「子供」であり「親」の両方であり続けること
本書に記されているのは世紀の奇才ジョン・ウォーターズ先生によるデザイン学校の卒業生たちへの祝辞ですが、一見当たり前すぎるほど「正しく」、「的を得ている」印象があります。(そもそも美術・デザイン学校という教育機関が何を教え、何を目指している場所なのかを考えると逆説的なことですが、)この祝辞は、就職率の高さによって優れた美術学校と呼ばれてしまうような「社会的にマトモな価値観」とは完全に真逆な内容であり、言い換えればまっとうなデザインやアートの畑ならば当然すぎるほどの正論に聞こえます。ウォーターズ自身、50年間一度もまともな仕事に就かず、自分の好きなことだけをやってきて今の地位があり、いまだにそれを実践し続けている。そのようなリアルな活動を実際にしている彼が語るのだから、本書の説得力は計り知れません。
そんなウォーターズ先生は、生徒たちに向かって「あなたたちは幸せです」と言い放つ。その言葉は、自分の学生時代に教師たちが誰一人自分を許してくれなかったし認めてくれなかった経験に基づくものでしょう。
彼の眼前にいる卒業生たちには、少なくともウォーターズ先生からは全て認められ受け入れられる準備がある。それが幸福で恵まれているというわけですが、しかし反骨精神からモノづくりをスタートする(したい)のであれば、全てが容認される状態とは何とやりにくいことでしょうか。学校や教育という現場に異議申し立てをして進んでいくためには、ウォーターズ先生のような教師がいては何でも受け入れられすぎて歯が立たないかも知れない。この時点で、ウォーターズ先生は生徒たちのはるかに上の反骨を進んでいるといえます。
しかし生徒たちはそれによって骨抜きにされ、ダメになるわけではないでしょう。本書で語られたウォーターズ的精神によって、さらにさらに社会に対する反骨を鼓舞され、自由に発想し活動に向かえるようにされたはずです。そして最終的に自身を超えていって欲しい、そのようなアーティストやクリエーターが世の中にどんどん出ていって欲しいというのが、ウォーターズ先生の願いでもあるのでしょう。自分は彼らの教師でもあるし、先輩でもある、けれど願わくば将来は自分の同胞に、もしくは軽いライバルにもなって欲しいとも思っているのかも知れない。経験が浅かろうと豊富であろうと、自分と同じクリエイターとして生徒を見つめる、そんな愛情と友情が根底にあるのです。
そして、ジョン・ウォーターズ先生の愛情と友情は、生徒たちばかりでなくその親たちにも向かいます。ウォーターズ先生と同様に、私の両親も私を不安にさせませんでした。
親はもし50人も100人も子供を産んで育てていればプロフェッショナルになれるかもしれませんが、現実的には多くても5人くらいの子育てしかできません。双子であったとしても、人格も個性も経験も違います。自分の子供を一個人と捉えた途端、親は途方に暮れます。自分の経験値では予想もしない人間が目の前にいるからです。まさか自分の人生で、カブトムシの幼虫の世話をするとか、釣りのゴカイを手掴みするなど予測すらしません。ですから親は「親」としては一生アマチュアです。しかし、子供は未来が見えていようがいまいが、「子供」としてはつねにプロフェッショナルです。いつまでも悩み試行錯誤し、可能性を信じ、自分だけの人生を生きる「子供」であり、そして「親」の両方であり続けること。本書でのウォーターズ先生の贈る言葉には、そんな無限の逆説的な「愛」が感じられる。
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ヴィヴィアン佐藤(Vivienne Sato)
アーティスト、作家、映画評論家、非建築家、ドラァグクイーン。金沢工業大学建築学科大学院卒業後、磯崎新氏のアトリエを経て、アーティストとしての活動を開始。舞台美術やイラスト、エッセイ、映画批評、またカツラや服飾、インテリアのデザインなど、多様な領域を横断して活動している。