今回のためし読みでは、本書の「はじめに」を全文公開いたします。
はじめに
なぜ今、京大的文化を?
入試の季節に登場する折田先生像、タテカンが並ぶ石垣上のカフェ、あるいは伝説的なライブや演劇の場となった西部講堂、食堂をイベントスペースとして開く吉田寮など。京都大学には面白い空間や一風変わった風習がたくさんあります。これらを「京大的文化」と呼び、「実は、学問の自由を真剣に追求するがゆえの副産物ではないか?」という仮説のもと、きまじめに探求した結果を事典風にまとめたのが本書です。
わたしは、1990年代に同志社大学で学生生活を送り、吉田寮食堂や西部講堂などで何かあるたびに遊びに行っていました。同志社と京大は、自転車で鴨川を渡って10分ちょっと。百万遍の交差点まで来るといつも、胸の奥まで空気を吸い込みたくなるような解放感がありました。行き交う京大生たちの間をすりぬけて右折すると、イベントがないときには眠っているような西部講堂があり、時計台前につづく東一条通り、ハモニカBOXの裏、吉田寮がある近衛通りとどんどん空気の色が変わっていくのです。吉田寮のうっそうとした銀杏並木で自転車を降りるとなぜかいつもホッとしました。キャンパスではしょっちゅうやぐらに遭遇するし、こたつを出してお酒を飲む人もいるし、タテカンの種類と数ときたら圧倒的。いわゆる〝ふつう〞の学生や教職員さえ、どこかでそれを面白がっているという意味で共犯的に見えました。わたしが百万遍で感じていたのは、こうした京大のカオスな生態系が醸し出す空気、だったのかもしれません。
大学を卒業してからも、百万遍の交差点を通りかかると、その空気をふっと捉えていました。そして、「世の中がどう変わろうとも、京大だけはあのままなんやろな……」と勝手に思っていました。タテカンが強制撤去されたときでさえ、学生と京大当局の〝いつもの攻防戦〞が終わったら、タテカンは復活するだろうとたかをくくっていたのです。
どうやら風向きが変わりつつあることを認識したのは、本書の編集者・臼田桃子さん(2000年度生)からメールをもらったとき。国立大学法人化が行われて以降、「日常の風景だった京大の自由な雰囲気が変わってきているのを感じていた」という彼女の言葉にどきりとしました。とにかく一度、ひさしぶりに京大に行ってみよう――吉田寮から吉田南構内、時計台のある本部構内へと歩いてみると、たしかに「自由な雰囲気」の濃度が薄くなった気がします。一方で、折田先生像はいまだ健在で、吉田寮や熊野寮の寮祭はあいもかわらず一週間以上やっているようです。今のうちに、京大的文化とその根っこにある大学自治とのつながりを伝えたいと思い本書をつくりました。
同時に、京大的文化を生み出してきた、京大の「自由」という土壌を問い直したいとも思いました。いま、京大で起きていることは、個別京大だけの問題ではなく、日本社会、ひいてはこの世界の不自由さと地続きになっているはず。京大的文化の源流をたどり、現在起きていることを見ていくことは、「わたしたち自身はどうありたいのか」「どんな世界をつくりたいのか」を問うことにもつながると考えています。
とはいえ、まもなく創立125年を迎える京大のすべてを扱うのはさすがに手に余ります。そこで、本書の取材執筆をするにあたり、大きなルールを設定しました。まず、わたしが知る1990年代を起点として現在に至るまでの京大的文化を中心に扱うこと。卒業生・学生への取材は、原則として89年度生以降を対象とすること。テーマは場と空間を軸とすること。そして、過去の記録としてではなく、あくまで「現在を問うもの」として書くことです。
読み物として楽しんでもらえるように、京大的文化の歴史とその展開のプロセスを追うかたちで構成しましたが、「こたつ」とか「タテカン」とか、目次から気になる項目を引いて事典として使ってもらうのもアリです。それぞれに自由な読み方をして、いろんなふうに面白がってもらえたらうれしいです。
(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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