ためし読み

『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』Chapter1 遊び

なぜ遊びが重要なのか?
なぜわたしたちは遊びを必要としているのか?
そもそも、遊びとはいったい何なのか?

現代ゲームスタディーズの第一人者、
ミゲル・シカールによる新時代の「遊び」の哲学、待望の翻訳!

※「Chapter 2 遊び心」のためし読みはこちら
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Chapter1 遊び

遊びについて考えよう。あなたにとって遊びとはどんなものだろうか。

思い浮かんだことは何だろう。気晴らし? ゲーム? 子どものやること? 仕事の反対? 学びのもと? それとも、いまやりたいこと? いや、もっとよく考えよう。そもそもわたしたちは遊びについてどれだけのことを知っているのか。

まずは軽く準備運動から。自分が日々やっていること、つまり一日を組み立てている作業を数え上げてみよう。仕事、余暇の楽しみ、それからそのどちらでもないがしなくてはいけない、、、、、、、、、こと、そうしたものすべてだ。

あなたは、そうした作業をどんな具合にやっているだろうか。気分よくできていて、しかも十分休息にもなっている? もしそうなら、たぶんそれは作業を楽しめていて、毎日を遊び心ある*1やり方で過ごせているということだ。気分のよさは、遊ぶ時間――独特な仕方で生活する時間――を与えてくれるだろう。わたしたちは、遊びを通して生活を満喫すること、つまり楽しむことに、いつも惹かれている。

遊ぶことは、世界のうちに存在することだ*2。それは、自分を取り巻いているものを、そして自分が何者であるかを理解する形式であり、他者と関わりあう方法だ。遊びは、人間であることのひとつのモードなのだ。

わたしたちは、刺激的な時代に生きている。次のような主張を目にしたことがあるかもしれない。いまやあらゆる場所にゲームがある。知識人や芸術家、政策立案者や公共機関は、まじめで面白みのない目的のためにゲームを作っている、と(1)。あるいは、ゲームが「二十一世紀の支配的な文化のあり方」になるという話を聞いたこともあるかもしれない(2)。あるいはさらに、ゲーム開発者たちが二十一世紀は「ルーディックな*3[つまり遊び中心の]世紀」になると言ったりすることもある(3)

わたしは、こうした考えには一部同意しない。ゲームが重要なのではない。ゲームをむやみに持ち上げるのは、古い説話にあるように*4、月を指さしているのに、月ではなく指を見るというようなまぬけだ。ゲームは指であって、遊びこそが月なのだ。

実際のところ、遊びは、現代の先進国の社会において主要な表現方法になっている。わたしたちはたしかにゲームを遊ぶが、それ以外にもいろいろなやり方で遊ぶ。おもちゃ遊ぶこともあれば、遊び場遊ぶこともあるし、テクノロジーやデザイン遊ぶこともある。そして遊びは、哲学者たちが考えてきたのとはちがって(4)、たんにふざけていて無害でカプセルに入ったポジティブな活動というわけではない。ほかの存在のモード*5がそうであるのと同じように、遊びは危険なものになることがある。遊びは、痛みを伴うものや有害なものにもなりえるし、反社会的なものや人を堕落させるものにもなりえる。遊びは人間性のひとつのあらわれだ。それは世界を表現するために、そして世界のうちに存在するために使われる。

遊びとは何かを理解するために、ここで遊びについてのお手軽ポータブルな理論――これは理論というよりレトリックかもしれない――を提唱しておこう*6。わたしは、戦争、儀式、ゲームといった具体的な物や活動の観点から遊びを理解しようとは思わない。かわりに、遊びは存在のためのポータブルな道具であると考える。遊びは〔はじめから〕物に結びついているわけではない。むしろ遊びは、人間によって、日常生活をかたち作る物事との――そしてそれらの物事のあいだの――複雑な相互関係のなかに持ち込まれるものだ。

なぜいま遊びの理論が必要なのか。わたしたちの文化では、「遊び心がある」はポジティブな言葉になっている。たとえば、二〇一一年に出版されたスティーブ・ジョブズの伝記の著者は、アップルコンピュータのデザインを称賛する言葉として「遊び心がある」を使っている(5)。もともとそのデザインは、味気ない業務機器との対比というコンセプトで作られたものだ。アップルの「遊び心ある」デザインは、遊びを個人的な表現として――美しさとして、カウンターカルチャー的な政治姿勢として、あるいは道徳的な価値として――理解するというアイデアにもとづいている。そしてまさにそれが現代文化における遊びの立ち位置であり、その価値なのだ。

しかし、その重要さにもかかわらず、わたしたちはいまだに古くさいモデルを使って遊びを理解しようとしている。遊びの理論は、たいていオランダの文化史家ヨハン・ホイジンガ――ホモ・ルーデンスという概念を作り出したことで知られる――の研究をもとにしている(6)。ホイジンガによれば、遊びとは、疑問の余地のないルールによってひとつの別世界を作り出す公正な争いだという。この本は、そうしたホイジンガ的な遊び論の伝統につらなるものではない。わたしがここで提唱している遊びの本性は、ホイジンガのそれとは異なっている。

わたしは、遊びを、現実や仕事、儀式やスポーツと対置するつもりはない。というのも、遊びはそうしたものすべてに見いだせるものだからだ。遊びは、言語、思想、信仰、理性、神話などと同じように、世界のうちに存在するモードの一種である(7)

