非対称な「入れ替わり」と「当事者性」―『君の名は。』
藤津亮太
八月二六日から公開された新海誠監督の『君の名は。』が歴史的なヒットを記録している。公開から一月余りで興行収入は一二〇億円を突破。宮崎駿監督作品以外で、一〇〇億円を突破したアニメ映画は史上初だ。
この映画は高校生の男女の心が入れ替わるところから始まる。東京で暮らす男子高校生・立花瀧は、ある朝、自分が山深い小さな町の女子高生になっていることに気づく。一方、東京に憧れる田舎の女子高生・宮水三葉も、自分が東京の男子高生になっていることに気づく。どうやら二人は夢の中で入れ替わってしまったらしい。
入れ替わりは週に二、三回、眠ることで発生する。元の生活に戻ると、入れ替わっていたときの記憶は次第にぼんやりと夢のようになってしまう。二人は入れ替わっている間の行動を、互いに携帯にメモを残すことで、なんとかこの奇妙な入れ替わり生活を乗り切ろうとする。
ところがある日を境に、入れ替わりが起きなくなる。どうしてなのか。入れ替わりの唯一の証拠だった携帯電話のメモも、瀧がアプリを開いた瞬間に目の前で消えていく。瀧の入れ替わりの記憶もどんどん薄れていく。一体、三葉との入れ替わり体験とは何だったのか……。
『君の名は。』がこれまでの新海監督作品とどこが違って、どこが共通なのかを知るには『秒速5センチメートル』と比較するとわかりやすい。二〇〇七年公開の『秒速5センチメートル』は、その時点での〝新海誠全部入り〟で、多くの人に「非常に新海監督らしい作品」として認識されている。このあたり〝ベスト盤〟を意識した『君の名は。』とも微妙に呼応している。
一番違うのは、作品の持つ空気感。『君の名は。』の前半は、瀧と三葉の入れ替わりで起きるあれこれを、コミカルにテンポよく積み重ねていく。静かなモノローグで叙情たっぷりに進行する『秒速5センチメートル』とは、方向性がまったく違う。
実は新海監督は短編アニメ「猫の集会」というギャグタッチの作品も作っており、これまではあまり知られていなかった新海監督のユーモアのセンスが『君の名は。』の基調にあるのは非常に新鮮だ。
このコメディタッチが、シド・フィールドの脚本術でいうところの中盤の折り返し点・ミッドポイントを越えたところでガラっと方向が変わる。ここから瀧は、三葉と入れ替わったときのかすかな記憶をたぐり、三葉の実在を確かめようとする。
この後半の展開は、要素だけ見ると、それまでの新海作品と共通する部分は多い。新海作品は、まず「実体のない喪失感」があり、その「喪失を取り返そうとアクションを起こすが、やはり最終的には喪失する」という構図が繰り返されている。『雲のむこう、約束の場所』や『秒速5センチメートル』第一話「桜花抄」、『星を追う子ども』がそれにあたる。『君の名は。』の瀧が、薄れゆく記憶の中で三葉を求めていき、ひとつの答に至る流れはまさに、この要素にぴったり当てはまっている。だが、瀧が大きく違うのは、その喪失感を抱えて立ち止まるのではなく、そこに強く抗う点だ。この抗う行為が作品の熱量を高め、初動を支えた十代の観客の心を動かしたのだろう。
このように『君の名は。』は、これまでの新海作品の要素を踏まえながらも、新しい印象の新海作品として完成しているのだ。なのでしばしば〝ベスト盤〟と説明される本作だが、むしろ新アレンジ、新録音によるセルフ・カヴァーアルバムといったほうがより実態に近いと思う。
非対称な入れ替わりストーリー
『君の名は。』の予告は、映画前半の入れ替わりのくだりに焦点を絞って編集してある。これは中盤以降の展開について映画館で驚いてもらうための、いい意味でのミスリードを誘う狙いがあり、その狙いは見事に成功していた。あの予告を見た一定世代以上の多くは、山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』を原作にした大林宣彦監督の『転校生』(一九八二)を思い出したのではないだろうか。
