ためし読み

『Film Analysis 映画分析入門』

序章「映画における意味」

映画とは技巧(テクニック)と意味との結婚である。セットを作り、俳優に演技を指示し、カメラの位置を決め、撮影した大量のショットを編集する時、映画製作者は単に物語を語っているのではなく、「意味」を作っている。

意図的に作られた意味づけの例として、『パルプ・フィクション』(1994)を取り上げよう。救済を求めるギャングを主人公としたこの物語でクエンティン・タランティーノ監督は、宗教的なショットを(特に昔の悪業を悔いる場面で)挿入している。「ホーソン・グリル」というレストラン名は、『緋文字』(1850)で個人の道徳責任の問題を追究した作家ナサニエル・ホーソンに由来し、バイクの名「グレース」は、やはりホーソンの小説のテーマである「神の恩寵」を意味する。こうした命名は、過去の悪業を改め、人生を変えることができるという考え方を裏付けている。

意図的な意味づけであっても、もう少し分かりにくいものもある。例えば『シャイニング』(1980)でスタンリー・キューブリック監督は、女性の登場人物に赤い服を着せ、生垣の迷路(道に迷いやすい森のようだ)を歩かせた。赤いフード付きのコートを着て屋外の自然の中を歩く女性の姿や、狼のように見えるその夫の姿から、キューブリックは観客に「赤ずきん」の話を連想させようとしている。夫はまさに発狂するところであり、彼女を殺そうとする。私たちはみな野獣であり、相当な圧力がかかり、市民としての抑制が外れると、獣に帰る者もいるというのが、キューブリックの主張なのである。

すべての映画において、タランティーノの「宗教的改心」や、キューブリックによる童話のほのめかしほどの、周到あるいは意図的な意味づけがなされているとは限らない。映画製作者たちが、無意識のうちに、自分の属している文化に由来する意味づけを行っていることもある。文化は私たちの思考方法や信仰を形成しており、文化によって「どんな映画を作るか」が決定してしまう場合も多い。人種差別の文化で育った人は、自分では意識しなくても、人種差別的な映画を作りやすいであろう。単にそれを当たり前と受け取っているだけなのであり、そのように世界を見、描くのだ。文化は、個人が必ずしも完全に制御できない形で私たちに語らせ、結果としてしばしば私たちは意識しない行動を行っている。

たとえば、ヒッチコックが『鳥』(1963)を制作した際、「自立した女性」を罰し、彼女たちを伝統的、受動的、従属的な女性にしようと意識していたわけではない。単にホラー映画を作ろうと考えていただけということが、ヒッチコック自身のコメントから明らかである。しかし、ヒッチコックが育った保守的なカトリック文化では、性的に独立した女性は罰せられた。『鳥』においては、そうした女性が文明にとって危険な存在として描かれている。ヒッチコックは無意識のうちに、映画の中に彼の価値観や想定を持ち込んだのである。物事はこうであり、またこうあるべきだという思考方法で映画を作っただけなのだ。男性が支配者であるというのも、ヒッチコックが自明視していた事柄である。

全に無意識でもなく、また、完全に意図的でもなく、テーマや美的な観点での必要性から、形成される意味もある。与えられた材料の中で、通常映画製作者たちは正しいと思うやり方を行う。映画の中のストーリーや、美的な原則を考慮しながら、映像は作られてゆく。その結果、素材の性質や、物語上の描写の必要から、映像が出来上がってくるのである。『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)を例に取ろう。未来の王であるアラゴンが、祖先から受け継いできた、壊れた刀を前に立っており、彼の後ろの壁には、ソロンと戦った先祖が描かれている。アラゴンの服装の色が、描かれた像の色と同じであることに注目しよう。彼と先祖との同一性が、同じ色によって強調されている。映画のこの時点ではまだ彼は、自分が王になる能力について疑問を抱いている。しかし映像では既に、彼と先祖とを結ぶ、王家の血筋という連続性が示唆されているのだ。作り手側は、アラゴンの緑の衣装を、先祖の像に合わせるため意識的に選んだのかもしれないし、そうではなく、テーマや美的な観点から、自然とそう決めたのかもしれない。いずれにせよ、この選択は効果を上げている。

とはいえ、すべての映画が同じような意味づけの手法を取るわけではない。『アメリ』(2001)では全編を通じて赤と緑が使われている。この映画は絵画的であり、描かれる人間観に、赤と緑という二つの色はよく合っている。しかし製作者は時折、青色も挿入する。この青には、意図的な意味はない。赤と緑に青を加えると、映画の三原色でもあり、視覚的にバランスが取れるというだけのことである。

映画が、それを生みだした社会的な世界とのつながりから、意図せざる意味を生みだすこともある。『アバター』(2009)は、鉱山会社と土着の種族との対立を描いたものだが、同時に、表だって描かれてはいないが、環境保護についての米国の保守派とリベラル派との対立にも見える。背後にある議論もまた、映画の意味を作り、影響を与える。

