イントロダクション
「秘訣……わからないな。まず何かすごく好きなものを見つけて、そして……それを死ぬまでやるといいんじゃないかな」(1)
──マックス・フィッシャー『天才マックスの世界』(1998)
ウェス・アンダーソンが監督した最初の映画『アンソニーのハッピー・モーテル』(1996)の最初の場面で、自分のことで頭がいっぱいな主人公アンソニー(ルーク・ウィルソン)が、結んで繋いだシーツを伝って地面に降り、精神病院から脱走する。この念の入った脱出計画は、オーウェン・ウィルソン演じる親友ディグナンの発案。怪しげな計画を練るのが生きがいのようなディグナンは、茂みに隠れて待っている。アンソニーは自主的に入院しており、いつでも好きなときに、正面玄関から堂々と退院できるのだが、ディグナンはそれを知らない。何ごとかと慌てる医師にアンソニーは「あいつがすごくやりたそうだったから」と説明する。「本当のことを言っちゃ悪いと思って」(2)。
『アンソニーのハッピー・モーテル』から『フレンチ・ディスパッチ』(2021)まで、素晴らしくも困惑に満ち、個性的かつ一点の汚れもないような10本の映画たちを監督したアンダーソンだが、このテキサス生まれの映画作家も、ディグナンと同じ思考様式の虜になっているといえるのかもしれない。せっかく本や映画のような冒険ができるなら、出来合いのロープを揺らして大地に降り立つことができるなら、正面玄関から歩いて外に出るなぞもっての他なのだ。現実も、解像度を上げなければつまらない。
アンダーソン映画に登場する複雑な主人公たちを並べてみると、気づくことがある。どのキャラクターも、解決できない何らかの不幸せと格闘している、あるひとりのキャラクターを発展させたものなのだ。「極度の疲労」として現れるその不幸せは、全員に共通した病なのだ。
常に自作によって深い思索を行っているアンダーソンだが、こう発言してもいる。「私がドラマにしたいのは、そして私がときどき可笑しいと思うのは、何かの虜になった誰かが解き放たれる様子なんじゃないかと思うことがあるんです」(3)。
著者が観た最初のウェス・アンダーソン作品は『天才マックスの世界』(1998)だった。三角関係を描いたこの風変りな映画を私が大いに気に入った理由は、どうして自分がこの映画を気に入ったか、はっきりわからないからだった。腹を抱えるほど笑えるがコメディとも言い切れず、心温まる一方で悲しく、シニカルで、すべてを見透かしたような映画でもある。過激で、観ていると気恥ずかしさに歯がむず痒くなるようなギャグに満ちていながらも、心休まる。そしてすべてが美しく整えられている。他にあの映画を表す言葉はみつけられない。そこから私は、ほんの刹那に現れて消えるアンダーソンランドという双極性の不思議の国に行くために、喜んで白兎の穴に身を投じることになった(『ダージリン急行』[2007]の兄弟をめぐる騒動に特に魅かれつつも、『グランド・ブダペスト・ホテル』[2014]にチェックインするたびに、その変わらぬ素晴らしさを再発見してしまうのだ)。
不運な主人公たちの物語を、スイス製時計のような精巧さで組み上げ続けるのはなぜかと問われたら、アンダーソンは狼狽えるだろう。他に方法などあるわけがないじゃないか。「私は、あるやり方に従ってセットをデザインしたり、物を飾りつけたり、映画を撮っています」とアンダーソンは言ったことがある。「方法論を変えるべきかと考えたことも何度かありましたが、結局今のやり方が好きなんですよ。私の、映画監督としての肉筆の証のようなものなんです。現在に至までのどこかで、私とわかる筆跡が残る映画を作ると心に決めたんだと思います」(4)。
ウェス・アンダーソンは、ウェス・アンダーソン以外のものにはなり得ないのだ。コーデュロイのスーツから、ABC順に整頓された本棚から、アート映画への参照から、アナグマに扮したビル・マーレイに至るまで、彼の映画は彼自身の人生の、そして人格の延長なのだ。時としてアンダーソンの作る映画は、映画作りそのものについての映画でもある。『ライフ・アクアティック』(2004)には文字通り撮影隊が登場し、『グランド・ブダペスト・ホテル』ではカオスの只中必死に平静を保とうと努めるムッシュ・グスタヴ・Hが登場するが、悩める芸術家が彼の映画のいたるところに隠れているのだ。
続編などというみっともないものは、アンダーソンにはあり得ない。ダラスの下町からインド北部からディストピアの日本に至るまで、彼の作品世界は幅広く多様だ。そして海洋学からファシズムから犬に至るまで、扱う主題は多岐に渡る。それでもアンダーソン作品群は、完全に自己完結した世界の中で親密に繋がりあっているのが感じられる。もはやウェス・アンダーソンは、ウェス・アンダーソン流の家元なのだ。
実は、アンダーソンは年齢を重ねるにつれて、さらにアンダーソンらしさを増している。『フレンチ・ディスパッチ』は、目にも眩いAリスト俳優たちの共演によるストーリーテリングのお祭りなのだ。
そしてそのような理由により、ウェス・アンダーソンは書籍の題材として魅力的なのだ(彼自身も映画書籍の愛好家である)。精密な演出上の策略。色彩設計を示すムード・スケッチ。厳選された布地。そして定規で測ったかのように精巧なカメラ移動。それらの要素が本と切っても切れない関係を維持するような、隅々までコントロールされた映画制作ができる監督は数少ない。着る物や、自分の社会的な居場所の飾り方は、そのキャラクターがどういう人なのかを決定する。美術や衣装デザインは、プロットの捻りや登場人物の語られない背景と切り話すことはできない。『ライフ・アクアティック』の船員たちが、真っ赤なビーニー[折り返しのないニット帽のこと]をそれぞれ微妙に違った角度で頭にかぶっていたのを覚えておいでだろうか。もちろん、アンダーソン本人が各キャラクターの帽子の被り方を一々監修した。彼は分子レベルで映画を作るのだ。彼が作るそれぞれの映画は独自の生態系を持っており、表面には光りが漂っているがその下には暗い潮が流れる海なのだ。
