翻訳研究(トランスレーション・スタディーズ)の第一人者ローレンス・ヴェヌティの代表的著作にして古典『翻訳のスキャンダル 差異の倫理にむけて』が待望の邦訳となりました。世の主流の価値観におもねる「同化」的圧力に抗して、マイノリティの声に耳を傾け、多様性を擁護する「異化」的翻訳を提唱する本書こそ、グローバル時代を生きるために必読の書です。
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イントロダクション
スキャンダル――著しく不面目な状況、出来事、事態。
『オックスフォード英語辞典』
翻訳のスキャンダルは、文化や経済、政治にまでまたがる問題だ。翻訳がなぜ今日、とりわけ英語圏で(排除されているわけではないにしろ)、研究や、評釈、討論といった営為の末端に追いやられているのかと問うとき、スキャンダルは白日のもとにさらされる。こうした末端についてなにかを書こうとすれば、たんなる悪口を並べたてたものや、翻訳がおかれた目を覆うばかりの不遇、その結果として生まれた被害者といった上澄みだけを映したものになりかねない。翻訳は、著作権法に疎まれ、学術界では軽視され、出版社や企業、政府、宗教団体からは搾取されるという烙印を押されている。思うに、翻訳があまりにも不利なあつかいを受けているのは、支配的な文化的価値観や制度の権威に疑念をいだく契機になるからだ。そして、権威を覆そうという試みがおしなべてそうであるように、ダメージ・コントロールほかさまざまな反動的なリアクションを引きだしてしまうのだが、こうしたものはどれも翻訳のあつかいをうやむやにすることで、疑義を付された価値や制度を強化するように仕組まれている。
私のプロジェクトは第一に、翻訳を現在のマージナルな地位に追いやっているカテゴリーや実践の幅と、翻訳そのものとのあいだの関係に立ち入り、そうしたスキャンダルを暴露することにある。この試みは、翻訳研究という、まさに芽生えつつあるディシプリンから最初の一歩を踏みださなくてはならない。翻訳の研究と翻訳者の訓練は、経験則による偏った翻訳観をもたらす、言語主体のアプローチが蔓延しているせいで足を引っぱられてきた。こうしたアプローチが研究上推進するのは科学的なモデルということもあり、いきおい社会的な価値(翻訳の研究同様、翻訳自体にもつきものなのだが)は考察の対象としては依然としてしぶられたままになる。ゆえに研究は科学主義的なものになり、自分が客観的かつ価値中立的な立場だと主張する一方で、ほかのあらゆる文化的な営み同様、翻訳が価値の創造的な再生産をともなうという事実を閑却するのだ。結果として、翻訳研究は一般理論の構築およびテキストの特徴と方略の記述に終始することになってしまう。こういった路線の研究は、説明能力の限定もさることながら、主にほかの言語学者を対象にしたものになり、翻訳者や翻訳の読者、それどころかほかの人文諸学の専門家にむけられたものですらなくなってしまう。結果、翻訳は分野として孤立し、同時代における関連した意義深い文化的な展開や議論からも切り離されている。
しかし、はるかに翻訳研究のさまたげとなるものは、ディシプリンそのものの外に存在する。翻訳を貶めているのは、「著者性」という(とりわけ文学や文学研究で)一般に流通する概念である。これこそが、特定の国の法律だけでなく、主要な国際条約の条文においてですら、その好まざる著作権法上の定義の下敷きになっているのだ。翻訳を根底から抑圧している文化的アイデンティティを構築してきたのは、学術の、宗教の、政治の制度である。つまりは外国文学――とりわけ西洋の正典を集めた「名著」――の教授法においてであるとか、哲学的概念や哲学史の研究においてである。実業界でも翻訳の存在を無視することはできない。海外でのベストセラーの出版や、ヘゲモニーを握る北半球・西半球の国々とその他のアフリカ・アジア・南アメリカの国々とのあいだの異文化通商に見受けられる不均衡がそうである。翻訳はグローバルな文化経済を駆動する。すなわち多国籍企業は、メジャー言語、とりわけ英語からの翻訳の市場性に乗じることで、いわゆる発展途上国の印刷・電子メディアを、翻訳を用いて支配してしまえるのだ。ここで言う「発展途上」とは、世界資本主義において相対的に後発であるという意味にすぎない。翻訳は、このような区分けや慣行を囲いこんでいる制度を揺るがしてしまう。なぜなら、翻訳はその制度を制度たらしめている怪しげな条件や影響、矛盾や排除といったものに目をむけさせ、信用を失墜させてしまうのだ。
