私の物語と別れるための回想 少年期から『風の電話』まで
映画は我らのもの
2019年の6月、フランス、パリのシネマテーク・フランセーズに世界の子供たちが集まってくる。フランス、スペイン、ポルトガル、リトアニア、チリ、ブラジル……さまざまな国の小学生、中学生、高校生たちは「映画を我らに!(A nous le cinéma !)」と題された上映会のために、自分たちの作った映画を携えてここにやってきたのだ。もう20年以上も繰り返されてきたこの光景は、シネマテーク・フランセーズが主催する子供たちのための映画教育プログラム「映画、100歳の青春(Le Cinéma, cent ans de jeunesse)」(以下CCAJ)(*1)のクライマックスである。CCAJでは、毎年共通のテーマが設定され、子供たちはそのテーマに基づいて映画を鑑賞しながら、最後に10分の短編映画を制作する。今年のテーマは「シチュエーション」。過去には「場所と物語」「フィクションの中の現実」、「演技(遊び)」といった興味深いテーマが選ばれてきた。私も日本から九人の中学生を連れてパリを訪れた。これから3日間、シネマテークの巨大なスクリーンに子供たちの映画が映し出され、各上映後には質疑応答が行われる。
16日間のワークショップで日本チームが作った映画『扉の向こう側』は、学校の中のいじめの構造を題材にした物語で、クラスを牛耳るいじめっ子の男の子と、いじめられ役を抜け出せない男の子、そしてその関係にくみしない転校生の男の子という三人のシチュエーションとその変化を描いている。上映を終えると、皆はスクリーンの前に並び、場内からの質問を受ける。最初の上映。大人であろうと子供であろうと、映画を作った者にとって最も緊張する場面である。会場の雰囲気から、彼らの作品が観客である子供たちに強いインパクトを与えたことがわかった。ゲストとして客席にいた女優のジャンヌ・バリバールが「とても感動的で、重要な作品。みんなが扱ったシチュエーションは、乗り越えることの難しい問題ですが、いろいろなことを考えさせる作品でした。ブラボー」と評し、同じくゲストのサンドリーヌ・ボネールが「俳優の演技が素晴らしい。誰が演技指導をしたの? 誰が監督?」と子供たちの中に監督を探した。「私たちは、みんなが監督というルールでやりました」とひとりの女の子が答える。「それに、誰かが演技指導をしてしまうと堅苦しい演技になってしまうから、状況と感情だけ伝えて、俳優が無限大に自分を表現することに頼りました」と続けた。別の男の子が言う「俳優の人も脚本作業に入ってきて、みんなで脚本を作っていました」。おそらく「監督がいない」「みんなが監督」という答えはサンドリーヌのみならず、会場にいた者に小さな驚きを与えた。特にヨーロッパにおいて、監督こそが映画の作者であるという神話は根強い。私は、中学生たちの堂々とした応答を誇らしげに聞きながら、彼らの混沌とした、しかし創造的な制作現場を思い返した。本当に皆が寄ってたかって、あれこれ議論しながら全員で監督をしていたのだ。もしかすると、あれは私が長い間理想とし、いまだに実現できていない映画制作の現場だったのかもしれないと思った。
