ためし読み

『シネマの記憶装置[新装版]』

ヴィム・ヴェンダースの『アメリカの友人』 または稚拙なる模倣の倫理

ドイツ映画は面白い。とりわけ1968年以来ここ10年ほどのドイツ映画は面白い。いうまでもなく、面白いといった言葉は讃辞としてはあまり上質でない。それを承知のうえであえて面白いとしか言えないところがいささか心もとないのだが、しかし面白いことは滅法面白いのだ。何年ぶりかのドイツ映画祭、ペーター・フライシュマンの名前がないのがさみしいと言えば言えるが、それでもここに送られてきた作品はかなり充実したものだった。これだけの作品を集められる国は、いま、そう沢山はない。まずアメリカ、イタリア、日本、それに多分スイスとカナダ。フランスやイギリスはまず勝負になるまいと思う。なるほどドイツ映画のルネサンスが語られるのも無理からぬ話である。ドイツ映画は猥雑なポルノばかりではなかった。真面目な映画もやっぱり存在していた。想像力も豊かだし確かな現実凝視の姿勢も認められる。技術だってなかなかしっかりしている。立派なものではないか。人はそうつぶやくなりそっと胸を撫でおろす。ムルナウを生み、ラングを生み、スタンバーグを生んだ国がポルノ一色というはずがないではないか。しかし、こんな安堵のつぶやきをつぶやかせてしまうところが、今日のドイツ映画の限界だとも言える。それがたかだか面白いといった程度のものでしかないのも、その点と深く関わってくる問題なのだ。

(略)

総じて、ポルノならざるドイツ映画は、どれもこれもヘルツォーク的な面白さに汚染されている。なかで一篇、生真面目な映画信仰をまぬがれたような映画がある。ヴィム・ヴェンダースの『アメリカの友人』〔77年〕がそれである。これはまったくもって趣味の悪い作品だ。スティーヴン・スピルバーグが巧みに避けて通った罠にひとつひとつはまって歩いたような醜悪な映画である。しかしこの醜悪さは、ドイツがはからずもポルノ映画の生産国であるという現実を内部にとり込んだことからくる積極的な顔なのだ。趣味の悪さで醜く武装しない限り、とても映画など本気で信じられないものの必死の顔がここにみられる。だから『アメリカの友人』は、きわめて倫理的な映画なのである。ヒッチコックのように倫理的な、とまでは言わないが、すくなくとも倫理的たらんとしている映画だ。パトリシア・ハイスミス原作の舞台をハンブルグに移植し、パリとニューヨークに小規模ながらロケーションする。これは、南米のどこかの国に大規模なロケーションを行なった『アギーレ、神の怒り』〔72年〕のヘルツォーク的生真面目とは比較にならぬ悪趣味ぶりと言ってよい。それにニコラス・レイを連れてきて、ラオール・ウォルシュばりの眼帯をかけさせる。いったい、これほどあっけらかんと映画神話の最も神経過敏な部分に触れてしまっていいものなのか。ニコラス・レイに出演を依頼する。これはあらゆる潜在的シネアストの夢であろう。そう夢みはしても、それが映画への冒瀆にほかならないと知っていればこそ、誰もその夢を顕在化させはしなかったのだ。ニコラス・レイその人の姿を目にしたのは、あの感動的な『北京の55日』〔63年〕が最初にして最後であったことぐらいは誰もが憶えているだろう。半身不随のアメリカ大使として、車椅子の上でぶるぶる震えていたあのニコラス・レイから今度は視力まで奪おうというのだから、ヴェンダースの趣味の悪さは徹底している。それに、ドイツ映画祭のプログラムには名前さえ載っていないが、サミュエル・フラーを引っぱりだしたことだって相当なものだ。しかも『気狂いピエロ』〔65年〕での黒眼鏡を奪われてしまったフラーは、まるで『ショック集団』〔63年〕の監督だとは信じかねぬほど両目をしょぼしょぼさせ、自信なさげに右往左往するばかりなのだ。50年代に活躍したこのふたりの神話的なハリウッドの巨匠を、しかも彼らの晩年が身にまとう不運さをことさら強調するかのごとき役柄に起用する神経というやつは、それが鈍感でないとしたらほとんど荒唐無稽の域に達していると思う。S・ブルーノといった自己同一性を欠いた存在で『カスパー・ハウザーの謎』を捏造するヘルツォークの生真面目さと比較にならぬほど、ヴェンダースの映画への関わり方は不真面目である。本当に、こんなことをしてしまっていいのか。われわれがゴダールの『軽蔑』〔63年〕でフリッツ・ラングを見ていなかったなら話は別だが、しかし『軽蔑』はもう15年も昔の映画ではないか。ヘルツォークがごく正常に時代をとり違えていたとするなら、ヴェンダースの時代錯誤ぶりは、ほとんどナンセンスに近い出鱈目さだと言ってよい。つまり、彼の時代錯誤は倒錯的なのである。ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』が戦略的に倒錯を選んでいるように、ヴェンダースは荒唐無稽を選んでいる。しかもそのことを立証するかのごとく、ダニエル・シュミットその人も『アメリカの友人』に姿をみせている。シュトロハイムとルビッチとをルノワール的に撮るといった荒唐無稽なスイス人シュミット。それに加えて、パリのシーンにはフランスの友人 として『ママと娼婦』〔72年〕のジャン・ユスターシュまでが顔をみせている。ジェラール・ブランはもちろん『ハタリ! 』〔61年〕からきているし、デニス・ホッパーの場合はどうだろう。はたして『イージー・ライダー』〔69年〕からと言って、それですむものかどうか。とにかくここには、いかにも趣味の悪い雑多な映画的記憶の攪拌ぶりがみられる。その攪拌ぶりは、繰り返すが、悪趣味で、不真面目で、ナンセンスで、荒唐無稽で、出鱈目である。

