ためし読み

『恐怖 ダリオ・アルジェント自伝』訳者あとがき

訳者あとがき

野村雅夫

この本は、ダリオ・アルジェントの自伝 Dario Argento, Paura: The Autobiography of Dario Argento(Einaudi,2014)の全訳である。アルジェントが自身を語る「初の自伝」という触れ込みで、彼が愛してやまない都市トリノに拠点を置くイタリア最大手の出版社のひとつエイナウディから、2014年に出版されたものだ。その後、2019年にはイギリスのファブ・プレスから英語版が出版され、そこにはアルジェントとも親交の深いアラン・ジョーンズによる注釈と、ジョーンズ提供による撮影現場やオフショットを含む写真がふんだんに収録されている。

この日本語版では、英語版に加えられていた注釈と、豊富な写真及びそのキャプションをそのまま採録した。本文はイタリア語の原書から直接日本語に訳したが、英語版で加わった要素をも反映させることで、内容としては原書以上に充実したものになっていると言える。ともあれ、アルジェントのキャリアにまつわる種々のエピソードを日本語で読める環境がこうして整ったのは喜ばしいことだ。

映画監督は映像で表現することを生業としているにもかかわらず、往々にして、自伝は面白いものとなるのが興味深いことだが、アルジェントのこの本も、たとえどこからページを開いたとて、あるいは、あなたが作品を観ていないとしても引き込まれてしまうのが特徴だ。どのジャンルであれ、巨匠と呼ばれるようなポジションにまで到達した監督ともなれば、スター俳優との仕事も経験しているわけだし、代表作の制作の裏話など、そのまま描写するだけでも耳目を集める文章になってしまうものだ。ところが、アルジェントは読者の期待をピョンと軽やかに乗り越えてしまう人で、もともと新聞記者として映画評やインタビューも担当していたからか、あるいは生粋のエンターテイナーだからなのか、とにかく一見さんに優しくて、読み物としてただただ刺激的な一冊になっていることに感心させられる。日本にもファンの多いアルジェントの「文章のファン」が増えることを訳者としては期待するばかりだ。

ダリオ・アルジェントは、映像と文章に関わりの深い一家に生を受け、その文化的に恵まれた環境を享受しつつ、ちょくちょく脇道にそれる冒険もしながら、イタリアのスリラー、サスペンス、刑事ものを総称するジャッロというジャンルのホープとして世に出ることになる。彼にしたって、突然変異的にキャリアをスタートしたわけではなく、たとえばマリオ・バーヴァやセルジョ・レオーネ、そしてアルフレッド・ヒッチコックのような先人たちの薫陶を直接、あるいは間接的に受けながら独自のスタイルをものにしていった努力の人でもあることは、この本を読めばよくわかる。さらに、マンネリを嫌う傾向があり、一度やって成功したことは、製作や配給側にたとえ求められたとしても、できれば繰り返したくないと、折に触れ自らを律しているストイックな精神も印象に残ることだろう。当然ながら、それは言うは易く行うは難しなわけで、辛酸を嘗めることもしばしばであり、その都度眉間によせた皺のひとつひとつが本書のページに刻み込まれている。ただし、今振り返ればそんなこともあったと面白話に仕立ててしまうところに、アルジェントのストーリーテラーっぷりが発揮されている。

多くのジャンル映画がそうであるように、ホラーもサブカルチャーとして消費されてきた経緯があり、本来ならその功績をもっと評価されて然るべき監督や作品であっても、かつては軽んじられてきた。潮目が大きく変わったのは、ビデオテープで映画を繰り返し大量に観る若者たちが登場した80年代だろうか。その頃に青春を映画に捧げた、たとえばクエンティン・タランティーノのような監督は、ジャンルによって優劣をつけることに否定的で、ヒップホップにおけるDJ的な感覚で自分にとってのベストな表現をサンプリングすることで新たな優れたタペストリーを編み上げてきた。その中でも重要な参照元としてアルジェント作品を挙げていることはよく知られている。その流れの先に、ルカ・グアダニーノによる『サスペリア』のリメイクもあるのだろうし、もっと視点をワイドに取れば、ゾンビものの「現代化」やA24スタジオの一連の作品といったホラーの世界的なリバイバル、いや、もはや定着において、アルジェントが果たしてきた役割の再定義が行われているのが2020年代の状況なのだろう。

日本においても2023年に公開された新作『ダークグラス』がスマッシュヒットしたように、アルジェントの作品には根強い人気があることは間違いない。自伝の日本語版であるこの本が出版されることは、何よりのその証左だ。吉本ばななや綾辻行人を筆頭に、ファンを公言する有名人もいる。アルジェント研究会もあり、主宰する矢澤利弘は詳細な研究本『ダリオ・アルジェント 恐怖の幾何学』(ABC出版、2007)をまとめていて、本書の訳出にあたり、2007年の出版と同時に購入していた私も、改めてページをめくりながら感心し、大いに参考にさせていただいた。加えて、アルジェントがフックアップしたと言っていいバンド、ゴブリンの音楽に代表されるイタリア独自のプログレッシブ・ロックも長年にわたって熱心なファンを魅了し続けてきた経緯がある。ただし、こうした熱狂は少なくとも映画研究者には広く及んでいないように見えるし、イタリア文化研究の文脈の中でも俎上に載せられることは少ないというのが、かつてイタリア映画研究をしていた訳者ふたりの実感だ。だからこそ、本書が未来の研究者、そして映画ファンの豊かな考察の材料になればこんなに嬉しいことはない。

