序 Introduction
わたしたちはつねに人間でありつづけてきた、あるいは、わたしたちは人間でしかない。少しでも確信をもって、誰もがそう断言できるわけではない。西洋の社会・政治・科学におけるこれまでの歴史的契機は言うに及ばず、現在でもなお、わたしたちのなかには完全には人間とみなされていない者がいるのだ。というのはつまり、「人間〔human〕」という言葉によって、啓蒙主義が遺産として残したおなじみの被造物、すなわち「コギトというデカルト的主体、カントの「理性を備えた存在の共同体」、より社会学的な術語で言えば、市民、権利保持者、所有者などとしての主体」(Wolfe, 2010a)のことを意味しているのだとしたら、ということである。にもかかわらず、この〔「人間」という〕言葉は幅広いコンセンサスを享受し、常識(コモンセンス)とも言うべき安心の親しみやすさを保ちつづけている。わたしたちが〔ヒトという〕種に示す愛着は、それがあたかも既成事実や所与のものであるかのようである。それこそ〈諸権利〉という根本的な観念を〈人間〉なるものを中心に構築しているくらいだ。だが、本当にそうなのだろうか。
今日の保守的・宗教的な社会勢力は、たびたび自然法というパラダイムの内部に人間なるものを登記しなおそうと努めているが、その一方で、人間という概念は、現代科学の進展とグローバル経済の利害という二重の圧力のもとで砕け散ってしまった。ポストモダン、ポスト植民地、ポスト工業化、ポスト共産主義といった状況、そして異論の多いポストフェミニズムの状況さえ過ぎ去った後、わたしたちはポスト人間的(ヒューマン)な窮状に陥ってしまったかのようにみえる。際限のないこうした一連の接頭詞〔ポスト‐〕はいささか恣意的にみえるかもしれないが、ポストヒューマン的状況は、けっしてそのn番目のヴァリエーションではない。それは、次の事柄についてのわたしたちの考えかたに質的な転換を導入したのである。すなわち、わたしたちの種、わたしたちの政体、そして、わたしたちがこの惑星の他の居住者たちと取り結ぶ関係にとって、共通の参照項となる基本的単位とは厳密にいって何なのか。この論点は、科学・政治・国際関係が現代において複雑化したなかで、わたしたちが――人間として――有するアイデンティティの構造そのものにかかわる深刻な問いを提起している。人間以外のもの〔non-human〕、非人間〔inhuman〕、反人間〔anti-human〕、非人道的なもの〔inhumane〕、そしてポストヒューマン〔posthuman〕、それらに関する言説や表象は、グローバル化し技術に媒介された今日の社会のなかで増殖し重なりあっているのである。
メインストリームの文化における論争は、ロボティクス、義肢技術、神経科学、遺伝子工学的資本といった実際上のビジネスにかかわる議論から、トランスヒューマニズムや技術的超越といったより曖昧なニューエイジ的ヴィジョンまで多岐にわたっている。人間の強化(エンハンスメント)が、これらの論争の核にある。それに対してアカデミックな文化において、ポストヒューマンなるものは、批判理論や文化理論の次なるフロンティアとして賞賛されるか、わずらわしい一連の「ポスト」流行りの最新版として敬遠されるかのどちらかである。ポストヒューマンは、かつて万物の尺度であった「人間〔Man〕」が深刻に脱中心化されている可能性に対して、歓喜のみならず不安をも引き起こしているのである(Habermas, 2003〔二〇〇四〕)。人間主体についての支配的ヴィジョン、そして、それを中心に据えた学問分野、すなわち人文学(ヒューマニティーズ)が、重要性や支配力の喪失を被っているという懸念が広まっているのだ。
