ためし読み

『現代写真アート原論 「コンテンポラリーアートとしての写真」の進化形へ』

イントロダクション

現代写真アートは、どこに向かっているのだろう?

国際的な芸術祭、ビエンナーレやトリエンナーレには必ずと言ってよいほど、写真作品や写真を使ったインスタレーションやモニター、プロジェクション作品が出品される時代になった。

もはや「写真」は、かつて小さな額に入れられて、「絵画に似たもの」としてアートの仲間入りを待っていたようなものではまったくない。

1990年代から始まった写真のデジタル化は、光を化学反応で定着させる銀塩方式からのシフトにとどまらず、写真そのもののメディアとしての起源を問うものとなった。ペインティングと写真のシンキングは別だ。メディアの可能性が決定的に違う「メディア・アート」であるのだと。

重要なのは、そのシフトは写真単独の変化として限られたものではなく、社会がコンピュータ・サイエンスとネット・テクノロジーを融合させた、人類の文化史上かつてなかった大変化をもたらしたエッジで引き起こされている事態であり、その最も激しい領域として「写真」が晒されているということなのだ。

携帯端末には、当たり前のように「カメラ」がつけられていて、「撮影」は「画像入力」となり、さまざまなアプリやフィルターで瞬く間に加工でき、それをアーカイブしたり、出力できるだけでなく、インスタグラムで発信したり、共有できるものとなった。

これは生活のなかの写真の位置変化の話ではなく、人間が誕生から200年間近くつき合ってきた「写真」というものの概念を、根本から再定義しなくてはならない事態を迎えたことを意味する。

「写真」という名のごとく、写真の価値や強度を支えてきた「真実」、そして二度とない現実を切り取る「決定的瞬間」という写真にまつわる思考は、人間の現実観、人生観を支えるエビデンスであった。

しかし事態は、すべて流動化した。

コンピュータという存在がパーソナル化するなかで、決定的な完成品ではなく、毎年のようにヴァージョンアップされる商品として現れた。

これは当初気づかれなかったことだが、知識もキャリアも関係も権威も、決して留めることはできず、常に「アップデート」が前提の社会に、全体がシフトすることだった。

すべては進化形という名の「途上」でしかなく、プロセスでしかなく、常にイノベイティブであることを迫られることになった。

もしコンサバティブに既得価値を守りたければ、壁を築きジャンル横断を遮断するか、より強い変容力をもつしかなくなったのだ。

変化は常に計画を逸脱して起こる。

GAFAと呼ばれるGoogle、Apple、Facebook、Amazonがこれほどまでに世界全体をシフトさせると予想できた人は、ほとんどいない(のちにDiscussionで語られるヴィレム・フルッサーはその数少ないヴィジョナリーのひとりだが)。急激な変化は、さまざまな価値の混乱とカオスを生み出している。

AIとロボティクスの融合によって、人間が失職したり、AIに監視されるディストピアの恐怖を告げて回る人もいる。

しかし混乱は危機であるが、チャンスでもあることも忘れてはならない。

「現代写真アート」の分野は、カオスに満ちている。それは「写真」に見えて、じつはまったく似て非なるものかもしれない。たった一度しか起こりえないことを活写しようとしていた写真家は、新たにリモデルされた写真を見て、「こんなものは写真じゃない!」と叫ぶだろう。

しかしもはやすべては止めようのない流れのなかにある。

写真をアートにいかに変成させることができるか、というアートシンキングのトレーニングを受けたアンドレアス・グルスキーという写真家のプリントは、一枚が四億円近くの値段でオークションで値づけされた。また、彼の展覧会も日本では東京と大阪で行われ、入場者数は20万人を超えた。

観客たちはプリントを見て叫ぶ。「なぜ、こんな凡庸なライン川の写真作品に、こんな値段がつくのか」と。

先ほど言ったように、混乱は危機であり、チャンスでもある。オンライン世界を牛耳るGAFAは、混乱に乗じて下剋上を行う勝者であるが、同様に、コンテンポラリーアートが属するアートワールドも、勝者が推移する。骨董化した古典はともかく、高速な資本主義のなかにアートはある。そして「現代写真アート」も。

