ラッセンの歩み
編:原田裕規
1956年3月11日、クリスチャン・リース・ラッセン(Christian Riese Lassen)はカリフォルニア州メンドシーノ郡で生まれました。軍人だった父ウォルター、芸術的な才能に溢れた母キャロルのもと、姉にダイアン、兄にロンをもつ五人家族の末っ子でした。
ラッセンが11歳のとき、一家はハワイ・マウイ島の古都ラハイナへ移り住みました。ハワイ王国時代の首都だったラハイナは、19世紀に捕鯨基地として栄えた歴史ある町です。そんなラハイナに転居して2日目に、ラッセンは生まれて初めてサーフィンをし「一生かけて追求していくぞ」という決意を固めることになりました。
その後はサーフィン漬けの日々を送り、1974年には17歳の若さで雑誌『Surfer』の表紙に抜擢。サーファーの聖地として知られるオアフ島のノースショアでコテージを借り、のちにサーフィンのワールドカップで四度の優勝を飾ることになるマーク・リチャーズらと共同生活しながら切磋琢磨する日々を送りました。
海を愛するサーファー、ラッセン。そんな彼にはもうひとつの顔がありました。
初めてサーフィンをした翌年、12歳のときにラッセンは初めての「画業」として、ラハイナのギャラリーで水彩画を販売してもらう機会を得ています。さらに15歳になると、ラハイナの会社に作品を売り込み、イルカやクジラがあしらわれたTシャツが商品化。この出来事は、作品が公的に複製・流通していく体験としてのちの彼の歩みに大きな影響を与えることになりました。
サーフィンからインスピレーションを得た作品を描くかたわら、自らスプレーしたボードでサーフィンをするなど、二つの世界を軽やかに行き来していたラッセン。しかし20代になると、ラッセンは次第に日々の時間の多くをアートに割くようになっていきました。
1980年代初頭には、「シュール」な作風で知られるアーティスト、ローレン・アダムスとの共同制作に打ち込んでいます。二人してアトリエに閉じ籠もっては、昼夜を問わず絵の実験に明け暮れる日々。画家仲間と絵画表現を追求したラッセンは、1983年に作品《ラハイナ沖のザトウクジラ》を完成させたことで、水中と水上を真横から描く「二つの世界」と呼ばれるスタイルをものにしました。
そして1985年、29歳になった彼はラッセン・アート・パブリケーションズを設立。その翌年には、ユタ州パークシティの市長を務めたジョン・プライスの娘、ジョナ゠マリー・プライスとの仕事も始めました。ビジネスの英才教育を受けていたジョナのサポートもあり、みるみるうちに事業を拡大させていったラッセンは、1989年に日本のエージェント、アールビバン株式会社との販売契約を締結。平成の始まりとともにラッセンの本格的な日本上陸が実現しました。
1990年には、海洋の環境改善と生物保護を訴えるシービジョン財団を設立。1991年にラハイナの目抜き通りにギャラリー・ラッセンをオープンし、92年には代表作の《サンクチュアリー》が国連記念切手に採用されるなど、その活躍は最盛期を迎えることになりました。
日本でのブームが起きたのもこの時期で、その知名度はピカソやゴッホに匹敵し、当時の日本人にとって「アート」の代名詞となるほどの勢いでした。1997年にはアールビバン主催の全国巡回原画展が開催され、2002年までの間に国内150都市を展示会が巡回することとなります。この躍進のなかでラッセンのメディアミックスも進み、1997年の映画主演、98年のミュージシャン・デビュー、2005年の大手パチンコメーカーとのコラボレーションなど、アートの枠にとどまらない多彩な活動が日本全国に浸透していきました。
2011年には、奇しくも自身の誕生日にあたる3月11日に東日本大震災が発生。活動初期から一貫して「海との共生」を謳ってきたラッセンにとって、慣れ親しんだ日本の町並みを津波が襲った出来事は衝撃的なものでした。そこでラッセンは震災発生の49日後に欧米人としては初めて被災地をチャリティー訪問。その献身的な姿は2012年に放映されたドキュメンタリー番組『TOMORROW beyond 3.11』(NHK BS)でも特集されています。
このように、1990年代以後のラッセンは日本を主戦場に活躍していましたが、2010年代に入ると、アメリカ発のネットカルチャー、ヴェイパーウェイヴの担い手により「バブル期の象徴」として再発見され、思わぬかたちでアメリカにおける受容が起こりました。
この出来事と同時期に日本でも新しい世代によるラッセンの再発見が進み、筆者が企画した「ラッセン展」(2012年)と「ラッセン本」(本書の初版、2013年)による「アートとしての再発見」、2014年に流行し始めた芸人・永野の一発芸による「お笑いとしての再発見」、その流れを汲んだ日清食品「どん兵衛」とのネタ的なコラボレーション(2016年)やアールビバンによる「超ラッセン原画展」(2017年)の開催など、2010年代半ばにラッセンの再受容が急速に進んでいきました。
しかし、そんな矢先にラッセンを三つの試練が襲いました。新型コロナウイルスの世界的な流行と、暴行事件による逮捕、そして故郷ラハイナの焼失です。2019年に発生した新型コロナの感染拡大により、日本で予定されていたアールビバン主催の展覧会は次々と延期となり、20年4、5月の二ヶ月間にはすべての展覧会が中止されました。コロナの余波はその後もしばらく続き、経済的苦境に立たされることになります。
また2019年12月には、ラハイナの路上で警備員と口論になった末にナイフで脅迫。その1週間後には象の木彫を用いて隣人の車を破損し、さらに9日後には元恋人の住居に押し入って家財道具を破壊した罪に問われることになりました。一連の暴行事件に対して検事は、精神疾患に対する適切な治療がなされていなかったために起きた事件であると指摘。またラッセン自身は不調の背景に「経済的な問題」があったと語り、2021年3月に4年間の保護観察処分の判決が下されました。
しかし、保護観察処分中のラッセンにさらなる悲劇が襲いかかります。2023年8月に起きた故郷ラハイナの焼失です。
《ホーム・ポート》 《ラハイナ・スターライト》 《ドリームタイム》など、数々の作品を通してラハイナの風景を描いてきたラッセン。日本で成功を収めたあとも、東京ではなくラハイナに自宅とギャラリーを構え、愛する地元とともに歩み続けていました。にもかかわらず、気候変動が遠因となって発生した大規模な火災により、ラハイナの町はわずか一日で8割が焼失。100人以上の人々が犠牲になる取り返しのつかない出来事が起きてしまいました。
この原稿を執筆している2024年1月現在も、ラッセンはまだ火災に対するコメントを出していません。このあまりにも大きな喪失は、容易に言葉にできるものではないからでしょう。だからこそ、これからのラッセンが何を絵にしていくのか──そこにラハイナは描かれるのか、描かれないのか──一層の注目が集まっています。
日本のバブル経済のうねりから近年の気候変動に至るまで、ラッセンの活動は常に時代とともにあり続けました。そのため、ラッセンについて語ることは現代の日本を、そして世界を見つめることにもつながっていくのです。
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