「社会を動かすアート」は可能か?
社会そして特定の人々に深く関わりながら、何らかの変革を生み出すことを志向するさまざまな芸術行為であるソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)。
『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践』は、SEAをかたちづくってきた歴史的背景や、近年ますます活発となった批評と議論、アーティストが独自のアプローチで取り組む実践を概観できる先駆的アンソロジーです。
今回の「ためし読み」では、編者アート&ソサイエティ研究センターの工藤安代さんによる「はじめに」を公開いたします。
はじめに
工藤安代
本書はソーシャリー・エンゲイジド・アート(以下SEA)について、その歴史的視野と理論を紹介し、さらにアーティストによる実践の記録を加えることで、SEAを多角的に考察することを目的としたものである。
社会との深い関係を志向する芸術実践にはいまだ定着した用語はなく、多様な呼称やフレーズがあふれている。2010年代には、欧米を中心として関連書籍や論文も増えていたことから、私たちは、こうした芸術の潮流をより深く日本に紹介したいと考え、多種の類似用語のなかから「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」という言葉を選び、研究会の開催、パブロ・エルゲラによるSEA入門書の翻訳出版、「リビング・アズ・フォーム」展(巡回版)の開催などの活動を行ってきた。この一連の活動からSEAという言葉は、徐々に国内芸術関係者に広まっていったのだが、この芸術実践の定義が捉えにくいゆえに、多様な理解や誤解が生まれている様子もわかった。より明確な形でSEAについての議論を進めるために、国内でのプロジェクトの実践、海外実践の紹介が重要だと感じ、2017年2月末「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展──社会を動かすアートの新潮流」の開催へとつながった。その結果は、短期間に多数の鑑賞者の来場を得、この領域への関心の高さを実感するものだったが、SEAのような芸術実践を従来型の展覧会形式で提示する難しさを改めて認識することにもなった。
これまでの一連の活動の成果と課題をふまえて、SEAの系譜・理論・実践を関連づけ、こういった芸術実践を改めて検討する場の必要性を感じたことが、本書の出版の動機となった。
SEA──用語における議論
SEAの用語をめぐり、本書の筆者たちもこうした芸術の社会的転回について、ソーシャル・コオペレーション(social cooperation)、ソーシャル・プラクティス(social practice)など異なる用語を用いている。ここからも、この新たな芸術動向がいまだ議論の渦中にあることがわかる。筆者の一人カリィ・コンテが指摘するように、論者が何に重点を置くか(協働性、参加性、コミュニケーション、プロセスを媒体とするもの)によって数多くの用語が誕生しているのだ。「ソーシャル・プラクティス」という呼称を好んで使う論者も少なくなく(本書でも星野やコンテなど)、この言葉はアートの社会的実践を強調する意味では的を射ている一方で、エルゲラが主張するように、「アート」の語を捨象したことで、その実践に備わっているアートの要素が切り離されてしまう。
SEAの邦訳にあたり、カタカナ表記にした意図は、「engaged」を訳する難しさゆえだった。直訳すれば「社会関与の芸術」となるが、この「関与」という日本語のあいまいさとニュアンスが、このような新たな芸術動向を日本に紹介する邦訳として適していると思えなかった。本書の中で星野太が指摘するように、「engaged」は、単に社会に「関わる」という中庸を得たものではない。社会に関わる多様な芸術的行為を言い表しつつも、特定の人々に深く関わりながら、何らかの変革を生み出すという意味を込めた用語としては、ソーシャリー・エンゲイジド・アートと原語のまま表記するのが最適だろうと考えた。
本書の構成について
本書を構成するにあたって、SEAの系譜・理論・実践についてそれぞれ寄稿者を立てている。最初の「系譜」に関しては、本書の中で最も紙面を占める第1章、トム・フィンケルパールの著作『What We Made』(2013)の序論「社会的協同(Social Cooperation)というアート│アメリカにおけるフレームワーク」を紹介した。彼は本稿でまず芸術実践の用語を整理し、自身は「ソーシャル・コオペレーション(社会的協同)」 という言葉を選んでいる。これは、参加者との対話や協同的取り組みによるプロジェクトをフィンケルパールが特に重視している現れである。論考全体を通して北米の美術史に軸を置き、1960年代から現代に至るまで、SEAのような芸術実践が社会に誕生した系譜や基礎的フレームを分析した上で、現在この領域で議論されている主なる論点や、国際的な動向についてその概略をまとめている。本書を企画するにあたり、私たちが全体の骨子にしたいと考えたテキストであり、SEAをめぐる議論のための貴重な基礎知識を提供するものとなる。また、2章のカリィ・コンテと八章の秋葉美知子は、それぞれ70年代北米でのフェミニズム運動と雑誌『High Performance』を跡付けることによってSEAの系譜に多面的な視野を与えている。コンテは第二波のフェミニズムの思想や戦略が、芸術における社会的転回に新たな道筋をもたらし、そのパイオニアとしてフェミニズム・アーティストの位置づけを主張する。一方、秋葉はSEAの端緒をフェミニズム運動と同時代に現れたコミュニティ・アートであることを強調し、70年代後半には上記雑誌においてアーティストの実践がつぶさに検証されていたことを提示する。両者ともこれまで紹介されることのなかった米国でのSEAの系譜に光を当てた論考であり、SEAのルーツを考察する上で示唆に富んだものである。