新海監督は、この「入れ替わり」を使った前半について、「決して〝入れ替わりもの〟を描きたかったわけではない」とインタビューで話している(http://video.unext.jp/feature/cp/shinkaimakoto/)。描きたかったのは、「手を伸ばし合う思春期の2人のドラマ」で、その導入として、二人のドキドキわかりやすく伝えるために選ばれたのが「入れ替わり」というシチュエーションだったという。
この新海監督の狙いは、映画を見ればよくわかる。あの「入れ替わりもの」の部分を強調した予告のイメージで映画を見ていると、いい意味で裏切られるのが『君の名は。』だからだ。
逆にいうと「入れ替わりもの」のように始まって、そうではない方向へとスライドしていくのが本作の特徴というべきで、いわゆる「入れ替わりもの」と比較することで、その特徴が浮き彫りになるのではないだろうか。
では、そもそも「入れ替わりもの」というのはどこまで遡れるのだろうか。
調べてみると、『おれがあいつであいつがおれで』以前に二つほど「入れ替わりもの」の作品があることがわかった。
まずひとつはサトーハチローが戦前に書いていたという『あべこべ物語』。これは小学校六年生の妹と旧制中学二年生の兄の心が、不思議な玉の力で入れ替わってしまうという内容だったそうだ。
もうひとつは、一九七一年に光瀬龍が「高一コース」に連載した『あばよ!明日の由紀』。こちらは、高校一年生の戸沢章二が、同級生の人気者に振られるところから始まる。失恋した章二はその晩、美人に生まれ変わって男を振ったら気持ちがいいだろう、と思いながら眠りにつく。ふと気づくと、章二は由紀という少女になってホールでゴーゴーを踊っていた。その後、章二と由紀は、入れ替わりの原因と思われる降霊術師ルイ=オサリバンの屋敷に潜入することを決める。中編なのであっさりとした内容だが、それでも「親の前で他人のふりをする苦労」や「異性(女性)になったことで見えてくる憧れていた相手の欠点」といった、『おれがあいつであいつがおれで』とも共通する要素もいくつか書かれている。
そして、このジャンルを代表する『おれがあいつであいつがおれで』。「小六時代」で七九年から連載された作品だ。主人公斉藤一夫の一人称で書かれた本文は非常に生き生きしていて、グイグイと読者を引っ張っていく。これは確かに世代を超えて読み継がれるだけの魅力のある小説(児童読み物)だと、今回読んでみて実感した。
本作が魅力的なのは、男女で心と体が入れ替わってしまったことで起きる下着やトイレ、生理にまつわる問題を、ことさら構えずに、でもしっかりと書いているところだ。そこから「他人を知り、自分を知る」という主題がはっきり浮かび上がってくる。
さて「入れ替わりもの」三作を振り返ってみたのだが、この三作品と『君の名は。』では大きく違うところがある。
『あべこべ物語』は不思議な玉、『あばよ!明日の由紀』は降霊術師、『おれがあいつであいつがおれで』は身がわり地蔵と、二人とは無関係の第三者的要素によって「入れ替わり」が起きた(らしい)ことになっている。
だが『君の名は。』は違う。この作品で描かれる入れ替わりは、三葉(の一族)が持っている特殊な能力によって引き起こされているのだ。しかも作中の断片的な描写から想像するに、その特殊な能力は、千二百年に一回繰り返されてきた、ティアマト彗星のカケラが落下するというカタストロフから地域の人々を守るために伝わってきた能力らしい。
つまり、『君の名は。』で描かれた「入れ替わり」は、(本人は自覚していないにせよ)三葉側に理由があり、瀧はその能力に一方的に巻き込まれたのだ。この非対称な入れ替わりこそ、先行する「入れ替わりもの」と大きく異なる『君の名は。』の最大の特徴といえる。
ちなみに本編では、入れ替わりで生じるさまざまな齟齬はあくまで点描の範囲に留めて描かれている。本編を補完する短編集『君の名は。AnotherSide:Earthbound』(加納新太)の中の一編「ブラジャーに関する一考察」を読むと、そのあたりがフォローされていて、本編以上に「入れ替わりもの」っぽい仕上がりになっている。印象的なのは、瀧が三葉の体の華奢な作りや、筋力不足、柔軟性の高さに「微妙な違和感」を感じる描写があるところだ。
