[座談会]映画について教えるということ
──講義「マスターズ・オブ・シネマ」について
是枝裕和・土田環・岡室美奈子・谷昌親・藤井仁子=談
土田 「マスターズ・オブ・シネマ」は、安藤紘平先生によって早稲田大学で開講された科目で、すでに15年を超える歴史をもっています。この講義は現在どのような授業の場なのか、ご担当されているみなさんに率直な思いをうかがいたいと思います。
是枝 こういう現役の作り手を呼んで、現在進行形の話を聞き出すという時間というのは、大学の授業ではたぶん多くないですよね。僕が早稲田の学生だったときにもこういう授業があったらいいのになって思うような授業で、安藤先生に呼ばれたときにもできるだけ行くようにしていました。その後、早稲田に勤めるようになって運営を引き受けた後も、とても準備の大変な授業なので先生方にはご苦労をおかけしていると思いますが、これからもできる限り継続したいと考えています。
土田 是枝さんはこの講義について、基本的には教員とゲストの映画人の方々との対話で進んでいく授業ですが、できるだけ学生にも、短い時間ですが質疑応答の形でそのキャッチボールに加わってほしいとお話しされていますよね。
是枝 学生に限らずですが、世の中の対話の力というのが落ちてる気がするんですよね。1番落ちてるのは政治家かもしれないけど。人の話をちゃんと聞いてそれに応答することで、1人では生まれない何かが生まれる。これって社会で仕事をしていても一番大事なことなのではないかと思ってるんです。意識しないとそういう力はどんどん衰えていく。この授業で僕は、自分が喋るときも人に話を聞くときも、あまり準備をしないんです。1つ目の質問をして、相手の話を聞いて、そこから次の質問を考える。そういう状況に自分の身を置くのが、自分にとってもプラスになってるなという気がしている。映画の現場では反射神経とか動体視力が大事だという話を役者によくするんだけど、映画の作り手たちにとってそれはすごく必要な能力なんですよね。ゲストの方のそういう対応力を見聞きして、そこに学生の人たちも入ってきてもらって、その三者間のやり取りになっていくと、より充実した時間になるのかなと思ってるんですが、なかなかそこまでは届かないという気もします。
土田 僕自身が大学に入学した頃、原一男監督の主宰するCINEMA塾の公開イベントが毎月行われていて、田原総一朗から始まり、今村昌平、新藤兼人、土本典昭といった作り手の方々の作品を上映して、観客も交えて本人とディスカッションを行う催しに年間パスを買って参加していました。是枝さんとはそこで初めて観客同士として出会いましたね。誰かに出会うことは、求めて得られるものではない。しかし、求めずして得られるものでもない。今でもそういった場所へ自主的に赴く学生がもちろんいるわけで、わざわざ大学でこういう機会を設けるというのは贅沢なことなのかもしれません。上映者として場を作る仕事に携わっている人間としては、授業を担当していて複雑な思いもあります。
藤井 一昔前の大学だと、学生が自分たちで企画した講演会や座談会が盛んに開かれていました。私自身、大学時代に受けた授業のことは忘れてしまっても、そういう場で聴いた話はすごく記憶に残っていて、人格形成にも強い影響を与えたと思います。そういう大学のカルチャーが以前に比べると衰退してしまったように感じる中で、教員がすべてお膳立てしてしまっていいものか悩むところはありますが、座学の講義とは違う何かが伝わればいいなとは考えています。今回の本に採録されたものを活字で読み返していると、本当によく喋るインタビュアーだなと自分で自分が嫌になったのですが(笑)、同時に、映画のインタビューってもともとはこういうものだったはずだという確信を強くしました。映画監督や俳優へのインタビューはもちろん今も盛んに行なわれていますけど、ほとんどがもはや宣伝の一環なんですよね。かつて「カイエ・デュ・シネマ」でゴダールやトリュフォーといった批評家たちが始めた、「我々はあなたの映画をこう見た」と作り手に意見をぶつけて、そこから何かを引き出すような批評の一環としてのインタビューは、すっかり減ってしまった。作り手と批評家の真の「対話」が、今どれだけあるかということです。ですから、この本のサブタイトルにある「対話」というものの価値を改めて考える機会になってほしいと願っています。