2010年頃、私は金沢でスタートした映画ワークショップ「こども映画教室」(*2)に講師として招かれたことを機に、子供の映画教育に関わるようになった。私のワークショップでは、監督とか撮影といった役割分担をしない。脚本は書かないで即興で演技する。このふたつをルールとして決めた。それ以外は自由で、大人は手出し口出しをしない。全てを子供に任せることが「こども映画教室」の鉄則だった。多くの映画教育では、まず役割分担を教える。しかし、役割を決めてしまった途端、子供たちのコミュニケーションは変わる。「監督がどうするのか決めて」と、決断は監督役に委ねられる。「それはそっちの仕事よ」と、監督とカメラマンとか、俳優と脚本家とかそれぞれの役割の中に閉じこもってしまう。私は、「私」と「あなた」という人間同士の関係の中で映画を作ってほしかった。役割を外すと、意思決定のシステムはなくなり、制作現場は混沌となる。皆の意見はバラバラで、簡単にまとまりはしない。しかしその果てしない議論の中で、皆の中にはしっかりと自分たちの映画のイメージが出来上がってゆくのだった。誰かの映画ではなく、私たちの映画だ。シナリオは書かれていないが、皆の頭の中にシナリオが共有されてゆく。脚本を書いてしまうと、俳優は誰かが書いたその人物を一所懸命に演じようとする。しかし、なぜその台詞を言わなくてはいけないのかを考えることはない。監督に指示され、言われたように動く。一方ここでは俳優は皆自分で動く。誰に指示されることもなく、自らの表現として考え、演じながら映画を作ってゆく。彼らの演技が素晴らしいのは、サンドリーヌ・ボネールが想像したように、素晴らしい監督がひとりいたからではない。参画したひとりひとりが皆自分自身の主となって表現したからだと思う。
2002年、恩師であり、孤高の映画研究者であり、映画作家であった中川邦彦氏(*3)から「一緒によりよい社会を作りましょう」というまっすぐな殺し文句で口説かれて、私は母校東京造形大学に助教授(現、准教授)として着任し、映画教育に関わることとなった。映画を「教える」立場に立つことを想像したことはなかった。映画を教えるとは何か? 東京造形大学において、私たちは、映画を「教える」という立場を否定した。自分の現場での経験を伝授する職能教育も否定した。ユニークな作品を作り出すことを最上の価値とする作家主義の立場も取らなかった。芸術家という特別な存在が、素晴らしい作品を生み出すという、クラシックな芸術の神話から映画を解き放ち、映画を作ること、見ることをさまざまな出会いの契機として、よりよい社会づくりのために機能させようと本気で考えていた。私たちは学生の傍らでともに映画について考えたが、プロになるために必要なことは何も教えなかった。
あるとき(2009年)、学生たちが『アマチュア 人生×映画』というタイトルで自分たちの作品の上映会を開いた。奇妙なタイトルだ。アマチュア映画、あるいは学生映画とか子供映画と呼ばれる映画は、映画ではないもの、それよりも劣るもの、という差別的ニュアンスをまとっている。人は、「学生にしては面白い」とか、「子供にしてはよくできている」と言い、「しかし、それは本物の映画ではない」と思っている。学生音楽とか、子供音楽とは言わないのに、なぜ映画だけが?
学生たちは、上映会のパンフレットにこう書いた。「僕たちにとって『アマチュア』という言葉は、ひとつの態度であり、映画を映画で完結させないための決意なのだ」と。確かに映画作品としての完成度よりも、作る過程を大切にした作品たちだった。友達と作ること、家族を映画作りに参加させること、つまり仲間内と非難されるかもしれない関係をポジティブに捉え、むしろ誇らしげに自分たちは「アマチュアである」と宣言したいようだった。
そのパンフレットに私は次の言葉を送った。
「映画は我らのもの」
映画を作ろうと思い立った時、誰もが『それは自己満足である』と非難されることを恐れ、映画に何かを付け加えようとする。
どこかで見たようなテクニック、人を欺く予想外の展開、非日常的な悪意や暴力、奇抜なアイディアや映画的な趣味を駆使し、飾り立て、映画を撮ろうと思い立った自分の貧しさを覆い隠そうとする。
しかし、そのようにして作られるたくさんの映画は、誰のために何をしようとしているのだろう?
