新版によせて
ジョン・ベイリー
本書所収のインタビューの終わり近くでハンガリー出身の撮影監督ヴィルモス・スィグモンドは、1970年代のハリウッド映画界に潜りこむ大変さについて質問され、こう答えている。「いつも学生たちには言うんです。10年かかるぞと。UACやUCLAを卒業してすぐにキャメラマンになれる者なんてまずいない。10年以内になれる者もめったにいない」
『マスターズ・オブ・ライト』は1984年に刊行された。このときのスィグモンドの言葉はありのままの事実だった。彼と彼の同僚、同じハンガリー出身の撮影監督ラズロ・コヴァックスはノンユニオン系の低予算映画──B級映画専門館やドライブインシアター用のアクション映画やサスペンス映画──を撮りながら徐々に地位を確立していった。60年代の〝若者革命〞の到来によってハリウッド・スタジオ・システムが混迷の度を深めると、ジョン・アロンゾやマリオ・トッシといった撮影監督たちが大きく揺らぎだした機構の中にうまく滑りこんでいった。こういったキャメラマンたちはヌーヴェル・ヴァーグに代表されるヨーロッパ映画の新しい映画美学や技術革新にも影響を受けていて、アメリカ映画にもそれが目に見えるかたちで現れ始めた。ネストール・アルメンドロスやヴィットリオ・ストラーロといった新しい映画美学の火付け役となった若きヨーロッパの撮影監督たちもまた、アメリカ映画産業界に起きた激震によってアメリカ映画参入という恩恵を被ることになった。アルメンドロスはロバート・ベントン、モンテ・ヘルマン、テレンス・マリックらと、ストラーロはフランシス・フォード・コッポラ、ウォーレン・ベイティといった監督とコンビを組んでいく。コンラッド・ホールとウイリアム・フレイカーはユニオン内の階段を着実に上って名を成していった。リチャード・ブルックスの西部劇『プロフェッショナル』(66)の撮影風景を捉えた有名な写真にはユニオンのキャメラクルーとしてホール、フレイカー、ボビー・バーン*1、ジョーダン・クローネンウェス*2が揃って写っている。つねに反逆児のハスケル・ウェクスラーは50年代後半を低予算映画で生き抜くと、『バージニア・ウルフなんかこわくない』(66)で一気にアカデミー賞撮影賞(黒白)を獲得した。この作品はエリザベス・テイラー、リチャード・バートンという二大スターを使いながら、ドキュメンタリー的スタイルと粗い照明で撮られていて、当時の保守的な人々の怒りを招いた。ウェクスラーとホールは出身背景が異なりながらも意気投合、テレビコマーシャルの会社を共同で立ち上げてそれを成功させた。ゴードン・ウイリスもコマーシャルとドキュメンタリーの撮影からスタートしたが、キャメラマン助手としての長い経歴を持っている。私自身はノンユニオン系NABET(全米放送従事者技術者協会)作品のキャメラマン助手から始めた。一九六九年五月にユニオンに加入が適ったものの、厳格な年功序列の弊を被り、序列的に先のメンバーがみな仕事に就いたあとようやく私の順がまわってきた。キャメラマン助手としてついた最初の撮影所作品はモンテ・ヘルマンの『断絶』(71)だった。この映画もいまではカルト作品の一本となっているが、当時はロング・テイクの多用と俳優の無表情な演技のせいで散々の悪評だった。
(中略)
今日では映画学校に行こうともしなかった監督や撮影監督はほとんど想像することができない。映画学科の学生が作る映画は撮影所の重役やエージェントらによって広く観賞されている。映画産業に向けての学生制作映画の上映会、映画祭関連行事への学生たちの出席、そういったことが(直接配給につながるものではないとしても)彼らの将来に関して門戸を大きく開く役割を果たしていることは間違いない。これら学生映画の多くは、プロの俳優が出演しているものもあり、技術的にきわめて完成度が高く、撮影所との開発契約を初めのうちから狙いに入れていたりする。学位取得用作品が長篇映画の体裁で作られるのもまれではない。
このような映画作りの民主化を生み出しているのは映画学校だけではない。近年のデジタルビデオの技術──本書の撮影監督たちが1984年の時点では予測もつかなかった一大変化──がここではもうひとつの要因となっている。特別高価でもない小型デジタルカメラ(それもフル解像度の)が猛烈な勢いで、一世紀にわたって映像撮影のスタンダードとなってきた35ミリフィルム・キャメラに取って代わろうとしている。最近引退した同僚の撮影監督が皮肉っぽく言ったものだ――いまじゃ映画学校すら行かずにすまそうと思えばすませられる。もちろん、行っていれば将来職場の人間関係にプラスになるだろうし、自分の作品を業界人に見てもらえる場所が確保できるというメリットがある。しかしいまでは、誰だって自分を撮影監督と名乗れるんだ。必要なのは2,015ドルだけ。2,000ドルでキャノンを買い、15ドルで〝撮影監督〞の肩書きの付いた名刺をこしらえればいいのさ、と(職業人としてのまず第一歩を踏み出すにあたって激烈な競争のなかに飛びこまねばならぬ映画学校の若き卒業生たちは、この撮影監督の言葉に同意しないかもしれないが)。もしいま『マスターズ・オブ・ライト』2012年版を作ることになり、現在のハリウッド映画界における最前線映像クリエイターたちを選び出すとしたら、それは84年版のとは出身背景、職業経歴とも大きく異なるキャメラマンたちの集団となるだろう。私の出会う若い撮影監督たちは、うれしいことに女性がどんどん増えているのだが、ユニオンのメンバーではなく、これからユニオンに加入しようという熱意もとくに持ってはいない。ユニオンの要求する訓練課程は彼らの将来設計の埒外にあるのだ。映画学校卒業生の数がどこか人口爆発を思わせるのに似て、機材や新しい配給形態の技術的変化の速度は加速度的に高まっている。1年前に必須アイテムだったデジタルビデオカメラは今年になれば二流品であり、昨年一世を風靡したビデオはいまや手垢のついた骨董品、映画学校を出たばかりの天才青年もあっという間に過去の人扱いとなる。不入りの映画を一本作るだけで瞬く間に将来は閉じてしまうからだ。