いったい、映画史に限らずドイツ文化史一般で、これほどまでの荒唐無稽な言説が出現したためしがあっただろうか。しかもその荒唐無稽ぶりが、いかにもあっけらかんとした風情でドイツを代表してカンヌあたりまで運ばれてゆく。これはドイツ文化史上、まぎれもない事件というべきものである。こんな出鱈目な御都合主義が大手を振って歩く時代はドイツにはなかったはずだ。ヘルツォークみたいな生真面目な人間はほかの芸術ジャンルで何人も出ているし、これからもまた出るだろう。だが、ヴェンダースの鈍感さを装ったこの倒錯的な倫理性というやつは、ドイツ文化にはまったく未知の不気味な存在なのである。おそらく、ルートヴィヒⅡ世を除いて、こんな不可解な現象をドイツは体験しなかったはずだ。ハンス゠ユルゲン・ジーバーベルクの『ルートヴィヒⅡ世のためのレクイエム』〔73年〕さえが、そのあまりの生真面目さゆえに、この現象に迫りえずにいる。『アメリカの友人』は、ちょっと映画的感性が繊細だとか映画的想像力が独特だといった程度の人間には撮ることができない。いかにもふてくされた映画なのだ。みずからの血統をあからさまに触れてまわるがゆえに身元確認が困難になるというこの理不尽な記憶の攪拌ぶり。この不可解なる現象に思わずうろたえたドイツ文学者やドイツ思想家がいなかったというのは、彼らが相も変わらず生真面目で、荒唐無稽に無感覚で、それにほんのすこしばかり教養が欠けているからだろう。連中の知的=感性的好奇心の欠如は、この『アメリカの友人』という積極的にいかがわしい反ドイツ的現象に脅えてみることすらできなかったのだ。サミュエル・フラーから黒眼鏡を奪ってみせたドイツ人という存在を、彼らはいったいどんなふうに理解することができるか。見ているがよい。彼らはなんとも退屈なやり方でヘルツォーク的饒舌と戯れるという最も安易な道を選ぶことぐらいしかできないだろう。