ここに集められた映画は、徹底的に貧しさに留まろうとする。
日常の些細な感情のささくれ、目的も動機も定まらない行動を支える微弱な感情、ことさら暴力に訴えかける必要のない無自覚な孤独や世界との断絶。
そんなちっぽけなものさえあれば映画は可能なのだ、と宣言するように。
『映画を作るとは、自分のやり方で自分の人生を救うことなんだ』というゴダールの言葉が、彼らの作品の底に響いている。
だから、人生を共に生きる仲間や、家族と映画を作る必要がある。
監督の仕事、カメラマンの仕事、俳優の仕事などと役割で分業されたプロフェッショナルなシステムが必要なわけではない。
必要なのは「私」と「あなた」で映画を作ること。
映画を作ることで「私」と「あなた」の関係を「世界」へと折り返し、
生きることをリサーチすること。
その必要性において、映画が作られる時、映画は自己の世界を超えて、
豊かで、強靭なイメージを獲得するだろう。
彼らの映像が決してナイーブで独りよがりなものではなく、クリスタルのような強さをたたえる一瞬があるのはそのためである。
映画はか弱きものの側にある。映画は我らのものである。(*4)
おそらく私は、「彼らの映画」を「私の映画」に置き換えたかったのだろう。彼らのように映画を撮るべきだと、自分に言いたかったのかもしれない。
1997年の『2/デュオ』から始まって、『M/OTHER』『H Story』『不完全なふたり』『ユキとニナ』『ライオンは今夜死ぬ』そして2020年の『風の電話』と、私は七本の長編映画を監督した。半日もあれば、私の全ての作品を見ることが可能だし、撮影日数を合わせてもおそらく半年にも満たないが、それらの映画を作り出すのに20年以上の時間が必要だった。その間の膨大な時間、私はどのように生きていたのだろう? 単に怠惰だったのかもしれない。しかし教育に関わること、映画について考えること、映画について話すこと、言葉を書くこと、人と出会うこと、それらの時間もまた私は映画を作っている、と言えるような気もする。長い時間をかけて一本の映画を作っているのかもしれない。そしてそれはまだ完成していない。おそらく完成する日はこないであろう。
ひとつ作品を作るごとに、監督はさまざまな問いに晒される。「どうして長回しで撮影するのですか?」「俳優に即興演技をさせるのはどうして?」「なぜこの俳優を選んだのか?」「どんな意図があって?」「どういう意味?」と問われる。私は答えを探す。「映画は作品そのものが語ればよいのであって、監督が語るべきではない」と言う人もいる。「諏訪さんは、自分の作品について喋りすぎ」と言われたこともある。そうかもしれない。しかし私は喋ることを選んだ。本当は答えようのないそれらの質問に、なんとか答えを探してきた。私は間違っているのかもしれない。しかしそれは、いくら私が喋ろうとも、本当の作者は私ではないからであり、私が話したとしても作品の謎は消えはしないという確信があるからだと思う。私が黙ってしまえば逆に、作品の謎は全て私の中にあるのだという監督の特権的なイメージを補強してしまうことになる気がするのだ。私はむしろ私の考えうることを全て語ろうとした。それをオープンにすることで、観客である人と作り手は対等に対話することができると思うのだ。監督である私が作品について発言することが、観客や作品にどのような意味を与えるのか私にはわからない。自分の作品をこんな風に見てほしいという解説を述べる気などは毛頭ない。しかし、私には話す必要があった。私の作品は私にとっても謎であったから。
註
*1 「映画、100歳の青春(Le Cinéma, cent ans de jeunesse)」については本書296頁「こどもが映画と出会う時 「こども映画教室」から「映画、100歳の青春」へ」を参照。公式サイト:https://www.cinematheque.fr/cinema100ansdejeunesse/en/
*2 「こども映画教室」は、2004年に金沢コミュニティシネマ等主催で始まった映画体験ワークショップ。現在は一般社団法人として全国各地で映画鑑賞、制作ワークショップを展開している。活動の詳細は土田環編『こども映画教室のすすめ』(春秋社、2014年)および、同書所収の土肥悦子「すべては『100人の子供たちが列車を待っている』から始まった」に詳しい。公式サイト:https://www.kodomoeiga.com
※3 中川邦彦は映画研究者であり、映画作家。主な著書に『難解物語映画―アラン・ロブ=グリエ・フィルムスタディー』(高文堂出版社、2005年)、主な共著に『芸術の記号論』(勁草書房、1983年)がある。監督作品は 『距てられた部屋、あるいは…』(1975年)、『セラボンヌ、疑わしいわたしの八月』(1979年)など。
※4 諏訪敦彦「映画は我らのもの」、『東京造形大学映画専攻2008年度卒業研究作品展「アマチュア 人生×映画」』パンフレット、2009年