わたしの見解では、ポストヒューマン的状況にとって公分母となるのは、生気的で自己組織的で、けれども非自然主義的な生ける物質それ自体の構造にかかわる前提である。この自然‐文化の連続体が、わたしなりのポストヒューマン理論にとって共通の出発点である。しかしながら、このポスト自然主義的前提が、結果として、身体の完成可能性の諸限界を試す諧謔的な実験に終わるのか、人間「本性」をめぐる数世紀来の信念が崩壊してしまうという道徳的パニックに終わるのか、はたまた遺伝や神経にかかわる資本をめぐって搾取的に利益を追求するかたちに終わるのかどうかはまだ分からない。本書では、これらのアプローチを検討し、批判的に取り組みつつ、ポストヒューマン的主体性を擁護するわたし自身の議論を展開していきたい。
この自然‐文化の連続体は、いかなる結果にいたるのであろうか。それが標づけているのは、幅広くコンセンサスを享受してきた社会構築主義的なアプローチから距離をとる科学的パラダイムである。社会構築主義的アプローチは、所与のもの(自然)と構築されたもの(文化)のあいだにカテゴリー上の区別を措定する。この区別によって、社会分析により鋭く焦点を当てることが可能になり、そして、鍵となるアイデンティティや制度や実践の構築を支える社会的メカニズムを研究し批判するための堅固な基礎が与えられるのである。進歩的政治においては、社会構築主義の方法が、社会的な諸差異を脱自然化する試みを支えており、かくして、そうした社会的差異が人為的かつ歴史的に偶発的な構造であることが示される。「ひとは女に生まれるのではない、女になるのだ」というシモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉が、世界を変えるほどの影響をもったことを考えてみればよい。諸々の社会的不平等は社会に根ざしており、したがって、歴史的に変化する性質をもつというこの洞察は、社会政策やアクティヴィズムを通じた人間の介入によって不平等を解消する道を切り開いたのである。
わたしの論点は、所与のものと構築されたものの二項対立に依拠するこのアプローチが、目下のところ、自然と文化の相互作用をめぐる非二元論的な理解に置きかえられつつあるというものである。わたしの見かたでは、この非二元論的な理解は、あるひとつの一元論的哲学と関連しており、また、それに支持されている。すなわち、二元論、とりわけ自然‐文化の対立を拒否し、それにかわって生ける物質の自己組織化する(ないしオートポイエティックな)力を強調するような一元論的哲学である。自然的なものと文化的なものというカテゴリーのあいだの諸々の境界は、科学技術の進展がもたらす影響によって位置をずらされ、かなりの程度まで曖昧になってしまった。本書は、このパラダイムの変化がもたらす諸々の概念や方法や政治的実践の変容を、社会理論は吟味する必要があるという前提から出発する。逆に言えば、自然‐文化の連続体にもとづいたアプローチがどのような種類の政治分析や、どのような進歩的政治を支持しているのかという問いは、ポストヒューマン的窮状が求めるアジェンダの中心に位置しているのだ。
本書でわたしが取り組みたい主要な問いは以下である。第一に、ポストヒューマンとは何か。より具体的には、わたしたちをポストヒューマンへと導くかもしれない知的および歴史的道程とはどのようなものなのか。第二に、ポストヒューマン的状況において、人間性(ヒューマニティ)はどうなってしまうのか。より具体的には、それはどのような新しい主体性のありかたを支持するのか。第三に、ポストヒューマンは、どのようにしてそれ固有の非人間性のありかたを生じさせるのか。より具体的には、わたしたちは自らの時代の非人間的(非人道的)〔inhuman(e)〕な側面にどのように抵抗しうるのか。そして最後に、ポストヒューマンは今日の人文学の実践にどのような影響を与えるのか。より具体的には、ポストヒューマンの時代において理論が果たす機能とはどのようなものか。
本書は、わたしたちが直面している歴史にとって欠かすことのできない一側面としてのポストヒューマン的状況に魅惑されると同時に、ポストヒューマンによる常軌を逸した権力の乱用や、そのいくつかの基本的前提の持続可能性を懸念するという両方の流れに乗っている。魅惑の一部は、今日の世界において批判理論家がなすべき課題についてのわたしの感覚、つまり、わたしたちが位置づけられた歴史的な場所に適切な表象を提供するべきであるという感覚に負っている。この地図作成法的な目的自体は、社会的意義のある知識の生産という理想と結びついたつつましいものであるが、それはひるがえって、より野心的で抽象的な問い、すなわち理論そのものの地位や価値を問うものへと転じるのである。
