プロローグ
さようなら、映画よ
映画の果てへ
映画よさようなら。本書の題名にこんないかにも意味ありげなフレーズを選んだ理由はひとつではない。
タイトルを思いついたきっかけは、ふたつある。
ひとつ目は、1972年に刊行された森山大道の写真集『写真よさようなら』である。英語題名は『Farewell Photography』。中平卓馬、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦らによって1968年に創刊された写真同人誌「プロヴォーク」に第二号から参加した森山が、同誌を主戦場に発表したいわゆる「アレ・ブレ・ボケ」写真の集大成というべき一冊。森山は自らこう述べている。「写真というものを、果ての果てまで連れて行って無化したかったのだ……」。
これにそのまま倣えば、映画というものを、果ての果てまで連れて行って無化したかったのだ……となる。写真に対してそうしようとしたのは森山大道というひとりの写真家だったが、映画にさようならを告げようとしているのは、必ずしも特定の誰かということではない(のかもしれない)。もちろん私でもない(たぶん)。もっともしっくりくる言い方をするならば、映画を「果て」まで導いて「無化」しようとしているのは映画自身ということになるだろう。
いずれにせよ『写真よさようなら』という題名の写真集というあからさまに倒錯した発想は、写真を映画に変換するという捻れたかたちで本書の根幹を成している。
ふたつ目は、ジャン゠リュック・ゴダールが2014年に発表した長編映画『さらば、愛の言葉よ』。原題は『Adieu au Langage』。私はこの奇妙で美しい「3D映画」について長い長い論考を書いたことがある(「ジャン゠リュック・ゴダール、3、2、1、」、『ゴダール原論』所収)。ゴダールは「言語」にアデューと言ったのだが、この稀代の映画作家がデビューから現在に至るまでずっと「映画」との別れ、シネマの終焉の光景に立ち会うようにして映画を撮り続けたことは確かだと思われる。「さらば、映画よ」。ゴダールの全ての映画はこの題名であってもいい。日本題名には「愛」という曖昧な語が加えられていていささか閉口するが、だがこれも「さらば、映画愛よ」と言い換えてみれば俄かに意味を帯びてくるように思える。
『写真よさようなら』と『さらば、愛の言葉よ』を「映画」に置き換えることで、本書の題名は誕生した。そこには森山大道が若き日の或る一時期に「写真なるもの」に対して抱いていた直観と認識を「映画」に置き換えてみたときに立ち現れるもの、ジャン゠リュック・ゴダールが彼の人生そのものとしてわれわれに提示した「映画なるもの」への思考と感情が、私というたまたまの個体を通して、いくぶんか、いやかなり変形したありようで込められている。
さらばとかさようならなどというとどうしても惜別の感が滲むようだが、ここにあるのは感傷とは別の何かである。諦念には少し似ているかもしれないが、やはり違う。繰り返すが、映画にさようならを告げているのは映画自身なのだから。
別れの声に耳を傾けて
映画は19世紀の終わりに発明された。20世紀という100年間を経過し、21世紀が5分の1以上過ぎた現在、人類の最長寿年齢(ジャンヌ・カルマン、122歳)をわずかに超えている。映画はひとりの人間よりは長生きした。だがほんとうにそうなのか、という問いがいわば本書の主題である。
これはまず誰もが知ることとして、技術(論)的な側面において、またメディア(論)的な側面において、映画はこの百数十年ほどのあいだに多くの大掛かりな変化を蒙こうむってきた。ごく一般的な常識として、こんにちの映画の大半はもはやフィルム(アナログ)では撮影・編集・上映されていない。映画はデジタルカメラで記録され、デジタル編集され、DCP(デジタル・シネマ・パッケージ)で上映されている。フィルムの映写機を備えた映画館や上映施設は今や特殊な存在である。