映画にはやっていいこととやってはいけないことがある。これは慎みの問題であると同時に、映画の存在に関わる問題でもあると言える。たとえばピーター・ボグダノヴィッチの『ラスト・ショー』。あのジョン・フォードとハワード・ホークスしか上映していない映画館の光景というやつは映画がやってはならぬこと、慎みとして画面にはみせてはならぬことのひとつであろう。ところでこの『ラスト・ピクチャー・ショウ』の原題を持つボグダノヴィッチの映画のほかに、『夕陽の群盗』〔72年〕のロバート・ベントンが撮った『レイト・ショー』〔77年〕という原題の傑作があって、この種のアメリカ映画が日本にどうしても入ってこないという点が先刻の面白さとつまらなさの弁証法的関係を決定しているのだが、これは映画がやっていいことの限界をきわめた意味できわめて重要な作品である。これは胃潰瘍の初老の私立探偵が、『赤ちゃん教育』〔38年〕のキャサリン・ヘップバーンを思わせるまったく出鱈目な女性の協力的妨害を得て事件を解決するハード・ボイルドのパロディなのだが、その探偵がついに独身生活に別れを告げる決意をする最後の場面は、ハリウッドの蠟人形館の巨大な広告の前で演じられていて、だから遠景から捉えられた一組の男女は、ボリス・カーロフのフランケンシュタインの怪物の絵から一貫して見下された格好で愛ならざる愛を告白し合うことになる。つまりロバート・ベントンは、慎みを欠いたボグダノヴィッチが落ちた罠を巧妙にかわしながら、罠をかわす身振りだけで一篇の映画を撮るという芸当をやってのけたのだが、じつはヴィム・ヴェンダースの前作『さすらい』〔75年〕は、これまたボグダノヴィッチ的な罠に、すんでのところで落ちかねぬ作品だったと言える。というのも、これは、ドイツの田舎のうらぶれた映画館をまわりながら、その上映設備を修理したり映写技師を手伝ったりする男の物語だからだ。彼は、一応はミュンヘン・ナンバーの大型トラックで東独国境の近くまで放浪してまわる。途中で離婚したばかりの医者を拾って相棒としながら町から町へと移動してゆくこの物語には、あからさまに『イージー・ライダー』の記憶がまつわりついていて、医者を演じる役者がどこかジャック・ニコルスンに似ていたりもするのだが、われわれが画面で目にすることになる唯一の映画は、もちろんフォードやホークスではなく、題名も知れぬドイツのポルノ映画であるにすぎない。しかもその語りには、物語の進展をたえず一歩ずつ遅らせるといったたぐいの緩慢な運動に支えられ、たとえば『ラスト・ショー』でベン・ジョンスンの死を物語に導きいれるための若者たちのメキシコ旅行への出発といった、省略のための経済的挿話構築を徹底して排している。それが『時の絆とともに』という原題の持つ引きのばされる時間感覚と見事に調和し合って、この黒白スタンダード画面の二時間半という、ことのほかゆるやかな流れをほとんど甘美なといってよい停滞ぶりに仕立てあげている。たとえば放浪の映写技師がある朝トラックを離れてゆっくりと白茶けた丘を登り、誰もいない風景の中央にしゃがみこんでゆっくり時間をかけて野糞をたれる感動的な遠景のように、映画は、徐々に男の裸の尻を離れる排泄物が乾いた土地の上にすこしずつ弧を描いて堆積するのに立ち会うのに似た音のない運動を見る者にもたらしていた。まあ、言ってしまうならこれは面白さを避けたじつに静かで退屈な作品だったのだが、問題は、ヴィム・ヴェンダースがこの道を歩み続けていたとしたなら、彼があるとき知らぬまに面白い 映画を作ってしまっていただろうという点だ。事実、それに続く『都会のアリス』〔74年〕は、写真家と少女とのオランダ彷徨というかなり面白い 映画であった。いかにも興味深いのは、『アメリカの友人』のヴェンダースが、罠を避けて歩くという罠をも避け、戦略的かつ倒錯的に罠に落ちることを選んでいるという点なのだ。つまり彼は、生真面目さを逸脱する方向に自分を位置づけたのである。これは『激突! 』〔72年〕、『続・激突! カージャック』〔73年〕のスピルバーグが、『JAWS・ジョーズ』のスピルバーグへと変容するに似たかなり勇気のいる逸脱ぶりである。スピルバーグはその変容をあくまで聡明に生きてみせたわけだが、ヴェンダースの場合はそれをほとんど荒唐無稽に実践してみせたのだ。『ジョーズ』が潔癖さという生真面目さの余韻をとどめていたぶんだけ、ヴェンダースに分があるといえる。『アメリカの友人』がなにより優れているのは、彼の変容が、あえて頽廃に似ているという点だ。『さすらい』や『都会のアリス』が真面目にみえ、『アメリカの友人』があからさまに出鱈目に映るというところが肝腎なのである。