あらゆる映画は、こうした歴史的、政治的、文化的、心理的、社会的、経済的な意味を含んでいる。映画は、それが作られた世界を多様な方法で示しているのである。

『無ケーカクの命中男』(2007)は、ダメ男がキャリアウーマン(新人ニュースキャスター)を妊娠させてしまうロマンチック・コメディである。彼女は自分の不運が信じられず、彼は自分の幸運が信じられない。彼らは最後には愛し合うようになり、二人の間の経済的な見込みの格差とも折り合いをつける。この映画は、個人が自分をしっかりと持ち、経済的な競争に勝って成功するという人生モデルを支持する。彼女を「勝ち取る」ために彼は、ダメ男ばかりのヤク中グループを抜け、仕事を見つけ、アパートで一人暮らしを始めなくてはならない。勝ち抜く個人となり、より責任ある自己を身につけねばならないのだ。この映画の伝える意味の一つは、今日において美しく成功した妻(および家族)を手に入れるには、子供時代の自堕落な習慣を捨てて、必死に働き、責任感のある大人にならなくてはならない、というものである。だから、「妻を持つためには、人生を手に入れなくてはならない」というのが、この映画の意図された意味のように見える。

しかし、この映画は同時に、それが作られた時代背景についても語っている。1970 年代以降の米国は、保守的な経済政策が行われ、ごく少数の者が成功し、大多数が貧しくなるという「金権主義社会」へと変質を続けていた。成功するためには、夫も妻も働かなくてはならなくなった。1970 年代以前であれば、夫一人が働くだけで、中流の生活ができた。しかし1980 年以来、ビジネスや金融の自由化、富裕層への減税、雇用の海外移転をもたらす「自由貿易」、労働組合の崩壊といった現象により、富の偏在が強まり、男性一人を「稼ぎ手」とするような社会モデルは消えていったのである。さらに加えて、1960 年代以降のフェミニスト運動は、それ以前の保守的な時代には閉ざされていたような仕事に、女性が就職する道を開いた。女性はもはや、仕事において男性のライバルとなり、両者とも「稼ぎ手」となったのだ。新たな経済環境や、フェミニズムのような社会運動のもとで、旧来の「男女の出会い」は変容を余儀なくされた。男性は求められる地位の基準や自己アイデンティティの変化に、ついていかざるを得なくなった。

この映画はこうした危機をほのめかすだけでなく、希望も提示する。ストレスに満ちた昼間の出来事を、想像力によって、夜間には成功の夢に転換させるように。それでも、昼間の生活が現実なのである。ダメ男と「高嶺の花の女性」がくっつくというファンタジーを見せることで、この映画はわれわれの現実から目をそらさせてくれる。映画の描き出す幸せのイメージとは相容れない、苦痛に満ちた現実があるからこそ、この映画のストーリーが可能になっているのだ。この時代に、いかにして恋愛を成功させるかを描くのが製作者側の意図であろうが、同時に、より深刻な問題をも映し出しているのである。

つまり、意味は基本的に二つの形で現れる。その一つが意図された意味である。『フィクサー』(2007)は、腐敗した法律事務所で法的に「もみ消し」を行うか、それとも農業関連企業の悪業(製品が人を殺すこともあり得る)を表に出すか、選択を迫られた男、マイケル・クレイトンが主人公である。道徳的な勇気を持つことがテーマだ。マイケルは、周囲の建物と同じように人間性を失った「無名の職員」として生きるか、それとも、企業の利益よりも利他的な倫理に重きを置くのか、映画は早い段階でマイケルの直面した状況を描き出している。腐敗した周囲の状況に合わせているとき、マイケルは小さく描かれているが、こうした映像の意味は明らかである。彼の匿名性と、大勢順応性とが、慎重に描き出されているのである。

しかし、別の種類の意味もある。製作者が意図したのではない意味も、映画の周囲の世界から映画に流れ込んでいるのだ。『無ケーカクの命中男』は、収入における不平等や、近年の成功したキャリアウーマンの出現が男性に与えた影響についても、製作者の意図しない形で、われわれに語りかけてくる。笑えるコメディを作ろうとしているだけなのに、私たちの生きる世界について描いているのである。世界のありのままを描き出そうとする『無ケーカクの命中男』のような分かりやすい映画は、まさに世界を描いているのだ。いかにわれわれが映画で夢を見ようとしても、現実が侵入するのは避けられない。夢でさえも、現実の一部であるから。

本書において私たちは、この二つの意味を取り扱う。本書の第一部では、製作者の意図した意味づけを扱う。そして、第二部においては、経済、政治、歴史、ジェンダーといった、文脈の次元によって形成される意味を扱うのである。

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Film Analysis

映画分析入門

マイケル・ライアン/メリッサ・レノス=著
田畑暁生=訳
発売日 : 2014年10月22日
2,400円+税
A5判・並製 | 256頁 | 978-4-8459-1439-5
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