はじまりの物語
ちゃんとやりたけりゃ、リストを作るんだ。
If you want to do something right, you make a list.
──アントマン&ワスプ(2018)
未来には誰にも予想できないような特大の成功が待っている。マーベルのスーパーヒーローの1人になるまで、マーク・ラファロはそれを知る由もなかった。
2012年4月、マーベル・スタジオは『アベンジャーズ』のプロモーションのために俳優と制作関係者たちをヨーロッパに送り込んだ(同作はスペインでは『Los Vengadores』〔借りを返す者たち=アベンジャーズの意〕と呼ばれ、60年代にテレビで同名のスパイ番組〔邦題『おしゃれ㊙探偵』(1961-1969)〕が存在した英国では、混乱を避けるために『Avengers Assemble』〔アベンジャーズ・アッセンブル〕と呼ばれた)。ロンドンでは、タータンチェックのジャケットに色眼鏡で決めた傾奇者ものロバート・ダウニー・ジュニアが、得意のネタで記者会見に詰めかけたジャーナリストたちを魅了していた。彼が演じたキャラクターが着ていたブラック・サバスのTシャツを一着拝借したという話だ。「それで、どうしたかわかる?」とダウニーは冗談を飛ばす。「どこかに置いてきちゃったよ」
決して安くはつかないこの旅芸人一座は、マーベルを最近買収したウォルト・ディズニー・カンパニーによって賄われていた。一座の次の目的地はローマ。スペース・シネマ・モデルノ劇場の外で、主役級の俳優たちは歓声で迎えられた。群衆の中にはマーベル・キャラクターの衣装やその世界観に精通したファンも見られた。その1人、熱烈なロキのファンであるイタリア人は、『アベンジャーズ』のヴィラン、ロキ(狡猾で悪戯好きな北欧神話の神)を演じるトム・ヒドルストンにプレゼントを渡した。伝統的な舞台演劇の訓練を受けた英国俳優ヒドルストンは、そのファンから、ロキのコスプレをしたカエルのカーミットのぬいぐるみを受け取った。
マーベルが4年の歳月をかけてヒットさせた映画群によって不動の人気を得たスーパーヒーローたちが一堂に会した『アベンジャーズ』が、世界的なヒットを飛ばすのは間違いなかった。『アベンジャーズ』は、マーベルのプロデューサーと役員たちが過去10年に渡って成し遂げてきた仕事の集大成だった。その中にはマーベル・スタジオ社長のケヴィン・ファイギもいた。倒産の危機から脱するために自社が所有するキャラクターの財産権を複数抵当に入れてウォール街の金融機関から融資を受けたマーベルにとって、『アベンジャーズ』はまさに賭けに勝った証でもあった。融資された金はマーベル・スタジオが製作した初期の映画群の製作費に充てられたのだが、それはスタジオの将来をかけた大博打 だったのだ。
4月21日の夜、イタリアでのプレミア上映が終わった後、ファイギは主演俳優とプロデューサー数名を招いて、アンティーカ・ピザという家族経営の食堂を訪れた。ブラック・ウィドウこと暗殺者ナターシャ・ロマノフを演じたスカーレット・ヨハンソンは花柄と蜂の巣模様をあしらったネイビーブルーのドレスを着ていた。髪をポニーテールに束ねたクリス・ヘムズワースは、北欧神話の神というよりはサーファーのあんちゃんだったが、それでも雷神ソーを想起せずにはいられなかった。繊細な科学者ブルース・バナー、そしてその別人格である巨大なハルクを演じたマーク・ラファロはスーツにネクタイという出で立ちだったが、勤務時間中に居眠りをしていて起こされた歴史の教授という印象だった。この夕食の時点でアカデミー賞候補経験者は、『キッズ・オールライト』(2010)でのラファロだけだった。アベンジャーズ組のテーブルにいたのは映画スターであって実際の神々やスーパーヒーローではなかったが、21世紀において、映画スターこそがむしろ神々なのだと多くの人びとが考えていた。
食事に招かれた俳優たちは全員、それぞれのキャラクターを複数のマーベル映画で演じる契約を結んでいた。ヘムズワースの場合は6本の映画に出演する義務があった。「まずは「とりあえず1本完成させよう」と考えていた」と後にヘムズワースは回想している。「もし私がへまをせずに最初の1本を完成させられたら、もしかしたら最初のアベンジャーズに出してもらえるかもと思ってましたが、2本目のアベンジャーズがあるなんて思いもしなかった」。ヘムズワースはマーベル・スタジオを成功に導いているのは、その代表たるファイギの才能と先見の明だと本人に向かってそう言ったそうだが、ファイギが同意したかどうかは疑わしい。ヘムズワースの受けた印象によると、ファイギは自分の言葉を真面目に受け取ってもいなかった。
