はじめに
デザインの探検にようこそ
本書は、私が長らく取り組んできた情報デザインや社会のかたちづくりなど、いわば非物質のデザインに向き合いながら考えてきたことをまとめたものだ。まだ二十代の頃、もしかすると「情報」というものもデザインの対象になるのかもしれないと気づき、その領域を育んでいくと今度は「社会」もまたデザインのモチーフなのではないかとハッとして、その可能性を探究する道のりがはじまった。少し言葉を足すと、そのパノラマはこんなふうに展開したと言える。
質量のない情報に「かたち」を与えるデザインをはじめたら、「対話」がそのかたちの原型であることがわかった。対話には、話者たちがともにつくり出すかたちがあった。その対話のかたちをよく見ていくと、今度は「つながる」ことでできていく価値の創成が対話の役割であると気づかされた。すると突然「社会」が眼の前に現れた。人びとがつながり、そこに新たな営みを生む仕組みとかたちをつくること、つまりデザインは、「社会」を対象にし得るとわかったのだ。今の私は、情報デザインは、社会という大きくて手強い、しかし魅力的な問題(issue)に出会い、臨んでいかねばならないと確信している。
さて、このように広がるデザインの風景を見つめながら、私は、大学の教師としてもずっと走りつづけてきた。そして、その時々の自分にとって最も大事なデザインの問題のなかで特に大切だと思うことを、学生たち自身にも向き合ってもらおうとその方法を手探りしてきた。結果、まだどこにもない学科を立ち上げたり、前代未聞のカリキュラムをつくることになり、たくさんの汗をかきながら必死で取り組んだ。
この本に綴ったデザインの知恵は、このようにして私が見てきた風景のなかで手に入れた思考のエッセンスである。その意味で、デザインが情報に出会ってからの三十余年の私の旅の記録でもあると言える。それは今思うと、「探検」という言葉がぴったりの旅である。舗装された道を歩いていると、私はついつい、まわりの草むらや雑木林が気になる性分で、どうしてもそっちに入っていきたくなる。一歩、足を踏み入れると、薮漕ぎがはじまる。手足は少々傷つくが、まだ道がないのだからしょうがない。崖が見えてくると登りたくなる。あるとき一晩ビバークして夜明けに大きな岩場を登りきると、朝もやの中に黒々として豊かな地平線までつづく荒野の広がりが見える。そのようにして私は、探検フィールドを見つけては旅してきたのだ。
本書の鍵概念である「かたち」と「表現」について述べておく。「かたち」をひらがなで書くのは、かたちには三つの意味があるからだ。ひとつは人工物のかたち、二つ目は私の目に映るかたち=見え。三つ目は私たちと人工物の間に生じるかかわり合いのかたちである。この本では主に三つ目の、そこに立ち現れまた消える現象こそがデザインの対象だと主張している。質量をもたないかたちを含む表記には、ひらがながふさわしいと考えた。
また、「表現」には三重の意味がある。ひとつは自分がとらえた対象を表すこと。もうひとつは、その表現者がどこからそれを描いたのかが表されていること。さらに、なぜそれを表すのかも表れていること。つまり、対象を表す自分自身や環境、経験もその表現には表れているという事実があるのだ。ここで、頭を傾げた読者がいるだろうか。この本を読めばそのことがよくわかり、表現すること、表現を見て体験し、つくることが一段と面白くなるに違いない。
さあ、みなさんを須永研の旅にお招きしよう。
谷川連峰一ノ倉岳にて(1973年1月)
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