(中略)
本書のタイトル(『マスターズ・オブ・ライト』)は撮影監督にとっての照明の重要性を暗に匂わせている。じっさい、インタビューされた撮影監督の大半は、構図、編集用カバリッジ、ショットの繫がり、キャメラ移動等々よりも照明について多くを語っている。映画制作最盛期のイギリスでは撮影監督はライティング・キャメラマンと呼ばれていた(そしてキャメラ・オペレーターはオペレーティング・キャメラマンと)。デイヴィッド・ワトキン*3やジェフリー・アンズワース*4らがその代表例だった。照明機材のテクノロジーが変遷著しいにもかかわらず、キャメラの原理自体が不変なように、映像撮影におけるいくつかの真実は変わらぬままである。変転するテクノロジーではなく、変わらぬこの真実、すなわち芸術性と技能性に焦点を合わせることによって、本書は時代を越えた普遍性を持つ書物となった。照明装置や設備には移り変わりがあるかもしれない。しかし、光量という機械的な獣との創造的格闘、それをどうやって観客の心に訴える映像にかたちづくるか、そこに注ぎこまれる努力、これらは時代を問わず不変なのである。ゴードン・ウイリスは本書のなかで、『ゴッドファーザー』(72)において頭上からの光や低色温度の光を頑として用い、ハリウッドの保守派映画人たちから猛反発をくらったと語っているが、そのとき彼は映画内の人物とドラマに基盤をおいた美学、スタイルを追求していたのであり、それは『大統領の陰謀』における影の多用が技術的誇示ではなく、謎の情報提供という重要なプロット設定に深く関わっていたのと同様なのである。同じことはやはり本書のなかで『ゴングなき戦い』(72)の強烈なメタファーとしての〝絶望〞に魅せられたと語っているコンラッド・ホールについてもいえる。ホールは他の撮影作品においてもアウトサイダー的人物や、人の行為の暗黒面に強く惹かれるものを感じていた。そのことについて私は「アメリカン・シネマトグラファー」誌2003年5月号掲載の、彼の追悼記事のなかに書いたことがある。ホールの撮ったクロースアップの多くには露出過多の強烈なキーライトやリムライトが特徴的で──それはちょうどウイリスの撮った『ゴッドファーザー』の人物が、頭上からの光によって人間性をはぎ取られて見えたように──人物の疎外と絶望をドラマチックに浮き上がらせたものだった。
*1 ボビー・バーンBobby Byrne(1932–2017)ニューヨーク、クイーンズ生まれの撮影監督。『プロフェッショナル』では撮影助手。『ペーパー・ムーン』(73)『ザ・ヤクザ』(74)『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)などのキャメラ・オペレーターを経て、77年撮影監督に。『ファースト・ラブ』(77)『ブルーカラー』(78)『さよならゲーム』(88)などの作品を撮っている。
*2 ジョーダン・クローネンウェスJordan Cronenweth(1935–96)ロサンゼルス生まれの撮影監督。1957年映画界に入る。コロムビア社のスティール写真ラボを経て、コンラッド・ホールの助手となり、『冷血』(67)『明日に向って撃て!』(69)などでオペレーターを務める。撮影監督としての本格的デビューはロバート・アルトマン監督の『BIRD★SHIT』(70)。その後の作品に『フロント・ページ』(74)『ローリングサンダー』(77)『アルタード・ステーツ 未知への挑戦』(80)『ブレードランナー』(82)『ペギー・スーの結婚』(86)など。
*3 デイヴィッド・ワトキンDavid Watkin(1925–2008)イギリス、ケント州マーゲイト生まれの撮影監督。ドキュメンタリーの世界を経て、1965年『ナック』で長篇劇映画デビューを果たす。リチャード・レスター、トニー・リチャードソン、ケン・ラッセルらとのコンビで名を高め、その後英米を股にかけて活躍、しばしば大作を任された。代表作に『HELP!4人はアイドル』(65)『マラー/サド』(67)『遙かなる戦場』(68)『キャッチ22』(70)『ボーイフレンド』(71)『ロビンとマリアン』(76)『炎のランナー』(81)『月の輝く夜に』(87)など。『愛と哀しみの果て』(85)でアカデミー賞撮影賞受賞。
*4 ジェフリー・アンズワースGeoffret Unsworth(1914–78)イギリスの撮影監督。ランカシャー州アサートンの生まれ。1932年に撮影助手として映画界入り。46年に撮影監督となる。英国映画界のトップキャメラマンの一人。とくに色彩撮影に定評がある。60年代からアメリカ映画や国際的な大作にも乗り出す。作品には『青い珊瑚礁』(49)『オセロ』(65)『2001年宇宙の旅』(68)『オリエント急行殺人事件』(74)『スーパーマン』(78)など。『キャバレー』(72)と『テス』(79)でアカデミー賞撮影賞を2度受賞。
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