レストランは有名人のオーラに照らされていたが、遅い時間に始まった晩餐はさらに夜遅くまで続き、給仕担当者たちはアベンジャーズたちのテーブルをいささか心配そうに見守っていた。次々とワインが運ばれていく。そして、それは食事の最中に起きた。自家製プロシュートとズッキーニのヤギ乳チーズ焼きがテーブルに運ばれた後、ホウレン草とローズマリー風味のジャガイモを添えた牛肉が出される前のことだった。ファイギは自分が考えるマーベルの遠大な未来構想を披露し、その場に居合わせた全員の度肝を抜いた。
このときファイギはまだ38歳という若さだった。その立ち居ふるまいは、ハリウッド映画スタジオの社長というイメージからは程遠かった。同世代のプロデューサーで彼ほど成功した者はいないが、血生臭い戦いの末その地位を勝ち取った古参兵という様子もなかった。強いていえば、「アベンジャーズと食事をしよう」というラジオのコンテストで優勝した映画ファンという面持ちだった。しかしそんなファイギが、複数の映画シリーズが相互につながりを持ちながら1つの世界を構築するというマーベルの野心的な構想を、熱を込めて語り出したとき、同席した全員が沈黙した。
ファイギはこう言った。「すべてのコミックスを活用して、マーベル宇宙を作りあげたいんだ」
「ファイギがマーベル・ユニバースという言葉を使ったのを聞いたのは、あのときが初めてだった」とラファロが振り返る。「それを聞いて「うん、すごく野心的だよな。映画の歴史に残るくらい野心的」と思いました」
ファイギが思い描くマーベルの未来像は、直線的でも限定的でもなければ、安全でもなかった。マーベル・コミックスの歴史でもとくに奇妙なキャラクターたちが棲息する場所を隅々まで探索し、見つけ出した魔法使いやアフリカの王族たちを主役にした映画を作る。その可能性にファイギはわくわくしていた(『ドクター・ストレンジ』や『ブラックパンサー』そして『インヒューマンズ』として実現することになる)。「これから2年の間に15本の映画を製作するよ」
「衝撃でしたよ」とラファロは言う。「「この男、本気だ」とね」
「僕はあまり社交的ではないし、天気の話やらスポーツの話が得意ではありませんから──自分が次に何をしたいか話すだけです」とファイギは2007年に自分を評して言っている。「どうせ皆にホラ吹きだと思われていると、僕はいつも考えています。映画関係者にはそういう人が多いですから。歴史的に見ても、それが何であれ、ハリウッドの人が言ったことは95パーセント実現しません。自分のアイデアを誰かに売り込むときには、いつもそのことを自覚しています。「どうせハリウッドの残りの95パーセントと同じようにホラだと思っているだろう? でも実現するようにちゃんと仕事するんだからね」と考えながら話しますよ」
事実、すべてではないが、ファイギと仲間たちは、あの夜の誓いをことごとく実現していくことになる。実現への道すがら詳細が変わるものもあった。『インヒューマンズ』はテレビ・ドラマに割り当てられ、アベンジャーズの一編として構想された『シビル・ウォー』は、スーパーヒーローが大挙登場する『キャプテン・アメリカ』の1本として売り出されることになる。とはいえ、これらの変更はファイギの大構想の中では些細な局面にすぎない。2023年に本書の執筆を終えた段階で、マーベルは31本の映画を製作し、世界中で280億ドル以上の興行収入を上げているのだ。マーベル映画を全部まとめれば、疑いなく最も成功した映画シリーズと言える成績だ(2番目は、12作で103億ドル稼いだ「スター・ウォーズ」シリーズ)。複数の作品間で重なり合うようにプロットを共有し、10を超えるテレビ番組とも複雑につながっているマーベル映画は、大勢のキャラクターと彼らを取り巻く出来事、そして感情を昂らせる要素で織り上げられた広大なタペストリーだ。スーパーヒーローものというジャンルの伝統に従った作品もある一方で、その定義そのものを拡張した作品もある。SFジャンルの古い型にファンタスティックな設定を混ぜ込んだ作品群には、外宇宙での剣戟もあればメタフィクション的家族劇もある。1つの映画シリーズを使って、戦争映画も、スーパーヒーロー大乱戦映画も、妄想的政治スリラーも作れる。そんな可能性を試した者は、「キャプテン・アメリカ」シリーズまで存在しなかった。
