ピナ・バウシュ
1940~2009
ピナ・バウシュはモダンダンスの可能性を広げたドイツの現代舞踊家で振付家だ。幻想的なシーン、凝った舞台セット、演劇のような長台詞、ダンサー同士の会話などを取りこんだ「タンツテアター」〔ダンス演劇〕と呼ばれる彼女の舞台は、舞踏芸術の世界に大きな影響を与えた。よく知られた話だが、バウシュは1970年代末から、舞台制作にあたって、ダンサーに質問し、答えてもらうというプロセスを経るようになった。さまざまな問いによって、ダンサーの記憶や日常生活の様子を引き出し、新しい作品のベースにするのだ。バウシュとつきあいの長いダンサーは、次のように説明している。「ピナはいろいろなことをきいてきます。ひとつの単語やひとつの文章をいうだけの場合もある。それぞれのダンサーは考える時間を与えられ、それから準備をして、自分の答えをピナに見せます。踊って答えてもいいし、言葉で答えてもいい。ひとりで答えても、誰かといっしょに答えても、小道具を使っても、みんなといっしょにやっても、どんな形でもいいんです。ピナはそれを全部見て、メモを取り、考えます」。バウシュにとってそれらの問いは、自分ひとりではアクセスできないアイデアを手に入れるための方法だった。「〝問い〞は、ある主題に慎重に近づくためにある」バウシュはそう語っている。「それは制作のための、とてもオープンな方法であり、正確な方法でもある。そのおかげで私は、ひとりでは思いつかないような、たくさんのことに気づける」。バウシュがつねに求めていたのは、簡単に意味を明らかにできないもの、本人の言葉によると「頭ではっきりわかるものではなく、ぴったりのイメージをみつけること。そういうものは言葉では言い表せないけど、見たらすぐにわかる」のだという。
このプロセスの外側にいる者は、バウシュの仕事ぶりをみると気が滅入ったかもしれない。「彼女は途方もない苦悩を経験するんだ」2002年、バウシュのパートナーのロナルド・カイは『ガーディアン』紙にそう語っている。「うちに帰ってきたときは、燃えかすみたいになっている。僕はそれを遠くから見守るほうがいいと学んだ。その苦悩から完全に離れていること。彼女のために僕ができるのはそれくらいしかない」。そのあとカイは、バウシュが新しい公演の下稽古をしているときのスケジュールについてこう話している。
彼女は朝10時から稽古場で仕事をする。稽古は夜まで続き、帰ってくるのは午後10時ごろ。れからいっしょに食事をして、彼女はそのまま午前2時か3時ごろまで起きている。作品の意味とか、なにを残せばいいかとか、大事な部分はどこかとか、いろいろ考えてるんだ。そして朝は7時か、もう少し早くに起きて準備をする。そんな状態で、どうやってかわからないけど、いつも同じエネルギーを維持している。
バウシュ自身、そのエネルギーの源について説明するのに苦労していた。新しい舞台を作ることになると、まず感じるのは、意気ごみではなく絶望だと彼女はいっている。「だって、計画も、脚本も、音楽も、セットも、なにもないんだから」
それなのに、初演の日取りだけは決まっていて、時間はちょっとしかない。だから私はこう思う。舞台作品を作るのはちっとも楽しくない。二度とやりたくない。毎回、拷問のようだ。なんでこんなことやってるのだろう。こんなに長年やっていて、いまだにうまくできない。毎回、一から始めなくてはいけない。ほんとうに大変。いつも、自分が望んでいることをやり遂げられる気がしない。なのに、初演の日が過ぎるか過ぎないうちに、もう新しい舞台の計画を練っている。そのパワーはどこから来るかって? そう、大切なのは規律を守ること。とにかく仕事をやり続ける。そうしたら突然、なにかが湧いてくる――なにかちっぽけなものが。それがどう化けるかはわからない。でも、誰かが明かりをつけようとしているみたいに感じる。すると、また勇気が湧いてきて、仕事をやり続けられるし、またおもしろくなってくる。それか、誰かがなにかすばらしいことをやってのけると、そこからパワーがもらえる。一生懸命やり続けるだけじゃなくて、どうしてもやりたいという情熱も出てくる。それは内側から湧いてくる。