写真と同じく一旦露光してしまったら再利用が出来ないフィルムという素材のみを用いて一本の長編映画を撮り上げることは、現在の状況/条件下では一部の特権的な映画監督にのみ許された紛れもない贅沢である。やろうと思えばそれが可能だからといって誰もがフィルムで撮(ろうとす)るわけではない。それは「敢えてフィルムの映画を造る」という意識と意志なくしてはあり得ない。そのような意志や意識を持っているからといって、それがそのまま可能になるわけでもない。
一方でIMAXのような高解像度のフィルム・フォーマットもあり、3D、4D、4DX、あるいはVRなど、映画鑑賞のヴァリエーションはかつてないほどの多様さを見せてもいる。それは今後も広がってゆくことだろう。体験としての、体感としての、スペクタクルとしての、広義の映画館(シアター)で観る映画、それはすでにして二十世紀のそれとはよくも悪くも違ってしまっている。
シアターに限定しなければその可能態はより拡散している。デスクトップ・パソコン、タブレット、スマートフォン、Google Glassのようなヘッドマウント・ディスプレイなど、更なる進化へのプロセスを複数潜在させながら、映画を観るという行為のあり方はやはり前世紀には想像もしていなかったほど多様になっている。まったく同じ一本の映画であったとしても、シアターで観るのとタブレットで観るのとスマホで観るのはまったくと言っていいほど体験が異なってくる。それらを「同じ」映画と言っていいのかどうかさえ危ぶまれるほどに。
これらのことと相そう即さくして、言葉遊びをするのではないが、現在、映画と映像と動画の区別は、制度的/慣習的につけようとすればつけられはするものの、実態としては各々の臨界が曖昧に溶け合ってしまっている。
映画とテレビという対立軸は今も機能しているように見えるが、テレビと呼ばれてきたものもドラスティックに変化している。テレビドラマは記録や配信といった新たな方法によって特定の時間と空間に拘束されていた時代から脱し、ブロードキャストは技術的発展とともに多様化し、それはインターネットによってきわまり、この先にもまだ色々な変化が訪れることだろう。
各種SNSや動画サイト、NetflixやAmazonプライムビデオ、Huluなどといったグローバルな動画配信サービス、そこで観ることが出来るのは動画なのか映像なのか、それとも映画なのか。
ひとつ言えることは──これはあくまでも私個人の印象だが──確かに一部の映画において、何らかの意味で非=映画的と言えるような映像や動画の要素を取り込もうとする傾向はあるが、それとパラレルに、むしろ映像や動画のほうに映画的な何かが侵食しているようにも見えるということである。配信ベースの作品をコンペティションの候補にする国際映画祭も増えている。シアターに掛けられる/観られるかどうかは、シネマであるかどうかの必須条件ではもはやない。
だがもちろん、たとえば特定のアプリでしか観られない作品を動画でも映像でもなく「映画」だと思うとき、そう思える条件とはいったい何なのか? すなわち映画が映画であるとは、要するにどういうことなのか? よくわからなくなってくる。もしかしたら、いやおそらく間違いなく、こうした場合の「映画」とは単なる思い込みでしかないのかもしれない。そう考えたほうが話は簡単なのかもしれない。つまり映画はもうほんとうはとっくに「映画」ではなくなっており、ただ私たちは「かつて映画であったもの」の記憶(?)をそこに見出(そうと)しているだけなのだ、と。
しかしそれでもやはり、まだ私たちは「映画」という言葉を手放してはおらず、それはシアターで観る映画がまだ存在しているからという理由だけではない。たとえ「今映画と呼んでいるもの」が実は「かつて映画であったもの」なのだとしても、それの何が困るのか、それで何がいけないのか、そうなのだとして、ならばそれはどういうことなのかを考えてみるほうが、多少は有益なのではないだろうか。
映画が映画にさようならを告げているのだとして、その「さようなら」をパラフレーズしていくことに、何かの意味があるのかもしれない。別れの声の音調や響きに耳を澄ますこと。そこにある複雑さや豊かさを聴き取ろうとすること。
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。