そこは国際芸術祭というキュレーションの「批評的価値づけ」と、国際アートフェアによる「マーケットの価値づけ」の二輪で動く、グローバル資本主義のエッジな領域なのだ。そして、ヴァージョンアップした「現代写真アート」は、そのさらなるフロントラインとして待望されている有望領域だ。

グルスキーの勝利は、その緒戦にしかすぎないだろう。

流動化するアートワールドに、すべてのプレイヤーは飲み込まれている。アーティスト、キュレーター、ギャラリスト、パブリッシャー、批評家、コレクター、オーディエンス。もはや誰もが傍観者ではありえず、共犯者であり、誰かが司令塔で事態をリードするというのではなく、創発的に連鎖的に価値が生成されていく。

毎年開催される国際芸術祭、有力キュレーターやギャラリストによる展覧会、アートジャーナルの相互プレイにより、アートワールドのルールが書き換えられるのだ。

このようなコンテンポラリーアートの流動性に、今までの「写真」が無傷であるはずがない。

90年代末から毎年開催される世界最大のフォトフェア「ParisPHOTO」は、旧い写真ギャラリーを中心としたマーケットだったが、2011年に改組され、コンテンポラリーアートを扱うギャラリーがメインとなるプラットフォームへシフトした。また、ほぼ期を同じくして、よりラディカルな作品のマーケットを切り拓くために、アムステルダムではfoam写真美術館と広告代理店が組み、進化したフォトフェア「Unseen」が始まった。

そのシフトのなかで発生していることは、単にセールスの改変にとどまらない。新しい価値づけの仕組み、コンテクストを再編する批評やキュレトリアル・ディスコースであり、次代を切り拓く才能の発掘育成である。プログラム開発なのだ。過去に有力であったからといって、未来に通用するとは限らない。アーティストであれ、理論であれ、システムであれ。たとえば、我々が支持してきた、ベンヤミンやシャーカフスキー、ソンタグ、バルトらの「写真論」も、賞味期限が確認され、再編に晒されることになる。ある意味で、野蛮な季節なのだ。

「日本はカメラ大国ではあるが、写真大国ではない」と、誰かが言ったらしく、皆このフレーズをよく使うが間違っている。日本ほど西洋的な意味での桎梏から自由な場所、多様な写真が生成される場所はない。すでに国際的評価が高い東松照明、荒木経惟、森山大道、石内都らはもちろん、日本社会のカガミそのものである篠山紀信も、世界のどこを探しても似た者のいないユニークな写真の巨人たちだ。

しかし彼らが現在、グローバルな巨匠として位置づけられているのは、世界のアートワールドが彼らをメニューとして再発見したからであって、彼ら自身が自らグローバル・プレイヤーとしてダイレクトに活動した成果ではない。

国際的に日本のアートを評価させたければ、鎖国すべきだ、西洋にとってのジパングとなるべきだ、という反動的論者さえいるのには驚かされる。

しかし、事態はそんな呑気な話ではない。誰もが、否応ない流動性のなかにある。

横田大輔という「現代写真アーティスト」は、ネットで知り合った海外のパブリッシャーと組み、すでに多数の写真集を出し、熱狂的なコレクターをもっている。彼はオンライン時代のアーティストであり、ギャラリーすら不要かもしれない。横田はグローバルに知られているのみならず、その情報とマテリアリゼーションのプロセスとして提示される写真作品/インスタレーションにより、海外の賞をいくつも与えられ、前述したfoam写真美術館でワンマンショーが開催されるにいたっている。2017年のことだ。横田大輔は1983年生まれ。展覧会開催時34歳である。かつて日本写真史に、彼のような者はひとりもいなかった。

この横田大輔の事例は、メガシフトの序章の事件である。しかし、横田の事例もすぐ当たり前になるだろう。「写真」ほどネットワールドと親和性が高いアートはない。すでに何人もの新しい才能が、グローバルなアートワールドで活躍し始めている。