たちまちMCUとして広く知られるようになったマーベル・シネマティック・ユニバース。毀誉褒貶はあるものの、それはスーパーヒーロー映画の代名詞となった。スーパーヒーローものというジャンルの型を自らに合う形に作り直し、攻めた品質管理を実行する一方で、常に観客を驚かせる仕掛けを怠らないマーベル・スタジオ。ファイギをはじめとするプロデューサーたちは、常に見据えた未来に向かって歩み続ける一方で、必要があれば調整し、展開とともに使えなくなったアイデアは放棄し、予想を裏切る方向に舵を切る柔軟性を持っていた。マーベル・スタジオ成功の核にあるものが何かと言えば、巨額の製作費にもかかわらず発揮されるこのような柔軟性だろう。
アベンジャーズの一員にキャンティのおかわりを注ぎながら、詮索好きなイタリア人のウェイターが小耳に挟んだMCUの「フェーズ1」は、すでに過去のものになった。巨額の収益を上げるエンターテインメント企業ならどこでも、厳格なセキュリティ・プロトコルによって管理される秘密厳守の規約を導入している。マーベル・スタジオもそれに倣った。世界的大スターの中には、マーベル関係の特ダネを探られたら肝を冷やす者もいるだろろう。舞台裏を明かす映像を多数公開し、社史を扱う美麗で分厚い本も出版したマーベルだが、しかしそのすべてが語られたわけではない。かつてマーベルに関わった者、そして現在マーベルで働く者なら誰でも、そのことを知っている。「いつか、誰かがすべてを語らなければ。皆がそう思っているはずですよ」と、あるマーベル内部の情報提供者は教えてくれた。
* * *
本書の執筆を始めた頃、マーベル・スタジオからの妨害はなかった。少なくとも最初の数か月は。しかしやがて、ディズニーが関係者に、私たち執筆者と会って話をするなと伝えているという噂を聞くようになった。インタビュー拒否はあったが、マーベル・シネマティック・ユニバースを現在の形に作りあげた百人以上の人びとの声を聞くことができた。ケヴィン・ファイギを筆頭に、スターク・インダストリーズのロゴをデザインした女性、プロデューサー、監督、スター、特殊視覚効果の達人たち、スタントの代役、脚本家、アニメーター、ヘアメークのスタイリスト、美術監督、テレビシリーズのショーランナー、助手、アカデミー賞俳優、スターのトレーナー、果てはドクター・ストレンジの浮遊マントに至るまで、インタビューを敢行した。そして明かされたさまざまな情報。秘密の部屋のこと。砂漠の啓示。飛行することがなかった空飛ぶ車のこと。水玉模様の馬のこと。妙に本数の多い紫色のペンの謎。殴り合いに発展しかねなかった大激論のこと。インタビュー以外にも、さまざまな書籍、雑誌の記事、そしてポッドキャストに情報を求めた。この本は、もちろんMCUについて書かれた最初の本ではない。私たちの目標は、マーベル・スタジオの歴史を、今まで語られなかったさまざまなストーリーで補完し、決定版として出版することだ。
ケヴィン・ファイギは有名人になりたかったわけでも敵を作りたかったわけでもないが、結果として有名になり敵も作った。マーベル・スタジオは強固な覚悟を以て自らの存在を現実のものとし、次々とヒット映画を発表した。同じような方法で成功を目論んだハリウッドの競合相手は、ことごとく失敗した。しかしマーベル・スタジオの物語は、振り返って見れば決して連戦連勝の物語ではない。そこには一時的な資金確保のために売り飛ばされたキャラクターの使用権を奪い返す必死の戦いがあった。スタジオの親会社であるマーベル・エンターテインメントが、MCU構想を一方的に管理するためにクリエイティヴ委員会を設置したときも、マーベル・スタジオは自分たちが作りたい映画を作るための戦いを強いられた。キャラクター玩具の売り上げだけに固執したクリエイティヴ委員会は、マーベルのヒーローを演じる俳優は白人男性で名前はクリスのような者が好ましいとすら言ってきた。ファイギや同僚のプロデューサーたちは、非白人や女性のヒーローが主人公を務める映画を作ろうと何年も戦ってきた。創立から日の浅い頃のマーベル・スタジオは、頑迷な監督や喧嘩腰の俳優といった内部の人間とも格闘しなければならなかった。しかし、大ヒット映画連発の仕掛け人として認知されるようになってからも、ファイギには別次元の戦いが待っていた。ファンタジーの世界にしか存在しないような巨大な飛行要塞を建造するのは並々ならぬ挑戦だったが、競合他社が躍起になって撃ち落とそうとしてくるなか、より巨大な飛行要塞を建造しながら飛行を続けるのは、さらに至難の業だった。