スキャンダルはまさかという場所で起こるかもしれない。海外文化の理解をすすめるためユネスコが発行している月刊誌『クーリエ』の1990年4月号(スペイン語版)に、メキシコ諸民族の歴史についての記事が掲載されていた。同誌英訳版の記事ではコロンブス以前のメキシコ人に対するイデオロギー的な偏向が目立った。メキシコの口承文化は、とりわけ過去の保管という点において、劣ったものとされたのだ◆1。このような中、古くからメキシコに住んでいた人たち antiguos mexicanos」は「インディアン Indians」と訳出され、スペイン人征服者とはちがう人々として明確に区別された。「賢人 sabios」は「占い師 diviners」となり、ヨーロッパの合理主義の対極にあるものとされた。「証言、証言記録 testimonio」は「書かれた記録 written records」となり、書記を口承文化よりも微妙に優位に置いている。スペイン語テキストで、一番くりかえし使われている用語がmemoriaで、文化の口頭での伝播に欠かせない能力なのだが、「記憶 memory」のほかにも「歴史 history」「過去の知識 knowledge of the past」などさまざまに訳されている。次の文章では、英訳はスペイン語原文に手を入れ、構文を単純化し、もうひとつのキーワードである「神話 mitos」を削除することで、土着文化を矮小化してしまった。
Los mitos y leyendas, la tradición oral y el gran conjunto de inscripciones perpetuaron la memoria de tales aconteceres.
神話や伝説、伝統として語り継がれるもの、そして膨大な数の碑文が、そうした出来事の記憶を永遠のものにしたのだ。
The memory of these events lives on in the thousands of inscriptions and the legends of oral tradition.
このような出来事の記憶は、数千もの碑文や、口承で伝えられた伝説に息づいている。
研究者のイアン・メイソンが述べるように、翻訳が歪められているからといって、訳者の深謀遠慮のせいにする必要はかならずしもない◆2。先住民に対するイデオロギー的な偏向は独特な論の運びに見受けられ、劣ったアイデンティティを生みだし、それが所与のものであり、当然であるかのようにあつかっている(翻訳者や雑誌の編集者には、そう思われていたにちがいないのだが)。あるいは、とにかくわかりやすければいい、読みやすければいいといったことを尊ぶ翻訳ストラテジーのせいなのかもしれない。一番なじみのある語が一番偏見に満ちたものになってしまったのも、無意識のうちなのかもしれない。どうやら、ユネスコのような、翻訳や通訳に完全に依存している組織の翻訳に対する考え方は、その理念と目的を危うくするような訳文をふるい落とすほど犀利なものではないようだ。
取りあげた例のインパクトはさておき、翻訳のおかげで発覚した事実があっても、スキャンダルにはつきもののセンセーショナリズムに陥らないようにしたい。むしろ私は、翻訳との関わり(それが危ういものであれ)をつうじて、疑わしい価値と制度を再考する有意な機会としたい。翻訳が、文学や法律における著者の概念を再定義し、文化のちがいに敏感なアイデンティティのあり方を創りだせないか。さらには翻訳によって文学を教え、哲学するための別のアプローチが求められるようになり、出版社と企業に新たなポリシーの策定を薦める……そんな道を模索したいのだ。その過程で、詳細な事例研究にもとづいて翻訳についての認識があらためられ、一連の理論が立論され、実践が生まれる。