土田 蓮實重彥さんの『光をめぐって』(筑摩書房、1991年)や、上野昂志さんが聞きになって録音技師の橋本文雄さんにインタビューをした『ええ音やないか──橋本文雄・録音技師一代』(リトル・モア、1996年)のように、それが時代に対する貴重な証言であると同時に、表現の生まれる瞬間を批評がとらえようとするスリリングな試みに惹かれて映画にのめり込んでいく経験が、それぞれの教員のなかにもあるのだと思います。映画制作に対して批評の視点から考えることを谷先生も強調されていましたよね。
谷 僕は所属が法学部で、もともと映画の授業なんてなかったところなのですが、ある時期に表象文化という副専攻のコースをつくり、そこで映画の授業を始めたんです。その延長線上で──「マスターズ・オブ・シネマ」が開設されてからはやめてしまいましたが──映画監督の講演会を何回か企画したことがあるんですよ。どうしてそういうことをやろうとしたかといえば、映画を見るということに意識的になってもらいたかったからです。映画を見ると、作品のことはもちろん、作り手のことも、本を読んだりしていろいろと知りたくなる。そうした映画の見方の広がりというものをもっと学んでもらいたい気持ちがあったんです。いつだったか、藤井さんがこの授業のオリエンテーションのときに「映画はやはり芸術なんです」と力強く言われたことがありましたが、この授業に出席している学生たちでも、映画を芸術だと考えている人はすごく少ない。個人的には映画はあくまで映画で、あえて「芸術です」と言い切りたくない部分も僕にはあるのですが(笑)、しかしそれくらい言わないと、映画を作品として見るということをしないのではないか、という危機感があるんです。
岡室 やはり私は「対話」とサブタイトルにつけていただいたのがすごく良かったなと。私自身としては、この講義は公開インタビューではなく、あくまでも対話だと考えています。学生の感想で「喋りすぎ」って言われたり、「先生はインタビューの仕方を知らないから教えてあげます」って言われることもあるんですが(笑)、この授業における私たち教員というのは、ある意味で作り手の人たちと学生を結ぶメディアだと思うんです。そしてメディアというのは、マクルーハンも言っているように透明ではない。だからこそ私たちは、そのメディアとしての責任を果たすためにも、自分の意見をきちんと伝えなければいけない。そうしないとゲストである作り手の皆さんにも失礼だと考えています。
谷 僕の授業では映画作品についてレポートを書かせたりもするのですが、読んでみると「これは自分が感動したからいい作品だった」とか、「ワクワクドキドキした」とかみたいな文章がとても多い。ここ数年のことで言えば、「没入感があってよかった」という表現が増えましたね。これはたとえばテーマパークやゲームで喧伝されるような価値観につながる表現で、本人たちは自分なりに映画を受けとめていると感じている。でもそれって本当に彼らの自由な関心に導かれた感想なのか。結局は与えられた枠組みの中で楽しんでいるだけなんじゃないか、と考えてしまう。もっと自分で身を乗り出してその作品のよさを見つける喜びも映画にはあるんじゃないか、そういう見方をしてほしい。だからこの授業の対話という形式では、映画について作り手がこんなふうに考えているということを引き出すとともに、映画にはこういう見方があるということを意識的に言葉にするようにしています。
岡室 講義の前には見られるだけの作品はできる限り見ていますし、映像を見せながらお話を聞くこともありますが、そういうふうに細部についての質問をすると、作り手の方は思った以上に喜んでくださって、思わぬ話が引き出せたりもする。1つの作品に対し、見る人が100人いればそこには100通りの受容の仕方がある。その受容のあり方を、できるだけ豊かなものにしていく場がこの授業だと思うんです。ふだん私は作品分析の仕事をしていますが、それは作品を批評する以上に、できるだけ豊かに受容することだと考えています。作品には本当にさまざまなものが込められていて、1回や2回見ただけではいろんなものを取りこぼしてしまう。この授業の受講者は必ずしも映画を専攻している学生ばかりじゃないので、作り手のことを全く知らない人がたくさんいる。そういう人たちにも作品をより豊かに受容してもらうための実践として、この授業をやっています。
(この続きは本編でお楽しみ下さい)
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