次に、SEAをめぐる「理論」については、本書副題にもなっている「芸術の社会的転回(Social turn)」をめぐり、中心となる議論についてその論点を明らかにし、今後の議論の基盤を提供することを試みた。3章のグラント・ケスターの小論は、今日まで芸術理論に浸透している美学的自律性の信念を批判し、芸術の自律と機能という二元論を乗り越え、理論と実践を結び付ける、新たな視点を構築していく必要性を説いている。これまで日本に翻訳がされてこなかったケスターの思想をコンパクトにまとめた論考であり、7章でジャスティン・ジェスティが概説するケスターとクレア・ビショップとの論争の理解を深める上でも参考になるだろう。戦後日本の視覚芸術と社会運動の関係性を研究しているジェスティは、論考後半で日本の状況にも触れ、日本固有の社会・政治・文化背景をふまえ、その独自性が今後のSEAの展開に貢献する可能性があると言及している。
加えて、4章の星野太による論考は、「社会的転回」をめぐる海外での理論の動向を紹介し、この領域の初研究者や実践者がSEAにおける理論の要点を把握できる知識を提供する。その上で、シャノン・ジャクソンの「パフォーマンス的転回」を援用し、SEAのパフォーマンス的側面に着目することによって、SEAを芸術として批評する新しい視点が得られるのではないかと論じる。
昨今、社会的な芸術実践は若手アーティストや美術学生を惹きつけ、数えきれないほどの実践が行われている。それゆえ、多数の実践が蓄積されてきた現在、その実践の美的評価と社会的評価を分断せずに捉えるような新たな批評手法を考える時期に入っている。ここで紹介した三者の論考は、SEAに関する批評の前提となる与件や枠組みを与えるものとなるだろう。
SEAの「実践」に関しては、国際的に活躍する日本人アーティスト、高山明、藤井光が自ら作品を語るテキストを掲載し、これによりSEAについて多角的に理解が進むことを意図した。2編に共通するのは、自身が地域・社会に関わり、多くの参加者を得て作品を構成する時に、その実践が所与の社会集団に及ぼす意味や、自身の立ち位置を熟考するプロセスが明示されていることである。SEAを領域横断的に捉えたい読者にとって有益な論考となるだろう。加えて、2017年のSEA展の一環として、東京でプロジェクトを実施した5名(組)のアーティストを取り上げ、彼らのステートメントを掲載した。ここからは、SEAの具体的イメージを想起できるだろう。
本書の巻末でまとめた「SEAに関する年表」は、SEA研究会から生まれたものである。2013年より公開型の研究会を続け、戦後日本美術をSEAの視点からなぞるような作業を繰り返し、前述した2017年のSEA展に向けて作成していった。この年表作成には、日本における戦後の美術史を置き換えようという意図はなく、これまでの歩みを別の視点からふり返りたいという思いがまずあり、芸術界から忘れ去られた活動、無視されたものなど、もう一度SEAという文脈から見つめ直してみようと考えた。展覧会場に展示した年表はβ版として提示し、来場者が付け加えたい項目をポストイットに書きつけ、任意に貼り加えるという形式を用いた。本書の年表にはその成果が数多く加わっている。
変わりゆくSEA
21世紀に入り20年が過ぎようとしている現在、私たちの世界は前世紀から大きく変化している。グローバリズム化はさらに進み、国家が市民よりも市場の力に支配されるようになり、拡大を続ける不平等な社会の下で、民主主義は機能不全に陥り、民族主義、ポピュリズムが世界的に蔓延し始めている。SEAに造詣が深いキュレーターのネイトー・トンプソンは、現代社会のこうした変化について私たちがいかに無頓着に暮らしているか警告を発する。今日の世界は、映画、広告、ソーシャル・メディアなどと言った文化産業の爆発的な成長に伴い、イメージと情報の大洪水に押し流されている。そこではアートか否かの違いは見えづらく、大半の人々が誕生時から消費社会に生き、我々の仕事や態度、期待や感情にまで浸食し、日常生活を大幅に変化させている。こうした社会環境は前世紀とは異なり、これからのSEAの実践は新たな局面を迎えるだろう。SEAの端緒から半世紀が過ぎ、新たな社会課題が現れると共にアーティストの実践もまた刷新されてきた。現代美術においてはこれまで周縁的に見えていたSEAは、現代においてはもはや周縁的ではなくなり、アートマーケットでは、社会問題を新たなコンテンツとして扱う魅力的なアートピースとして取引されはじめている。これまでの美術史において幾度も起こったように、周縁としてのSEAは芸術制度に今後回収されていくのだろうか? それとも新たな地平を開く社会的な芸術実践になるのか、その先はまだ見えていない。本書がその行方を考えるための一つのステップとして寄与できることを願っている。
(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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