過去にせよ、現在にせよ、個別の事例は貴重なものだ。なぜなら、個々の事例は翻訳が目下置かれているマージナルな立場のみならず、翻訳が下支えする意味や機能にも光をあてるからだ。翻訳のさまざまな動因や効果を今まで以上に注視したならなおのことである。翻訳が生産される理由はさまざまだ―文芸や商取引、教育や産業、プロパガンダや外交。それでも、生まれた製品の状態をコントロールするどころか、くまなく目くばせしようと望みうるような翻訳者や、翻訳にかかわる機関の責任者などだれもいない。そして翻訳の引きおこす結果――その用途、それがかなう利益、それが伝える価値――をすみずみまで予期しうるような関係者もだれもいない。それにもかかわらず、こういった状態や結果以上に、翻訳したり、翻訳を読んだりすることの利害を区別し、うまく説明してくれるものはなにもないのである。
本書の各章は、それぞれがカルチュラルスタディーズのかたちをとってゆるやかに結びつき、翻訳についての現行の考え方を前進させることを狙いにしている。各章ごとに、いくつもの異なる言語・文化・時代・ディシプリン・制度を行き来しながら、翻訳されたテキストの社会的な影響力を記述・評価し、翻訳プロジェクトの可能性を拡張し、アカデミズムで研究分野として翻訳を確立し、特に(それだけではないが)米国と英国において翻訳者に文化的により強い権限と法的により有利な立場を勝ちとろうと模索した。
私は翻訳者と翻訳のために、たんに権威を拡大したいわけではない。それは、原作者(たとえば小説家や詩人)と作品が目下享受している文化的権威や、その権威を支える公的制度に乗じるようなものではない。むしろ、翻訳とは文化横断的な営みであるため、別個の「著者性」を必要とするのだ。それは外国語のテキストに準じ、外国だけでなく国内のコミュニティに奉仕する類のものだ。翻訳に期待できる唯一の権威とは、結局のところ二次的なものに留まり、翻訳がコミュニケーションしようとする元の作品とは区別される。また、集合的なものでもあって、翻訳に影響をおよぼすほかのエージェント(とりわけ国内の読者)に開かれたままのものでもある。したがって、翻訳者が翻訳という営みからえることのできる権威とは、パーソナルな表現のかたちをとるのではなく、異なるグループ同士のコラボレーションになるのであって、その共同作業は翻訳が必然的に書きなおし、並べなおす言語的、文化的な差異を認識することからはじまるのだ。訳すことは、書くことがおしなべてそうであるように、基本的に孤独な営みである。だが、翻訳は無数の人々とつながる―そして、思ってもみなかった顔合わせになることもしばしばなのだ。
翻訳のマージナル性に着目するのは戦略である。どのような文化であれ、周辺領域を研究すれば、中心にも光があたり、最終的にはその見直しにつながるように思われる。だが翻訳という、異文化が交差するケースにおいては、あつかう周辺は複数になり、自国と外国の双方にまたがるものになる。翻訳というのはマージナルな文化であって、つまるところその拠って立つ枠組みがナショナルかグローバルか、覇権言語とどういった関係かによって決められてしまう。ここで言う覇権言語とは、国の標準方言と、一般に、世界的にいまなおもっとも翻訳されている言語である英語のことである。この、本書の根本的な前提こそが、おそらくは翻訳最大のスキャンダルなのだ。言うなれば非対称、不均衡、支配と依存という関係は、訳すという行為――翻訳する側の文化のために訳文を提出するという行為だが――のありとあらゆる側面についてまわる。翻訳者は、外国のテキストと文化の、制度的な搾取に加担しているのだ。しかし、どこの組織に雇われたわけでもないのに、個人の判断でうろんな行動にでた翻訳者もいた。
1967年から72年にかけて、アメリカの翻訳者ノーマン・トマス・ディ・ジョヴァンニは、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスと顔を突き合わせて作業をし、数巻にもおよぶボルヘスの小説と詩の英訳を刊行した。それだけでなく、文芸エージェントの役割もかねて、ボルヘスが今日遇されているような正典作家としての地位を確立する手助けをした◆3。しかし、ディ・ジョヴァンニはスペイン語テキストを過度に編集、翻訳し、アメリカ人読者が読みやすいものにした。つまりディ・ジョヴァンニはテキストを、アメリカで文学的とされる文体に同化させ、現在の標準語法に合わせ、ボルヘスの散文にある突然の転調を滑らかにし、具体的な言いまわしを好むあまり抽象的な表現を避け、作家が記憶から呼びおこした引用すら修正してしまったのだ◆4。ボルヘスの作品について、ディ・ジョヴァンニはこんなことを言っている。