「彼の作品が持つ作り物っぽさには、観る者を引き寄せて息をするのも忘れさせる何かがある」(5)と、「GQ」誌の記事でアンダーソン作品を考察したクリス・ヘスが書いた。「事実とフィクションと感情」(6)が入り混じったあの感覚は、部分的にしか思い出せない夢に似た親近感がある。アンダーソンの作る映画は厳密には現実に根差していないかもしれないが、必ず現実にある何かについての映画なのだ。
撮影現場でのアンダーソンは、親しみやすく魅力たっぷり、そして妥協知らずの活力をもって完璧を求める。「ウェスは、人並外れて親切で辛抱強い奴隷使いだね」(7)と冗談で言ったボブ・バラバンは『ムーンライズ・キングダム』(2012)に出演して以来、年々数を増やしていくアンダーソン組の一員になった。アンダーソン組の常連俳優たちを率いるのは役者兼アンダーソンに霊感を与えるミューズでもあるビル・マーレイだ。バラバンの冗談は、しかし的を得ている。アンダーソンは、死ぬまで「いつか必ず嫌になると思えることは絶対にしない」(8)というポリシーを決めたのだ。ひょろ長い体つきで、声を荒げないことで知られるアンダーソンだが、現場を仕切るのが誰かは心得ている。そのことは、あのジーン・ハックマンさえも肝に銘じさせられた。
自己満足で、甘ったるくてキッチュで、洋菓子屋の商品棚ほどの権威もない取るに足らないものだとアンチ・ウェスの批評家たちにこき下ろされるアンダーソンの映画だが、私なら現代という時代において(あくまでノスタルジックで洗練された部類の現代として、だが)、最もぶれることなく尽きせぬ興味深さをもった作品群として分類するだろう。
ウェス・アンダーソンの作品に絶妙な親しみやすさを与えているのは、他の誰の映画とも違うという事実に他ならない。
映画監督であり批評家であり、数ある映画関係の名著の著者でもあるピーター・ボグダノヴィッチは、友人アンダーソンの作品を指してこう言っている「ウェス・アンダーソンの映画を観れば、どこのどいつが作ったかすぐわかる。でも彼のスタイルを言葉で言い表すのは難しい。最高のスタイルというものは、どれも目立たないからだ」(9)。
次のページ以降、アンダーソンの映画を一本ずつ、制作年代順に(当然だが)、美しい写真満載で詳しく観察していこうと思う。各作品の原点をたどり、インスピレーションの源を探り、どのようなものによって作品が出来ているか論じていく。願わくば謎めいたウェス・アンダーソンという神秘を紐解くことを目指して。ムッシュ・グスタヴに言わせれば、そんなものは「消えゆく文明の微かな灯」(10)にすぎないのかもしれないが。
1 Rushmore screenplay, Wes Anderson and Owen Wilson, Faber & Faber, 1999〔未邦訳:ウェス・アンダーソン+オーウェン・ウィルソン『天才マックスの世界 スクリーン・プレイ』、1999年〕
2 Bottle Rocket Blu-ray, Criterion Collection, 4 December 2017〔『アンソニーのハッピー・モーテル』Blu-ray、2017年12月4日〕
3 Close-ups 1: Wes Anderson, Sophie Monks Kaufman, William Collins, 2018〔未邦訳:ウィリアム・コリンズ『クロース・アップス1:ウェス・アンダーソン』、2018年〕
4 NPR.org, Terry Gross, 29 May 2012〔テリー・グロスによるインタビュー、「NPR.org」、2012年5月29日〕
5 GQ, Chris Heath, 28 October 2014〔クリス・ハース、「GQ」誌、2014年10月28日〕
6 Ibid.
7 GQ, Anna Peele, 22 March 2018〔アンナ・ピール、「GQ」誌、2018年3月22日〕
8 The Guardian, Suzie Mackenzie, 12 February 2005〔スージー・マッケンジー、「ザ・ガーディアン」紙、2005年2月12日〕
9 The Royal Tenenbaums screenplay (introduction), Wes Anderson and Owen Wilson, Faber & Faber, 2001〔未邦訳:ウェス・アンダーソン+オーウェン・ウィルソン『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ スクリーンプレイ(イントロダクション)』、2001年〕
10 The Grand Budapest Hotel screenplay, Wes Anderson, Faber & Faber, 2014〔未邦訳:ウェス・アンダーソン『ザ・グランド・ブダペスト・ホテル スクリーンプレイ』、2014年〕
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