元々ハリウッドのスタジオというシステムは、パラマウント、ワーナー・ブラザース、RKO、MGM、20世紀フォックスという、いわゆるメジャーとして知られる5つの企業複合体を中心に構築された。1930年代から40年代にかけてこの5社は、自社の撮影所を工場のように使って映画を量産し、しかも自社傘下の劇場チェーンを使って配給をコントロールしていた。そのような垂直的制限行為による独占は、1948年の最高裁判決で違法とされ解体された。スタジオを中心とした映画産業の仕組みは1970年代までしぶとく延命されたが、ついに自分たちのセンスの致命的な古さに気づくにいたり、若い世代の映画作家たちの創造力を外注することになったのだった。既存のリソースを即興的に活用してイノベーションを生むシリコンバレー的な起業の方法論と、旧来の映画スタジオというシステムを組み合わせて成長するマーベル・スタジオの様子は、本書に綴られているとおりだ。かつてのスタジオがそうしたように、俳優を長期契約で確保し、少数の専属脚本家を雇う。そして少数精鋭のアーティストを雇って、場合によっては監督が雇われる前に製作される映画のヴィジュアルを決めてしまう。かつてのメジャー映画スタジオにあってマーベルにないものといえば、作品を配給する仕組みだけだった。しかしその欠陥もディズニーによって補完された。2019年にディズニープラスとのつながりを持ったマーベル・スタジオは、それ以来この配信プラットフォームを通して、多くの家庭に直接配信できるようになったのだ(2022年時点では1.5億世帯)。
大量生産工場に成り果てる可能性があったマーベル方式だが、結果的に旧来のスタジオと同様、気晴らしにはもってこいの娯楽作から堂々たる傑作までが入り混じる映画群を生み出すことになった。マーベル・スタジオの理念は創立以来「一番いいアイデアが勝つ〔Best idea wins〕」だ。どの作品であっても、制作に関わる人の意見は聞く。いや、制作に関係のない人でも、たとえばたまたま居合わせた掃除の人や、スタジオ訪問中の子どもの意見でもだ。たとえば『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』や『マイティ・ソー バトルロイヤル』そして『ブラックパンサー』。いずれも予算をたっぷり使って語られるスーパーヒーローの冒険譚であるが、そこに突拍子もない才能を持つクリエイターの個人的なヴィジョンが巧みに溶け込んでいる。そのような映画を可能にするのが、マーベル・スタジオの方法論なのだ。
マーベル・スタジオの勝利は金銭的な成功だけではないとはいえ、2019年に公開された『アベンジャーズ
/エンドゲーム』は、世界中の興行収入によってまぎれもなく歴史上最も成功した映画となった(『アバター』(2009)は僅差で王位から蹴落とされるも、後に奪回)。スーパーヒーローのありうべき姿という伝統的な固定観念を、マーベル・スタジオは完全に吹き飛ばしてしまった。1960年代にマーベル・コミックスは、ヒーローたちに現実的な問題(宿題とか家賃とか)を与えた。そうすることで、読者に自分もヒーローたちの秘密の私生活を知っているかのような気分にさせ、スーパーヒーロー出版界を再び活況に導いた。そんなマーベル・コミックスの功績を、マーベル・スタジオは新時代に適した方法で再現した。映画に応じて、それから、ヒーローに応じて新鮮なトーンを見つけ出し、ポップカルチャーの今に精通していて、茶目っ気たっぷり。そして、そんな自分たちのユーモアについてこられると観客を信頼している。マーベル・スタジオは、製作した映画においても、その方法論においても、独自のスタイルを作りあげたのだ。
もちろん好意的な者ばかりではない。マーティン・スコセッシが2019年に、スーパーヒーロー映画は「映画じゃない」と言ったのは有名な話だ。スコセッシはさらに「正直、あの手のものが何に一番近いか考えてみたとき、思いつくのは……よくできているし、俳優はあんな環境でも精一杯頑張っているのはわかるが、あれは遊園地の乗り物だね」と付け加えた。
フランシス・フォード・コッポラもこれに同意して「考えるのも嫌だ」と言った。気分を害したコッポラは、こう続けている。「昔はスタジオ映画があった。今はマーベル映画があるだけだ。それは一体何なんだ? あれは映画のプロトタイプの1つで、その同じ型を、何度も何度も違った体裁で作り直しているのが、つまりマーベル映画だ」