(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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[原註]

(1)このトピックに関するもっとも説得力のある学術的な議論は、イェスパー・ユールの『カジュアル革命』(Juul 2009)である。ユールは、カジュアルゲームがどのように成功したか、そしてそれがどのようにビデオゲームの受容者層を拡大させたかを論じている。

(2)この考えの主唱者は、エリック・ジマーマンである。ジマーマンは、二〇一三年の後半にそれをマニフェストのかたちで具体的に明言している。https://kotaku.com/manifesto-the-21st-century-will-be-defined-by-games-1275355204 (accessed October 16, 2013). とはいえ、実際のところ、この考えはその時点ですでにポピュラーなものだった。たとえばゲーム開発者会議(GDC)のようなゲーム開発者の集まりのなかで、その種の考えはいろいろな言い方で表明されていた。ゲームデザイナーのクリント・ホッキングは、二〇一一年の後半に自身のブログで、このルーディックな世紀という理想についてわかりやすくまとめるとともに、その考えを鋭く批判している。https://www.clicknothing.com/click_nothing/2011/11/redacted-the-dominant-cultural-form-of-the-21st-century.html (accessed November 22, 2011).

(3)ヘザー・チャップリンとエリック・ジマーマンは、二〇〇八年のゲーム+学習+社会カンファレンスでこの考えを提示している。それはのちにジマーマンのマニフェスト(原註2を参照)として公表された。

(4)本書は、ホイジンガ的な遊び論の伝統をアップデートすることを意図したものだ。この正統派の遊び論は、大雑把に言えば、ヨハン・ホイジンガ(Huizinga 1992)、ブライアン・サットン゠スミス(Sutton-Smith 1997)、バーナード・デコヴン(DeKoven 2002)、ロジェ・カイヨワ(Caillois 2001)、バーナード・スーツ(Suits 2005)らの議論からなる。この伝統をアップデートするにあたっては、遊びの説明に使われてきた諸理論を拡張することに加えて、具体物とデザインに焦点をあわせることになる。つまり、遊びに使う物(遊び道具)がいかにデザインされているか、わたしたちが遊びを通して世界と関わることをそうした物がいかに手助けしているかを取り上げることになる。

(5)Isaacson(2001)を参照。

(6)ホイジンガは、いまだに遊戯論の中心人物であり続けている。また、わたしがここで提示する遊びの理論はきわめてポスト・ホイジンガ的なものではあるが、それでもホイジンガの考えにかなり強く影響を受けている。ホモ・ルーデンスという概念は、人間の第三の本性に対するホイジンガの解釈を示すものだ。理性的な存在としてのホモ・サピエンス、物を作る存在としてのホモ・ファーベルに対して、遊ぶ存在としてのホモ・ルーデンスがある。この遊ぶ存在としての人間のあり方は、文化における遊びの要素――ホイジンガの考えでは、西洋文化の中心にあるもの――の源泉でもあるとされる。遊び――ほとんど儀式と同一視されているが――は、歴史と文化の構造のうちに痕跡を残している。それゆえ、歴史や文化を理解するには、遊びも理解する必要があるというわけである。ホイジンガの考えは、文化人類学以外の分野での影響はそこまで大きくはないものの、いまだにわたしたちの遊び観を方向づけている(『ホモ・ルーデンス』自体は相対的に時代遅れの本になっているが)。『ホモ・ルーデンス』についての批判的な論評は、Henricks(2006)を参照。

(7)公平を期しておくと、この考え自体はホイジンガにも見られる。しかし、ホイジンガの議論では、遊びが現実の生活から分離しているということを強調しているせいで、遊びが持つ創造と表現の力は低く見積もられている。ホイジンガは、遊びを、それ固有のあり方が発揮されるかぎられた文脈内のものとしてのみ考えており、人々の遊びが実際に行われるより広い文脈や、遊びの活動がさまざまな意図をもってなされるという事実を問題にしないのである。

[訳註]

*1 「playful」は原則「遊び心ある」と訳す。同様に「playfulness」は「遊び心」と訳す。

*2 原語は「to be in the world」。直接の参照指示はないが、明らかにハイデガーの概念(またはそれを引き継いだサルトルの概念)が念頭に置かれている。「世界内存在」は、人間の本質的なあり方、つまり人間が人間としてあるそのあり方を指す。本文で述べられるように、遊びは、そうした世界内存在のひとつのモードとして考えられている。なお、読みやすさの都合上、「世界内存在」と訳している箇所とそうでない箇所がある。

*3 「ludic」は「遊戯的」という訳が適当なテクニカルタームだが、ここでは著者による説明が入っているため、カタカナで訳す。

*4 仏教説話の「指月のたとえ」のこと。

*5 原語は「form」だが、読みやすさの都合上、世界内存在のあり方を指す用法の場合は、すべて「モード」をあてる。「way of being」も同様。

*6 「portable theory」という言い方には、理論自体がポータブル=お手軽であるという意味と、遊びを存在のためのポータブルな道具として考える理論(遊びのポータブル説)であるという意味の両方が込められていると思われる。

プレイ・マターズ

遊び心の哲学

ミゲル・シカール=著
松永伸司=訳
発売日 : 2019年4月26日
2,000+税
四六判・並製 | 236頁 | 978-4-8459-1801-0
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