アーティストが自分の制作をしていく際の心がまえをコンパクトに説くやさしい哲学であり、迷った時、行き詰まって辞めたくなった時の心の助けになる指南書『アーティストのためのハンドブック』。
アーティストでありつづけるかぎり襲われる答えの出ない不安と共存し、飼い馴らしながら、自分の制作をやめずに続けていくための、「すべてのジャンルの〈制作者たち〉に効く」“心の”サバイバル・ガイドとして読み継がれています。
今回のためし読みでは、「はじめに」全文と「第1章:問題の本質はどこにあるのか?」の冒頭部分をためし読みとして公開いたします。
はじめに
この本は「作品を制作する」ということについて書かれています。それもごく普通の作品について。この「ごく普通の作品」とは、たとえばモーツァルトが作曲するような作品のことではありません。というのも、モーツァルトのような人が制作する作品など、ほとんど存在しないからです。つまり本質的にもまた統計的にも、モーツァルトのような人はほとんどいません。天才が誕生するのは、百年かそのくらいに一度のことです。しかしその一方で、よい作品はいつもつくられています。作品を制作することは、人間に共通する本質的な活動であり、危険と報酬に満ちていて、しかも努力する価値がある結果をもたらしてくれます。作品を制作する人が直面する困難とは、どこか遠くで起こったり、また冒険のようなことでもなく、むしろ万人に共通するありふれたことなのです。
そういう訳で、この本は私たちのようなアーティストのためのテキストになっています。著者のふたりは、どちらも副業のあるアーティストです。そして現実世界のなかで、作品制作の難しさと日々格闘しています。これから示す私たちの考察は、個人的な経験に基づいています。作品を見る人の関心というよりは、むしろアーティストが必要としていることと密接に関係があります。作品をつくるという必要が生じたために、制作に取りかかろうとしてスタジオや教室にいるあなたのために、あるいはクルマを運転していたり、キーボードやイーゼル、カメラの前にいるあなたのために、この本を書きました。自分の将来を自分の手にゆだねること。事前に決められた運命よりも自由な意志を尊重すること。そしてチャンスよりも選択を重要視すること。つまりこの本は、あなたが自分の制作を見つけるために書かれたテキストなのです。
作品制作は、難しい作業です。絵は描き上げられず、また物語も完結させられません。私たちは自分のものではないような作品をつくり、それを繰り返してしまいます。私たちは「材料」を使いこなすようになる前にやめてしまうか、あるいは「材料」のもっている力を使い果たしてから時間が経った後になっても、まだ続けようとします。私たちは完成した作品よりも、完成しなかった作品をよりリアルに感じることがよくあります。そして次のような疑問が頭に浮かびます。どうしたら作品は完成するのか? なぜ作品は、たいていの場合、完成しないのか? 作品をつくりはじめた人の多くが途中で投げ出したくなるような、制作にともなう本質的な難しさとは、いったい何なのか?
こうした疑問はいつの時代にもあるように思えますが、実際には現代に特有の疑問です。遠い昔、洞窟に水牛を描くことは、このような文章を書くことよりも、簡単なことだったかもしれません。たとえば教会や一族、儀式や伝統行事など、時代や場所によっては後ろ盾となってくれる確固とした組織のもとで制作するアーティストがいました。アーティストは自分自身にではなく、むしろ神に仕えるために作品を制作しているときのほうが、自分の天職というものについて疑問を差し挟む余地がなかったであろうと、容易に想像できます。
しかし現代ではそうはいきません。今日、後ろ盾があると感じているアーティストは、ほとんどいません。作品制作が、悩む必要のない共通の基盤から生まれるものではなくなってしまいました。壁に描かれた水牛は、誰かが描いた魔法のようです。現在、作品を制作することは、不確実なことに直面しながら作業をするということを意味します。つまりそれは、疑問と矛盾とともに生活するということに等しいのです。そして自分に関心が払われようが払われまいが、観客がいようがいまいが、報酬があろうがなかろうが、ずっと制作を続けることを意味しています。自分のつくりたい作品をつくるには、こうした疑問をいったん保留にする必要があります。そうすることによってはじめて、自分の行なってきたことがクリアに見え、そして次の場所が見えてきます。自分のつくりたい作品を制作するということの意味は、その制作活動に滋養となるものを見つけるということです。現代とは、信仰のない、そして絶対的な真実もない、確実性の欠如した時代です。
けれどもこのような表現は、作品を制作するということについて、一般的に流布している見方ではないと思う人もいるでしょう。つまり作品とは、本質的には才能から生み出されるもので、その才能とは無作為に誰かに与えられるものであって、まったく与えられない人もいるという考え方です。簡単に言ってしまえば、もっているのか、もっていないのか。そういうことです。
これは偉大な作品とはみな天才が生み出したものであり、よい作品とは天才に近い人が生み出したものであるという考え方です。作家のウラジーミル・ナボコフはこのことをビールと低アルコールビールの関係にたとえていますが、ナボコフによると、三文小説や塗り絵の作者が低アルコールビールということになります。こうした考え方は、本質的には運命論です。真実かもしれませんが、あくまでも運命論にすぎません。作品を制作する人に、何ひとつ有益な励ましを与えてはくれません。私たち著者はかわりに作家のジョセフ・コンラッドの運命論に準拠しようと思います。つまりそれは、一種の不安のようなものです。自分の運命は自分自身の手のなかにあり、けれどもその手は、とても弱いものであるという不安です。
しかし一方で、運命や幸運、そして悲運といったものすべては、たしかに人間の運命に関与しています。しかし才能というものは、自分自身の作品を日々前進させるための道具として、ほとんど頼りになりません。この世界で、私たちが日々の暮らしを送る唯一の場所で自分の制作が続けられるかどうかは、人間性についての基本的な前提をつくれるかどうかにかかっています。つまり自らの手のなかに、自らの行動のための力と、そしてそれにともなう責任を引き受ける前提をつくれるかどうか、ということです。
(この続きは本編でお楽しみ下さい)
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