持ち前のサービス精神が発揮されているからか、本書におけるアルジェントは、基本的にどこもかしこも赤裸々だ。いくつか例を挙げてみよう。彼の作品にはシリアルキラーが頻出するが、シリアルラバーと呼びたくなるほどのアルジェントのモテっぷりには目を見張るし、あの独特の髪型はいつも自分でハサミを手にしていたということも明かされる。さらに、自ら革手袋をはめて凶器を持ち、殺人シーンで手のみのカメオ出演をすることになった経緯。いくつになってもなかなか拭えない公開初日の不安。自殺願望に駆られた時期があったこと。超常現象なんて信じないけれど、偶然の一致にはすこぶる魅了され、実はジンクス好きなこと。うまくいった撮影の技術的工夫を嬉しそうに披露するのはもちろんとして、山のようにあるダメになった企画もなんだかんだと開陳してくれる。家族をこよなく愛しながらも、諸悪の根源は家族にあると考えていること。エンターテインメントに関わる家系に生まれ、文学や映画への知的好奇心、そして何より恐怖心が芽生え育まれた幼少期。映画批評やインタビューに夢中で取り組んでいた若い頃。著名な映画人との交流の数々……。

こうして振り返ると、個々の作品の裏側や背景についても豊富な記述はあるのだが、私としては、監督デビュー前のエピソードにかなりのページ数が割かれているのが本書の特徴ではないかと考えている。それがこれまでの研究本や評伝との大きな違いだろうし、今後の作家論的な研究のヒントにもなる部分に違いない。ただし、アルジェントが自分の作品の中であちこちのロケ地を編集でパッチワークにして架空の都市を作り上げるのが好きだったように、この自伝だって多分に「脚色」された部分があるだろうことは容易に推測できるので鵜呑みにするのは注意が必要だ。だが、そこにこそこの自伝の読み応えがあり、私たち読者の方もそれぞれのアルジェント像を再編集していく楽しみがあるというものだ。

本の冒頭に注意書きを付したが、人名など、イタリアの固有名の表記について悩ましいところがあった。映画関係においても、明らかなアクセントの誤りや誤表記が日本ではそのまま定着してしまった例がある。本書には出てこないがシルヴァーナ・マンガーノや、ベルナルド・ベルトリッチがその好例だ。前者は、そのまま読むとアクセントを間違えて発音してしまうので、シルヴァーナ・マンガノと書くのが正しい。そして、ベルトリッチは単なる間違いであって、ベルトルッチと書くべきである。そういう観点から、この機会によりイタリア語の音に近い表記にアップデートしていきたいという願いから、セルジオ・レオーネはセルジョ・レオーネ、ルチオ・フルチはルーチョ・フルチといったように、既存の表記を刷新した。

最後に、翻訳にあたってお世話になった人たちに感謝の意を表したい。まず名前を上げるべきは、このアルジェント自伝邦訳企画がスタートした際、私や私の会社「京都ドーナッツクラブ」の面々にやらせると良いのではと助言してくれたという土田環氏だ。2000年代の半ば頃、ローマでぶらぶらしていた私を面白がり、まだ何者でもなかった私をいろんな映画関係者に繫いでくれた兄貴分だが、今回もまたお世話になってしまった形だ。次いで、共訳者の柴田幹太君。私がラジオDJとして毎日バタバタしていて、翻訳作業に取り組む時間にも限界があることから、この分厚い自伝に立ち向かうには仲間が必要だと、大学生の頃からの盟友である彼に声をかけて正解だった。彼が奇数の章、私が偶数の章を担当したのだが、こうして交互に進めていくことで、互いに尻をたたき合うことにもなったし、何より訳がより練れるのではないかと考えての方針だった。ただし、私にもラジオの番組があるように、彼にもフィルムの修復や現像という本職があるわけで、私たちは全力を尽くしたつもりではあるが、作業のスピードは客観的に見ればのんびりとしたものだった。そんな進捗をやさしく見守り、訳文に対して的確かつ詳細な指摘と提案をいただいた編集者の薮崎今日子さんにも感謝したい。最後に、訳文についてアドバイスをくれたり、アルジェントについての雑談にたくさんつきあってくれたりと、さまざまな局面で私に寄り添ってくれた家族にも、ありがとう。

2023年8月

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恐怖 ダリオ・アルジェント自伝

ダリオ・アルジェント=著
野村雅夫/柴田幹太=訳
発売日 : 2023年10月26日
3,400円+税
A5判・上製 | 464頁 | 978-4-8459-2013-6
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