ためし読み

『恐怖 ダリオ・アルジェント自伝』

ヴェネト通りにあるホテル・フローラに滞在して、何ヵ月になるだろう。最上階のスイートは小さいながら私だけのもので、二つの部屋の大きなフランス窓からは、こっそりと誰にも気づかれることなく世界をのぞくことができる。眼下にはボルゲーゼ公園の静寂、そしてその向こうにローマのカオスが霞かすんで見える。

毎朝、日が昇る頃に、公園の中を散歩する。動物園の方で響くライオンの咆哮に耳をすましたり、葉々の上の朝露がゆっくりと乾くのをじっと見つめたりする。その日最初のエンジン音や人間の声が聞こえてくると、街が目を覚ましつつあることに気がついて、慌てて隠れ家へ戻る。言ってみれば私の限られた宇宙は、これですべてなのだ。

1976年の冬。新作『サスペリア』の公開準備がまもなく整う。きっとたくさんの観客と話すことができるだろう。映画監督になろうと決めてから今まで、望んだことさえないほど大勢の人たちに会うことになる。

娘二人からずいぶん離れたところにいる。フィオーレはトスカーナで母親と暮らしているし、一歳になったばかりのアーシアには、一度も会ったことがないと言っていい。

私は今日まで、孤独は貴重な財産だとずっと思ってきたが、これはあまりに行き過ぎだ。私はすべてを手に入れたが、何ひとつ手に入れていないのだ。

ときどき私はスイートルームのドアを開け放ち、女優や裏方、あるいは一緒に仕事をしている親しい仲間たち数人と、小さなパーティーを企画する。信頼できる人たちだ。食事をし、酒を飲み、ダラダラとおしゃべりをする。すべてがうまくいくように思えてくる。

ところが皆が帰ってしまうと、強迫観念のようなものが胸を締めつける。消えてしまいたいような、誰にも見られたくないような、あるいは誰にも知られたくないような、ある種の願望に気づく。ささやかなお祭り騒ぎで気を紛らすくらいでは、解消しようと試みることさえも無駄に思えるような、刺すほどの鋭い感覚だ。

できるだけ早く眠りがやってくることを願いつつ、着の身着のままベッドに倒れ込む。

目を覚ましてもホテルの自分の部屋にいることはわかっているし、夜はまだこれからだ。私は相変わらず独りのまま、そして私のままだ。

それから私は立ち上がり、途方に暮れて辺りを見渡す。まるでセイレーンたちがユリシーズを誘惑したように、大きな窓に誘われるように、従順な私はそこに近づいていく。もしこんな高さから身を投げたら、何も残らないだろうな。

空気の冷ややかな抱擁と、髪の毛をくしゃくしゃにする風を想像することができる。地面に叩きつけられるときの耳鳴り。どこまでも暴力的なその衝撃を感じ取り、自分の肉体がボルゲーゼ公園の方まで散り散りになるのを見ることさえできる。《ホラー映画監督、自殺》。

カーテンの隙間から外の世界をのぞき見ると、私を非難する声が聞こえてくる。もう迷いはない。一歩ずつ確実に歩を進める。しかし、タンスと小さな机がひとつずつ、そしてその周りのたくさんの椅子が行く手を遮さえぎる。

苛立ちまかせにテーブルを動かすと、椅子が床に倒れる。ところがタンスはずっと重く、それを動かせるだけの筋肉を持ち合わせない私は激昂するばかりだ。歯を剝き出しにして、象嵌ぞうがんが施されたタンスを拳で叩きつける。

私はゆっくりと床に崩れ落ち、失意のうちに頭をカーテンにあずける。肺の中から息を吹き出す。その時になって初めて、目に涙を浮かべていることに私は気づく。

それはまるで、誰かが私の中にあるスイッチを押したようだ。

そこで私は思い出した・・・・・・・・・・

何日か前の夜にも、虚空に向かって身を投げ出したいという説明のしようのない、でもとても強烈な願望に取り憑つ かれて、真夜中に目を覚ましたことがあった。冷たい空気の中に頭を突き出す。そのままの状態でしばらく過ごし、眼下できらきら光る公園を見つめ、その後で我に返ることができたのだった。

朝日が昇り始めるとすぐに、友人の医師を呼び、一部始終を話した。何も信じられなくなっていること、あらゆることについて自分がどうしたいのか、娘たちを見捨てるなんてことはできないということ。スイートルームに籠城すること、そしてフランス窓の前に家具のバリケードを作ることを私に勧めてくれたのは彼だった。自殺は一方通行の道だと、彼は説明してくれた。一度侵入してしまうと、もう二度と後ろには戻れないし、逆にそれを回避できるならば、命は救われる、と。

だから私は、ホテルの従業員たちに助けを求めることにした。「どんな理由があってもこの家具を動かさないように、くれぐれも同僚たちにも言っておくれ、頼んだよ」。面食らいはしたものの、口の固い彼らは何も質問することなく、お願いしたことをだけをやってくれた。

そんなわけで私は今、家具とカーテンの間で衰弱している。絶望的だ。

どうしてこんなことになってしまったんだ?

そして何よりも……。反射する窓の中から執拗に私をにらみつけるこの男は、一体誰なんだ?


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恐怖 ダリオ・アルジェント自伝

ダリオ・アルジェント=著
野村雅夫/柴田幹太=訳
発売日 : 2023年10月26日
3,400円+税
A5判・上製 | 464頁 | 978-4-8459-2013-6
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