幾人かの文化批評家たちが、現代の人文社会科学に衝撃を与えた「ポスト理論という病」の両義的性質に言及してきた。たとえばトム・コーエン、クレア・コールブルック、J・ヒリス・ミラー(Cohen etal., 2012)は、この「ポスト理論」的局面の肯定的な側面を力説する。つまり、この局面が実際に、現代科学が生み出す新たな好機と脅威をともに記録しているという事実である。しかしながら、否定的な側面、とりわけ、現在というものを精査するための適切な批判的図式が欠如しているという側面も、それに劣らず衝撃的なものである。
わたしの考えでは、こうした反理論への転換は、イデオロギー的文脈の変遷と結びついている。冷戦が公式に終結して以降、二〇世紀後半の政治運動の数々が放棄され、それらの理論的な努力は失敗した歴史的実験として退けられてしまった。自由市場経済という「新しい」イデオロギーは、社会の多くの勢力が激しく抵抗したにもかかわらず、あらゆる反対を押しつぶし、反知性主義をわたしたちの時代のきわだった特徴として強要することになった。このことは、人文学にとって特に手厳しいものである。というのも、「常識」――ドクサの横暴――や経済的利益――陳腐な自己利益―に過度に忠実であろうとするあまり、分析の繊細さが犠牲になってしまっているからである。この文脈においては、「理論」はその地位を失い、ある種の幻想やナルシスティックな自己耽溺としてしばしば退けられる。その結果、空疎になった新‐経験主義――多くの場合、データマイニング以外の何ものでもない――が、人文学研究の方法論的規範となったのである。
方法をめぐる問いは、真摯に考察する価値がある。諸々のイデオロギーが公式に終結し、神経科学や進化論や遺伝子科学が進展をみせたなかで、わたしたちは理論的解釈の力を、それが第二次大戦後享受してきたのと同じ尊敬の念をもって、いまでも維持することができるのだろうか。ポストヒューマン的窮状は、ポスト理論の気運ともつながっているのではないだろうか。たとえばブルーノ・ラトゥール(Latour, 2004)は、知識がどのようにして人間のアクターと人間以外のアクター――物体やオブジェクト――のネットワークによって生産されるのかを問う認識論的な研究をしている点で、必ずしも古典的な人文主義者ではないのだが、近年になって、批判理論の伝統や、それとヨーロッパ的な人文主義(ヒューマニズム)との関連について言及している。批判的思考が依拠する社会構築主義のパラダイムとはそもそも、現実を把握し表象するための道具としての理論への信念を宣言するものである。だが、そのような信念は今日なおも妥当なのだろうか。ラトゥールは、今日において理論が果たすべき機能について自問する深刻な疑義を投げかけたのだ。
ポストヒューマン的状況には否定しがたく陰鬱な含意があるが、とりわけ批判的思考の系譜との関係においてはそうである。それはあたかも、一九七〇年代と八〇年代に理論的な創造性が爆発的に開花した後に、差異なき反復と根深いメランコリアというゾンビ化した光景に突入してしまったかのようなのである。ある亡霊的な様相がわたしたちの思考パターンに入り込んできている。それは政治的右派の領域では、イデオロギーの時代の終焉(Fukuyama, 1989)や文明化のための十字軍の不可避性(Huntington, 1996〔二〇一七〕)といった考えによって強化されている。その一方で政治的左派においては、理論の拒絶が、それまでの世代の知識人に対する反感と否定的思考の流れを引き起こすことになった。この理論疲れの文脈のなかで、新共産主義の知識人たち(Badiou and Žižek, 2009)は、理論的な思弁にふけりつづけるのではなく、必要とあれば暴力的な抗争をも辞さない具体的な政治行動への回帰が必要だと論じた。彼らは、ポスト構造主義の哲学的な諸理論をすっかり時代遅れなものにすることに貢献したのである。