フリーダ・カーロ
1907~1954
「私はこれまでに二度、ひどい事故にあった。一度目は路面電車との衝突。二度目はディエゴと会ったこと」メキシコの画家、フリーダ・カーロはかつて友人にそう語っている。カーロは1929年にディエゴ・リベラと結婚した。そのときカーロは22歳、リベラは42歳で壁画家としてすでに名を成していた。カーロが絵を描き始めたのはその4年前、路面電車との衝突という恐ろしい事故によって背骨を骨折、骨盤と片足の骨も損傷するという大けがを負ったあとの療養期間中だった(ベッドでも描けるように特別に作られたイーゼルを使って、独学で絵を描き始めた)。結婚後の数年間、カーロはリベラの仕事について、サンフランシスコ、デトロイト、ニューヨークなどを転々とする。リベラがそれぞれの場所で卓越した壁画を仕上げるいっぽう、カーロは画家として腕を上げながら、故郷へ帰りたいと願っていた。1934年、リベラはしぶしぶカーロの願いを聞き入れ、メキシコシティへ戻る。そこでふたりは建築家のファン・オゴールマンに依頼して、サンアンヘルの高級住宅地にモダニズム住宅を建てた。その住宅はカーロとリベラそれぞれの家から成り、ふたつの家は屋上に取り付けた橋でつながっていて、背の高いサボテンに囲まれていた。カーロの伝記を書いたヘイドン・エレーラは、サンアンヘルでのふたりの日常を次のように要約している。
フリーダとディエゴの仲がうまくいっているとき、ふたりの一日は、フリーダの家での朝食から始まる。それは遅く始まって長く続き、その間、ふたりは郵便物を読んだり、お互いの予定を調整したりする――どちらが運転手を使うか、どの食事をいっしょにとるか、ランチには誰が来るか、といった具合だ。朝食後、ディエゴは自分のアトリエへいくが、ときどきスケッチをしに郊外へ出かけて、帰りは夜遅くなることもある。[……]
フリーダも朝食後にときどき二階にある自分のアトリエへいくが、毎日絵を描くわけではなく、何週間もまったく描かないこともある。[……]彼女がよくするのは、家事が一段落したあと、運転手つきの車でメキシコシティの中心部へいき、友だちに会うことだ。
カーロの友人のひとりでスイス生まれのアーティスト、ルシエン・ブロッホは日記にこう書いている。「フリーダは規則正しく仕事をするのにとても苦労している。スケジュールを決めて、学校でするようにきちんとしたいと思っているのに、いざやらなければならない時間になると、必ずなにかが起こって、もうその日はだめ、となってしまうのだ」。カーロとリベラの良好な関係が決して長く続かなかったことが、それに拍車をかけた。ふたりの関係は、金銭的な問題が絶えなかったことや、互いに浮気を繰り返したことなどが原因で悪化していった。リベラの浮気相手にはカーロの妹もいて、カーロの浮気相手にはソ連からメキシコに亡命していたレフ・トロツキーがいる。カーロの有名な作品の多くは、集中的に仕事をしていたふたつの時期に描かれた。そのひとつが1937年から1938年にかけて、つまりトロツキーと関係があったあとの時期で、もうひとつが1939年から1940年、リベラと一時的に別居し離婚した時期だ(ふたりはそれから約一年後に復縁しているが、カーロは二度とサンアンヘルの家に住むことはなく、コヨアカンの郊外にある「青い家」と呼ばれる生家に住んだ)。
1943年、カーロはリベラの勧めで、絵画と彫刻を専門とする先進的な美術学校で教師として勤め始める。その学校では貧しい地域のハイスクールの生徒たちが画材を与えられ、無料で指導を受けることができた。カーロは教えることを楽しんだが、当然ながらこの仕事もまた、創作の妨げになった。1944年の手紙で、カーロは教師でありアーティストでもある自分の日常について、こう書いている。
午前8時から(授業を)始めて、午前11時に終わる。それから30分かけて学校から家に帰る=正午。そこそこ「きちんとした」暮らしをするために必要最低限のものを整える。たとえば、食べ物、きれいなタオル、石鹸、食卓の準備、などなど=午後2時。やることが多すぎる!!