世界が大変化に晒され、カオスだからといって、成功が偶然やってくるわけではない。コンテンポラリーアートには、「まぐれ」などありはしない。旧い「写真史」は再編しなければ役に立たない。しかし万全な教科書、ルールブックもあるわけではない。

そのような事態に対応すべく考案されたのが本書『現代写真アート原論』である。先行する重要な本として、キュレーターであるシャーロット・コットンの『The Photograph as Contemporary Art』が2004年に出版されている。日本では『現代写真論』と題されたこの本は、1970年代までの「旧い」写真史を断ち切って、コンテンポラリーアートに写真が雪崩を打ってシフトするタイミングに、コンテクストを8つに整理した見事な本だった。つまり必読の新「ルールブック」であったと言ってよい。しかもこの本は決して理論書ではない。

キュレトリアル・ディスコースによって批評性を発揮するという、まさにオンラインの時代の速度にあった、戦略的知性の本だと評価できる。コットンは、そのことをよくわかっていて、アップデート版をつくり、事態の進行に従って書き足していくという技も発揮していた。そしてさらなる「現代写真アート」のカオスに向かったのが、2015年の『写真は魔術』であった。

ここにおいては、もはや写真史の「第一ステージ」にいたようなプリント主体のアーティストは、対象とされていない。加工やインスタレーションは基本前提であり、マテリアルも多様、立体などポストフォトグラフィー、ポストメディウムの作家たち、作品群が大量にセレクトされた大冊として提出されているのである。コットンは写真の「第二ステージ」の到来前に、エディットしたかったのだ。この本もまた、進化する「フォトアート」における決定項を目指したのではなく、プロセス(『インターネットの次に来るもの』を書いたケヴィン・ケリー流に言えば、ユートピアならぬ「プロトピア」)としての「写真論」ということになる。

ともあれ、我々は(いや写真は)どこに向かっているかという問題設定をしなければならない。迷子でもいい、自らが動いた軌跡が新しい地図になる、ぐらいの動物的知性でもよいが、まずは水平と垂直の羅針盤ぐらいは必要だろう。

コットンが編んでくれた『写真は魔術』という美しいカオスの海を、我々は航海しなくてはならないのだ。

この小さな本『現代写真アート原論』は、ダイレクション(方向)だけを示した本である。「現代写真アート」という未知のゾーンに入るための、方向指示である。キーワードは「価値生成」と「変換」である。

どうして一枚の写真が「コンテンポラリーアート」に変換され、価値生成が行われるのか。

ヒントは、コンテンポラリーアートが必須とする「アートシンキング」「メタ思考」ができるかだ。荒木、森山の後続につけている、コンテンポラリーアート界で活躍するホンマタカシ、やなぎみわ、志賀理江子らは皆、先輩たちとは違い、これらを身につけている。

その変換シフトを知るためにDiscussion 1では、ベッヒャーシューレ(スクール)、ジェフ・ウォール(1946-)、シンディ・シャーマン(1954-)という、「現代写真アーティスト」として最も成功しているアーティストのストラテジーが入っている。

また、Discussion 2では1989年のロバート・メイプルソープのカタストロフ的、自滅的な死以降、ポストモダニティを戦略にして、最も成功しているヴォルフガング・ティルマンス(1968-)を分析。しかし、ポストモダニティも、もはやトランプの時代に顕著にシフトを迫られている。ヘイトとフェイクの時代なのだ。

そしてDiscussion 3では、コンセプチュアリズムを写真に接続し成功したソフィ・カルの事例を挙げつつ、現在の水平的な「フォトアートワールド」の地図。そしてシャーロット・コットンの『写真は魔術』以降さらに更新され、進化し続けている事態を、最低限共有すべきものとして目鼻をつける作業をした。

旅はエンドレスに続く。

本書を手にして、新たな写真の旅に出るツワモノに幸いあれ!

(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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現代写真アート原論

「コンテンポラリーアートとしての写真」の進化形へ

後藤繁雄/港千尋/深川雅文=編
発売日 : 2019年3月26日
2,000+税
四六判変形・並製 | 240頁 | 978-4-8459-1815-7
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