以上のような全体として否定的な社会の風潮に応答して、わたしは系譜学的かつ航海図(ナヴィゲーション)を与えるような道具としてポストヒューマン理論にアプローチしてみたい。ポストヒューマンは、現在というものにアファーマティヴに関与する方法を探究するための術語として有用だとわたしは捉えている。つまり、この術語によって、還元主義に陥ることなく経験に根ざし、また、否定性を回避しつつも批判的であるようなしかたで、この時代のいくつかの特徴を説明できると考えているのである。わたしは、ポストヒューマンが、グローバルに接続され、技術に媒介された今日の社会のなかで支配的な術語として流通しているいくつかの道筋を描き出してみたい。より具体的には、ポストヒューマン理論は、「人新世(アントロポセン)」として知られる生物発生学上の時代における人間にとっての基本的な参照単位について再考するにあたって助けとなる生産性に富んだ道具なのである――ここでの「人新世」とは、〈人類〔the Human〕〉がこの惑星のすべての生命に影響を与える地質学的な力をもつようになった歴史的な契機のことである。さらに言えば、ポストヒューマン理論は、わたしたちが、人間の行為者(エージェント)と人間以外の行為者の双方と地球規模で相互作用をおこなうにあたっての基本的な教義を再考する手助けともなりうるだろう。
(略)
ポストヒューマンな知識――そして、それを支える知の主体――は、保守的なノスタルジーと新自由主義的な多幸感という二重の落とし穴を回避しつつ、共同体の紐帯を築くような諸原則を熱望する根源的な思いを具現化する。本書を動機づけているのは、新しい世代の「知の主体」に対するわたしの信頼である。その新しい世代は、建設的な種類の汎人間性を肯定しており、また、それを実現するために、精神の偏狭さ、諸々のイデオロギーによる派閥主義、不誠実な虚勢、そして恐怖の支配といったものから、わたしたちを自由にするべく懸命になっている。この熱望はまた、大学のあるべき姿に対するわたしのヴィジョンをかたちづくってもいる。つまり、今日の世界に奉仕するウニヴェルスムというヴィジョンであり、そのような大学は、学問的生産をする認識論的(エピステモロジカル)な場としてだけではなく、知識とあいまってわたしたちの主体性を支えるエンパワーメントへの認識愛的(エピステモフィリック)な想いとしても世界に奉仕するのである。わたしはこうした切なる想いを、わたしたちが立つ歴史的な場所において切迫している権力の具体的な状況と関係とを理解することを通じて、自由を根底から熱望する気持ちとして定義したい。そうした権力状況には、わたしたちの誰もがそれぞれに日常的な社会関係のネットワークにおいて、ミクロ政治とマクロ政治の双方の次元で遂行している権力も含まれる。
わたしたちの集合的および個人的な次元における強度や創造性は、人間的な、あまりに人間的な、諸々の資源や限界によって枠づけられている。ポストヒューマンなるものへのわたしの関心は、ある意味でこのことにわたしが感じているフラストレーションを如実に反映している。これこそが、主体性の問題がこれほどまでに本書の中心をなしている理由である。わたしたちは、目下経験している根底的な変容に匹敵できるような、主体形成についての新しい社会的・倫理的・言説的図式を考案しなければならないのだ。それはつまり、わたしたち自身について異なったしかたで考えることを学ばなければならないということである。わたしは、ポストヒューマン的窮状を、思考・知識・自己表象についてのオルタナティヴな図式の追求に力を賦与(エンパワー)する契機と捉える。ポストヒューマン的状況は、わたしたちが実際に誰に、そして、何に生成変化しようとしつつあるのかについて、批判的かつ創造的に思考するようわたしたちを駆り立てるのである。
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