そして、この非対称な関係の入れ替わりが本編の中でどういう意味があるのかを考えていくと、本編の中に、少しだけ感じられたトゲのような違和感もまた氷解する。
トゲのような違和感とは、ティアマト彗星のカケラが三葉の住む糸守町を直撃する、というカタストロフの描き方だ。大勢の人の命を奪った天災という点で、この出来事は東日本大震災を思い起こさせる。
映画の中で瀧は、自分が入れ替わっていた相手が三年前の三葉で、彗星のカケラの直撃で既に死んでいることを知る。それを知った瀧は、なんとかもう一度入れ替わることで、三年前のカケラの直撃で死んでしまった三葉たちを救おうとする。
現実に起きてしまった東日本大震災は絶対になかったことにできない。ところが瀧は彗星のカケラの直撃をナシにしてしまおうとする。それは現実の震災を考えたときに、いささか踏み込み過ぎではないだろうか。そもそもそういう描写をされているカケラの直撃を直線的に東日本大震災と結びつけていいものだろうか。それがトゲのような違和感の正体だ。
だが、本作の特徴が入れ替わりの非対称性にあるということに気づいたとき、この違和感を解く手がかりが見えた。『君の名は。』は三葉を主人公と考えると、さまざまな描写が明確になるのだ。三葉を主人公と考えると、この映画のストーリーは「村の危機を救うための能力を持った少女が、その能力を使って未来の手助けを借り、目の前の危機を乗り越えようとする」というものになる。三葉からすればこれは「過去の書き換え」ではなく、カタストロフの当事者として「未来の可能性」をつかもうとする戦いなのだ。
ここで気づくのは、三葉の中に入った瀧が、三葉の父である町長に避難を頼みに行ってもうまくいかなかったという事実だ。町長に町民の避難を決意させたのは結局、再度父親の前に立った三葉本人である(ことがほのめかされている)。サスペンスを盛り上げるため、その説得シーンは具体的に描写はされていないが、三葉は(瀧の力を借りつつも)当事者として自分の力で未来をつかみ取ったのは間違いのないことのように思う。
では、三葉が主人公なのに、どうして瀧というキャラクターが必要だったのか。
三葉が当事者であるのに対し、三葉の能力に巻き込まれた瀧は、極めて当事者に接近しながらも、最終的には無力な非当事者でしかありえない。三葉と瀧の非対称な入れ替わりは、そのまま当事者と非当事者という非対称な関係を表しているのだ。そして瀧が代表する無力な非当事者の立場は、東日本大震災のときに、言葉を失いながらテレビを見ることしかできなかった、多くの人々の立場と重なる。
非当事者の瀧にできるのは(若干の手助けを除けば)後は、「忘却に抗うこと」だけなのだ。三葉という当事者がそこに生きていたことを忘れない。かくして瀧の孤独な抵抗は「君の名は。」というタイトルへと収斂していく。もし『君の名は。』が東日本震災にまつわる何かを切り取っているとしたら、三葉と瀧の関係の非対称性にこそ宿っているはずだ。
映画はハッピーエンドで締めくくられる。それはエンターテインメントだから当然の結末だ。だが、三葉が死んでしまった世界線で生きる瀧は、三葉の面影を雑踏の中に探すことはないのだろうか。三葉という言葉を忘れても、「大事なことを忘れてしまった」という感覚は残るのではないのだろうか。実はこの映画で描かれている「当事者と非当事者が入れ替わりによって結ばれてしまう」というストーリーにおいて、三葉の生死はさほど大きな問題ではない。ここで大事なのは、縁が結ばれてしまった以上、忘れることはできない、という感覚なのだ。
こうしてみると『君の名は。』は確かに「入れ替わりもの」ではない。でも「入れ替わり」という要素を巧みにストーリーの中に織り込んだ作品ではあったのだ。
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