彼らの意見に嚙みついて反論した人たちが、映画は芸術だと証明したわけではなかった。しかし映画とは、少なくともよくできた映画とは、ウィットとスペクタクル、そして作品から溢れる制作に関わった者たちの情熱によって、自らの芸術性を証明するのである。そうは言っても映画ビジネスは確かに様変わりし、その原因の一端はマーベルにある。風変わりで野心的な映画は、ハリウッドの周辺部で作られ続けてはいる。しかし全部観たいと思ってもその数はあまりに多く、そのような作品を探したくても配信プラットフォームはあまりに多様だ。しかしながら、興行規模の大きい映画に限って言えば、IP(知的財産権)こそが王様であり、ことIPの価値に関する限りマーベルに敵う者はいない。何十年にも渡って書かれた何千もの物語を源泉にしたマーベルのIPは、当分枯渇する心配もない。
マーベルの支配力は、『ザ・ボーイズ』(2019−)や『インビンシブル~無敵のヒーロー~』(2021−)そして『ウォッチメン』(映画2009/ドラマ2019)といったマーベル以外の映画やテレビシリーズによって測りうるのかもしれない。いずれの作品も現存するスーパーヒーロー文化を、ときとして無礼と言っていいほど暴力的に、嬉々として解体している(そして、いずれも元々スーパーヒーロー・コミックスに対する批評を意図して描かれたコミックスを原作にしている)。しかし、現在マーベルが立ち向かうべき真の敵は、他作品でも他スタジオでもなく、自分たちなのだ。それは自らに課した品質基準に応える戦いだ。同時に、何十もの作品を観た後でも、なおスリルを求めて新作を観たいと人びとに思わせるという挑戦。次の作品を観るための宿題のように感じられたら負けだ。マーベル・スタジオが全速で突入したジレンマの海。それは、マーベルのお抱え脚本家やイラストレーターにはお馴染みのジレンマだ。どうやって物語をはっきりと終わらせずに続けていくか。どうやって、お馴染みになってしまったキャラクターに興味を持たせ続けるか。そして、どうやったら全体を再起動させることなく、成功の方程式を新しく書き換え続けることができるのか。
ディズニーの命を受けて、マーベル・スタジオは加速度的に製作本数を増やしているが、あたかも、どんなにいい作品でもいつかは飽きられるという限界を試しているかのようだ。MCUのフェーズ1に属する映画は、約5年をかけて公開された。5年といえば、2021年の『ブラック・ウィドウ』から始まるフェーズ4、5、6の制作スケジュールを足したものより、少し短い程度だ。それが現在は、1年のうちに3本の映画と6本のテレビシリーズというペースになっており、その結果観客も制作者たちも疲れてしまった。MCUの成功は、ファイギを筆頭とするマーベル・スタジオの中心的な幹部たちが、どれだけ実地に現場に参加できるかにかかっているが、このモデルを大量生産にあわせて拡張することの限界が明らかになってしまった。ファンたちは『アントマン&ワスプ:クアントマニア』は精彩を欠き、月並みなCGIは耐え難いと不平を言ったが、しかしそれでも2023年前半に何週間も全米興行収入1位となって何百万ドルも稼ぐことになった。
マーベルが製作した作品には、質の差はあれど多くの続編や、ブランド拡張を求めたものが多く含まれる。しかしそれでも足りないとでも言うように、白黒のゴシックホラー番組や、現実というものの本質を問うような超現実的なシリーズを作っている。まるで業界の覇者となった自分たちが、どこまでやりすぎたら視聴者に見捨てられるか試しているようだった。そして試してみてわかったのは、まだまだやりすぎる余地があるということだった。
サノスが自らを指して言ったように、MCUは運命のごとく絶対なのだ。少なくとも10年に渡って他に対して圧倒的優位を保ち続けたのはマーベル・スタジオしかないと感じられた。マーベル・スタジオがエンターテインメント業界における失敗を無効化する技を編み出したというわけではなさそうだが、まだ1歩や3歩くらい足を踏み外しても、苦もなく生き残れるに違いない。MCUという映画の宇宙は、私たちの世界を完璧に乗っ取ってしまった。MCUが永遠に続かない時系列の存在など考えられないほどだ。そんな現在の状況を知っていると、混沌に満ちたスタジオ誕生の物語に驚かずにはいられない。
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。