それから食事、そのあと手と蝶番の洗浄(蝶番というのは、歯と口のこと)。そのあとの午後の時間は自由なので、絵画というすばらしい芸術に捧げる。私はいつも絵を描いている。なぜなら、ひとつ仕上げるとすぐにそれを売って、その月の支払いに必要な銭を稼がないといけないから(夫婦ともども協力してお金を出し合わないと、このお屋敷を維持することができない)。夜になると、私はとっとと外に出て、映画か芝居でもみにいって、帰ってくると正体もなく眠る(ときどき不眠症に襲われることがあって、そのときはもう最っ低!!!)。
1940年代に入ると、カーロはかつての路面電車事故が原因の体の不調と絶えず闘わなくてはならなくなった。死亡するまでに30回以上の手術を受け、1940年からは鋼や革や石膏などでできたさまざまなコルセットをつけて背骨を支えなくてはならなかった。健康状態が悪化するにつれて、絵を描くのはさらに困難になっていく。1940年代の半ばには、あまり長く立っていることもすわっていることもできなくなった。1950年にはメキシコシティの病院に9ヵ月入院し、骨移植の手術を受けたが、感染症を起こして、数回の追加手術が必要になった。カーロは入院中の時間をできるだけ有効に使おうと、またイーゼルを工夫して、ベッドに寝ながらでも絵が描けるようにした。医師の許可がおりると、一日に4時間から5時間、絵を描いた。「私は一度もやる気を失わなかった」とカーロはいっている。「ずっと絵を描いていた。なぜなら絵を描いているとデメロール〔鎮痛剤〕をのんでも正気でいられるから。元気が出るし、幸せな気持ちにもなる。コルセットに絵を描いたり、絵に色を塗ったり、冗談をいったり、文章を書いたり、みんなが映画のフィルムを持ってきて上映してくれたりもした。病院で過ごしているあいだ、まるでお祭りみたいだった。文句はいえないわ」
アニエス・ヴァルダ
1928~2019
ヴァルダはよく、フランスにおける映画運動「ヌーヴェルヴァーグの祖母」と呼ばれる。90歳まで現役で活躍し、これまでに21本の長編映画、10本以上の短編映画を作ってきた彼女にはふさわしい称号と思われるが、最初にこの名を付けられたのはまだ30歳のときで、自分のことを映画界の巨匠だなどと思ってもいなかった。本人によると、1954年に初めての映画『ラ・ポワント・クールト』を撮った時点で、5本しか映画をみたことがなかったという。実際、『ラ・ポワント・クールト』は当初、小説にするつもりだった。「でも、要約を書く代わりに絵を描いて、それを映画の助監督をしていた男性に見せた。そしたら、これは映画にしたほうがいいといわれたので、借金をして映画作りを始めたの」1970年にヴァルダはそう語っている。同じインタビューで、自分が映画を作る原動力となっているのは、「内に潜む直観の川」だといっている。
しかし、次の映画『5時から7時までのクレオ』を作るまでには7年かかった。「それは私が女だったからではなく、予算的に着手しにくい種類の映画を作ろうとしていたから」とヴァルダはいっている。いっぽうで彼女は、男性優位のすべての職場と同様に、映画界でも、女性が直面する問題があるとはっきりと述べている。「問題はふたつあって、ひとつは女性の昇進の問題。すべての職業において、女性にも男性と同程度の昇進が認められるべきだと思う。そしてもうひとつは社会の問題。つまり、子どもを持ちたい女性が、自分の望むときに、望む相手と、子どもを持つことができるように保障しなくてはいけないし、女性が子どもを育てるのを助けなければいけない」1974年にヴァルダはそういっている。そして、自分の場合はどうだったか、次のように語っている。「解決策はひとつしかなくて、それは一種の〝スーパーウーマン〞になって、いくつかの人生を同時に生きること。私の場合、人生でいちばん大変だったのはそれ――つまりいくつもの人生を同時に生きて、どの人生も妥協せず、あきらめないこと――だった。子どもを持つことをあきらめない、映画の仕事をあきらめない、男性が好きなら、男性もあきらめない」