パトリシア・ハイスミスの主人公がハンブルグあたりをうろついているという点が、まずいかがわしい。こんないかがわしさを平気でやってのけうる人間は、ジェームズ・槇――三木ではない――ぐらいしかいないだろう。そこにテンガロン・ハットをかぶったデニス・ホッパーが姿をみせ、アタッシュ・ケースをさげたジェラール・ブランが顔を出すのだから、もう誰もこんな映画を信じはしない。ファーリー・グレンジャーのテニス選手が交換殺人をロバート・ウォーカーから提案されるならまだ話は信じられるし、アラン・ドロンがモーリス・ロネを殺してからそのサインを捏造するというのもまだ信じられる。だが、このさえない口ひげの額縁商人がパリのメトロやドイツの夜行列車で人を殺したり殺しそこなったりする筋書きなど、どうして信じられるか。アメリカのスパイ映画の稚拙な模倣にすぎぬではないか。こんなものはドイツ映画ではないと、ヘルツォーク的饒舌に汚染しきった感性は口にする。ところで『アメリカの友人』の素晴らしさは、それがまさに稚拙な模倣、不器用な翻案にしかみえないところにある。じつは、『勝手にしやがれ』〔59年〕のジャン゠リュック・ゴダールは、なんとも巧妙にアメリカのギャング映画の模倣に失敗していたのだ。この巧妙なる模倣の失敗は小津安二郎のものであるかもしれない。ヴェンダースの見事さは、この巧妙なる模倣の失敗に失敗することをあえて選んでいるところにある。それというのも、いま映画にあっては、稚拙なる模倣と不器用なる翻案こそが真に独創的ないとなみにほかならぬことをヴェンダースが体験によって知っているからだ。巧妙なる模倣、器用なる翻案というやつは山ほどある。また巧妙なる模倣の失敗も山ほどある。映画でまだ行なわれていないのは、まさに稚拙なる模倣ではないのか。おそらくこれはフランソワ・トリュフォーが、『黒衣の花嫁』〔67年〕と『暗くなるまでこの恋を』〔69年〕とによって失敗した試みなのだ。ヴェンダースは、この稚拙なる模倣の成功に最も近くあった映画作家と言えるだろう。そしてもしそれに成功したなら、そのとき映画は、このうえなくいい加減な無責任といったものの責任を引き受け荒唐無稽な相貌におさまるほかはあるまい。だいいち、ヒッチコックの巧妙な模倣なんてできるわけがない。それはヒッチコックが偉大だからではなく、そんなことをしたら映画の虚構が崩れ落ちてしまうからだ。ブライアン・デ・パルマを見よ。それが堕落であり頽廃というものだ。ヴェンダースは、稚拙なる模倣、不器用なる翻案によって堕落を避け、頽廃にさからおうとする。パロディとは、いかなる意味においても映画的美徳ではないのだ。実際、ここでは、ニコラス・レイやサミュエル・フラーがなんともみっともない稚拙さで自分自身を模倣している。そこにはヴェンダースの真の倫理性を認める必要がある。それというのも、ここでのふたりの巨匠は、『軽蔑』におけるフリッツ・ラングの場合のように、作者ゴダールのオマージュを受けとめるといった単純な構図にはおさまりえない宿命を担っているからである。その理由は何か。彼らふたりが、すでに、一方は『北京の55日』、いま一方は『気狂いピエロ』で、到底忘れがたい鮮明な輪郭におさまる素晴らしい姿を視線にさらしてしまっているからだ。レイもフラーも、すでに一度、映画的記憶に刻み込まれた顔であるがゆえに、ヴェンダースによって出演を依頼されたのである。そして彼らは、ともに自分自身を命令し矯正すべく、稚拙なる模倣を演技しているのだ。『軽蔑』のフリッツ・ラングは、模倣すべき自分のイメージを映画的記憶の底に隠し持ったりはしていなかった。だから彼は、堂々と自分であればよかったのだが、ニコラス・レイとサミュエル・フラーは、反復によって自分自身を減少させざるをえなかったのである。半身不随から視力の喪失へと事態を悪化させる『理由なき反抗』〔55年〕の監督は、黒眼鏡から老眼鏡へとその表情を弛緩させる『四十挺の拳銃』〔57年〕の監督とともに稚拙なる模倣によって減少し退化する自分を視線にさらし、そのことでヴィム・ヴェンダースの倫理劇を支えることになる。これが感動的でなくしていったい何が感動的というのであろうか。

