ画面のテロップを見、単語と文を、パラグラフとパンクチュエーションを吟味する。文字の空きや間隔調整カーニングを、文字の飾りセリフまたはその欠落を分析する。書体タイプセットの統一されている単語に、別の書体の文字を1字だけ、監督がわざと挿入したらしい箇所を見抜く。そこには極めて専門的な技能が、いまだかつて見たこともないほどの途轍もなさで披露されていた。
次に時計を見たとき、4時間が過ぎていた。わたしは締切を破ってしまったことに気づいた。言い訳を考えねばならない。「一晩中フォントについて読んでいたから」というのでは、普通編集者は納得しない。
後悔はなかった。フォントについてアディが書いたものを読むとどんな気持ちになるか、熱狂という言葉だけでは足りない。それはスクリューボール・コメディについてのモリー・ハスケルの文章、ベースボールについてのロジャー・エンジェルの文章を読むのに等しい。
それはまた、今後の人生でこの人を懐かしく思い出すことになるだろうと、出会うやいなや気づくようなたぐいの教授の授業に出ることに似ている。現役のデザイナーがみなそうであるのと同様、アディも明らかに細かな知識をたくさん持っている。また彼は、自分の知っていることすべてを、そのことについてあまり知らない人に対して、簡潔に、ニュアンスをもって、ちょっとしたジョークもたくさん交えて説明するという、優れた教師の能力も持っていて、そのジョークの多くは、愛おしいほどベタである(第2章の始まりはこうだ。「朗報! みなさんが『2001年宇宙の旅』について読んでいるあいだに、『エイリアン』のタイポグラフィ分析が身ごもった」)。
優れた教師が持つ能力として、研究中のテーマから隣接テーマへとジャンプし、また戻ってくることを、話の流れを止めることなしに行なえるというものがある。アディはこれの達人だ。このスキルが見事に用いられているのを、みなさんもページをめくるごとに確認できるだろう。本書の各ページは、読むだけでなく見るものとしても作られており、画像とテキストはいつもタッグを組んで、あるひとつの意図を表現している。本書の多くの部分は、取り上げられた特定のSF作品『2001年』、「エイリアン」シリーズ、『ブレードランナー』、『月に囚われた男』、『スタートレック』のさまざまなヴァージョン)におけるタイプフェイスの使用を掘り下げているが、他の部分でアディはヴィジョンを押し広げ、時代、社会的慣習、デザインのクリシェといった問題をも取りこんでいく。取り上げられた各映画は、これらの問題と共鳴することもあれば、例外的存在としてはじき出されることもあるだろう。そして、議論の対象になっているものの実例は、ページ上に必ずちりばめられている。それらは、細部までじっくり味わえるよう印刷され、簡潔にして要を得た2行の要約、または巧みなキャプションが説明として添えられている。
これは非常にタイトに焦点を絞っている本なので、『スター・トレック』第1作のために特別に作られたフォント、Horizonのヴァリエーションについてや、「エイリアン」たちの話す言語の字幕としてしばしば使われるフォント、Pump Demiについて、何ページも費やして論じることもある。だが遊び心と柔軟性も持ち合わせていて、重要なプロダクション・デザイナーであるマイク・オクダへの長文インタビューも掲載しているし、話が脱線することもある。脱線先はたとえば、画面上でさりげなく示される疑似事実(『エイリアン』オープニングでの鉱石船ノストロモ号の説明など。アディはこれについて「伏線的目録」と述べている)が持つ語りにおける機能であったり、SF映画がいまなおぎざぎざした走査線をテレビ画面上に点滅させて、いまみなさんはテレビを見ているのですよと伝えることであったりする。実際はミレニアムの転換以降、テレビはこんなことをやってはいないのだが。
『2001年』が、映画におけるストーリーテリングとヴィジュアル・デザインの両方を前進させた、映画的ビッグ・バンだと位置づけた上で、アディはのちのランドマーク的作品を発表順に追っていき、他の映画監督たちがキューブリックの傑作から何を学び、どのように洗練させ、場合によってはどのように答えたかを明らかにする。アディが指摘するとおり、タイポグラフィに対する『2001年』の主たる貢献とは、タイプフェイスの使用法である。これはSF映画に深く影響を与え、そのためわれわれは現在、Eurostile が登場しただけで、物語の舞台が西暦何年であるかも語られないうちから、これは未来の物語だと感じるのだった。タイポグラフィにおけるのちの画期も、同様の仔細さで論じられる。たとえば『エイリアン』のオープニング・シークエンスがそうだ。タイトルが粉々になってスクリーン上で消えていき、再びいくつもの断片へと固まっていく。それはまるで「エイリアン」たちの言語が、われわれに読めるものへとみずから転換していくかのようだ。本書の他の部分でもそうだが、ここでもアディは、ひとつのつながりを示しただけで満足したりはしない。彼はこのひとつの観測を足掛かりとして、続く「エイリアン」シリーズすべてのタイトル・シークエンスや、『エイリアン』のようになりたがっている他の映画のタイトル・シークエンスを論じ、シークエンスに何か新しいものをもたらしているかどうか、別世界の概念を伝えられているかどうかに応じてランクづけさえしていく。
本書はSFのストーリーテリングと映画のデザインについての、優れた批評アンソロジーでもある。西洋の観客が自身をどう見ていたか、みずからの終焉をどのように想像していたかについてのひそかな歴史書でもある。人気映画にまつわるゆかりのものや商品、広告のスクラップブックでもある。そのすべてをまとめ上げているのが、著者デイヴ・アディの生き生きとした飽くなき熱情だ。この著者は、自身が選んだテーマに没頭するあまり、とうとうディスカバリー号の正面に、未修正のEurostile Bold Extendedで「1」と書かれているのを、すなわち「宇宙艦隊公式字体のルール」への明白な「違反」を発見してしまった。何ものもこの男の目を逃れることはできない。探偵であれば、事件解決率は100パーセントだろう。
強めの言葉が出てきたこのあたりで筆を置くのがよさそうだ。でないとまた締切を破ってしまう。この宝物のような本を、ぜひともお楽しみいただきたい。
マット・ゾラー・サイツ
ニューヨーク、ブルックリンにて
(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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