同じ年、ドイツのテレビ局がヴァルダに新しい映画の制作を依頼した。条件は制作期間が一年というだけの白紙委任だった。しかし、その一年前にヴァルダは二番目の子を出産していて、撮影現場で小さな子の面倒をみるのがいかに大変か、経験からわかっていた。そこで、家を離れずにその映画を撮ることにした。「私は女性の創造性―― 家庭や母親としての役割につねに少し不自由を感じ窒息しそうになっている創造性――のよい見本となるのだと自分自身に言い聞かせた」1975年にヴァルダはそういっている。
これらの制約からどんなことが起きるのだろう、と考えた。このように限定された状況で、ふたたび創造性を発揮することはできるのか、と。[……]そこで、この考え、つまりほとんどの女性は家庭に縛られているという事実から出発した。そして自分を自分の家庭につなぎとめた。新しいへその緒を思い描いて、特製の80メートルの電源ケーブルを家のコンセントにつなぎ、[映画を撮るために]ケーブルが届く範囲のスペースを自分に与えることにした。ケーブルが届かないところへは行けない。必要なものはすべてその範囲で見つけて、その先へは決して行かないようにした。
この方法は成功した。ヴァルダは結局、近所の商店主たちの日常を撮影し、それは『ダゲール街の人々』というドキュメンタリー映画になった。これは、彼女の仕事の進め方としては、かなり典型的な例だった。ヴァルダは仕事を速く仕上げることを好んだ。「アイデアが浮かんだら、できるだけすぐに撮影する。まだ創造の苦しみのなかにいるうちに」(1965年の映画『幸福』の脚本は3日で書いた。)しかしヴァルダは、いわゆるインスピレーションという考えには否定的だ。
アーティストはインスピレーションとか創造の女神が舞い降りたとか、よく話すわよね。創造の女神ですって! おもしろい! でも、創造の女神なんかじゃなくて、創造的な力と自分とのあいだに結びつきがあれば、必要なときに必要なものが現れてくる。[……]だから、仕事をするときは自由に連想したり空想したりしないといけない。記憶や、偶然の出会いや、いろいろな対象とともに自分を遊ばせるの。私は30年間の映画制作のなかで身につけた厳格な規律と、たくさんの思いがけない瞬間や心の揺らぎのあいだでバランスを取るようにしている。
1988年にはヴァルダはこういっている。歳をとってよかったことのひとつは、自分の仕事について、穏やかに考えられるようになったことだ。まだやっていないことがあると思って焦るようなことはなくなり、「自分のなかに誰にも触れられない、誰にも壊せないなにかがあることを特権として」楽しんでいるという。それでも、もし新しい映画を作るチャンスがめぐってきたら、エネルギー全開ですばやく行動に移る。「私は仕事をするスピードが速すぎたり、まわりの人に対する要求が厳しすぎたりして、仲間をうんざりさせてしまうことが多い。朝は5時に起きて脚本を書くし、撮影現場にはみんなが来る一時間前にいって、いろいろとチェックしてまわる。ぎりぎりのタイミングで新しいアイデアを思いついて、すぐにそれをみんなにやらせようとする。うまくいくかどうかなんてまったく気にせずに、ものすごいことを要求してしまう」
(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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