反復によって減少し退化する自分を受けいれること。戦略的に頽廃を模倣し、頽廃と思われるものとむしろ積極的に戯れながら荒唐無稽な御都合主義を身にまとうこと。夜汽車の殺害シーンに姿をみせるアメリカの友人 の唐突な出現ぶりを見てみるがよい。なんといい加減な筋立てであることか。ニューヨークの摩天楼を背景とした開けた土地でデニス・ホッパーとニコラス・レイが謎めいた再会を演じるとき、それをはるかに監視するサミュエル・フラー一党を室内に据えた窓越しの遠景のとってつけたような偶然ぶりを見よ。何と出鱈目な劇作術であることか。このいかにもあっけらかんとした荒唐無稽ぶりは、いうまでもなくヒッチコックのそれでありブニュエルのそれでありハリウッド時代のフリッツ・ラングのそれであって、ヘルツォークをはじめとする生真面目なドイツ映画が徹底して欠いているものだ。ヴィム・ヴェンダースの作品は、いま、映画が醜く病んでいるという現実そのものを基盤としている。畸型を描き崩壊を語りながら映画そのものの頽廃を必死の環境として生きていないところにヘルツォークの面白さと倫理性の欠如とが露呈しているのだ。彼は、その想像力と感性とで映画的頽廃をかわしうるものと信じており、模倣的反復による減少と退化とを倒錯的に受けいれねばならぬ現実に盲目なのである。

『アメリカの友人』の素晴らしさは、何よりもまずこれが病気の映画だという点にある。病気という名の存在の減少、そして退化。ハンブルグの額縁職人ヨナタンは、冒頭から生の緩慢なる崩壊に身をさらしている。このヨナタンを演ずるブルーノ・ガンツのいささか鈍重でたるんだ表情が途方もなく感動的である。彼の演技、というよりその身振りのいっさいは、『真夜中のカーボーイ』〔69年・監督ジョン・シュレシンジャー〕のジョン・ヴォイトのように素晴らしい。これは文字通り病気の眼、病気の指、病気の髪の毛そのものだ。そのシャツから帽子までが病気に冒されたようにたるんでいる。しかもブルーノ・ガンツは、その肉体の頽廃をより大がかりな頽廃の網の目にいささか逡巡しながらもみずから進んで捕えられることで超えようとする。この殺人の契約の曖昧な肯定ぶりが不自然だと言う人がいるとするなら、映画とはそれ本来が途方もない不自然であり、今日その不自然さが癒しがたくあたりに蔓延しているのだと答えよう。トリュフォーの『私のように美しい娘』〔72年〕の素晴らしさも、そうした認識による頽廃こそを描いていたからではないか。

『アメリカの友人』は不治の病に冒された額縁職人が演ずる減少と退化との戯れであると同時に、映画自身が演ずる減少と退化との戯れでもある。あらゆる映画的体験が稚拙なる模倣的反復にすぎず、巧妙なる模倣やその失敗こそが映画的頽廃を普遍化しているということ。だから真の独創性とは、映画的倒錯の中にしかない。荒唐無稽な出鱈目さと積極的に戯れること。それが唯一の倫理的姿勢というものだ。映画が懐しいから、敬愛するニコラス・レイやサミュエル・フラーの姿を画面に必要としているのではない。映画という頽廃をより大がかりな頽廃によってくぐり抜け、そのためにみずからの減少と退化とを受けいれること。緩慢に、ゆっくりと時間をかけて崩壊をまさぐること。そしてその崩壊を稚拙なる模倣によって反復すること。ヴィム・ヴェンダースのこの姿勢は、ドイツ映画のルネサンスとやらを信じる無邪気さから、荒唐無稽なる無表情によって言葉を奪ってしまうだろう。しかしそれにしても、人は、この、面白さに背を向けたつまらない映画の、沈み込んだような鈍い輝きに、どんなふう敏感たることを学びうるだろうか。それには、誰もが、アメリカの友人 との理不尽な遭遇へと向けて精神と肉体とを組織しなおさねばなるまい。


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シネマの記憶装置[新装版]

蓮實重彥=著
発売日 : 2018年10月25日
2,200円+税
四六判・並製 | 308頁 | 978-4-8459-1811-9
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