絵のクリーニングのようなものだよ。それまでは目に触れることのない場所に隠れていた、鮮やかな色彩や、くっきりした輪郭がわかるようになったんだ◆5。
ディ・ジョヴァンニにしてみれば、「大学教授やエセ学者みたいに、文章を顕微鏡で観察して、単語一語の意味だとか、抽象的なイメージだとかを過度に強調してしまう」のではなく◆6、作家的なアプローチの翻訳を擁護しているつもりだった。しかし、ディ・ジョヴァンニ自身がしたことといえば、ボルヘスの手によるまったく新しいタイプの文学を、談話風の型を押しつけて抑圧し、稀に見るほど知的な作家を反知性主義で翻訳したにすぎなかった。四年後、ボルヘスは共同作業を突然打ち切った。
もっとも、作家たちの側でも翻訳者を搾取してきた。しかし自分の作品の翻訳を公然と批判したものはほとんどいなかった。チェコの作家のミラン・クンデラは、自作の外国語版を精査・訂正しただけでなく、ウィットに富みつつも辛らつなエッセイや序文で自分が好む翻訳手法を明言している点でユニークだ。中でも有名なのが、小説『冗談』(1967)の複数の英語版についてのものだ。1969年に出た最初の英訳を読んだクンデラは、開いた口がふさがらなかった。編集され、カットされ、章の順番も変えられていたからだ。1982年の二番目の英訳は「受け入れられない」ものだった。クンデラはそれを「自分のテキストではな」い「翻案翻訳(それがむけられた時代と国の好みに合わせたもの、つまるところ、訳者の好みに合わせた翻案)」だと判断した◆7。
クンデラの抱く疑念はもっともで、同化翻訳は外国の文学テキストを、翻訳する側の価値観に無理やりに合わせてしまうし、そもそも翻訳を必要としたであろう異質さの感覚を消し去ってしまうのだ◆8。だが、別の言語をへることなしに――すなわち、別の時代や国の感覚をへることなしに――異質さを翻訳に刻みこむ術などあるのだろうか? クンデラの翻訳に対する考え方は、文体が生む効果に敏感なはずの作家にしてはあまりにもナイーヴである。クンデラは、外国語のテキストの意味が翻訳で変わらず、外国の作家の意図が言語・文化的隔たりを越えてそのまま伝わることを前提としている。翻訳とはつねに解釈を伝えるものであって、外国語のテキストは省略されたり改変されたりし、翻訳する言語の特徴で補われ、不可解なほど異質なものではなく、はっきりと同化的な文体で理解しうるものなる。ほかの言葉で言えば、翻訳には同化がつきものなのだ。最善の翻訳とは、ある文化における価値観を可能なかぎり再創造する力をもちつつも、その力に対する責任を能うかぎり引き受けるものであって、そんな翻訳は通例、読者をほどほどに異化された自国の表現に引きこんでは、外国語のテキストとの出会いを捏造して魅了してしまうものなのだ。
つまり、クンデラはフランス語や英語の訳者が提示する解釈をコントロールしたいと思っているのだが、その理由とは著者が訳者の解釈にまったく同意していないから、というものなのだ。翻訳がフランス語と英語でよく読まれているかどうかは、国外の読者を獲得する上で重要だが、クンデラにとってはどうでもいいことだった(クンデラ自身の作品は翻訳によって文化的・経済的資本を獲得した)。クンデラは、翻訳をつかって外国語のテキストに直接かつ無媒介にアクセスできると見なしたいだけなのだ。カフカの場合、クンデラは「疑いなく〔……〕ここでカフカが願っていたことではない」として、ドイツ語の「行く gehen」の訳にフランス語訳の「歩く marcher」が使われていることを批判している◆9。だが、翻訳先の言語文化で生活していたらこう書いたみたいなものを、作家が翻訳に求めてもどだい無理な話なのだ。カフカがフランス語で書いたらというのは、ひとつのフランス語の解釈でしかなく、ドイツ語のテキストにとって、さらに忠実になるわけでも、適切になるわけでもない。著者が解釈者を兼ねたところで、解釈が目標言語の価値観を無視できるようになるわけではない。
クンデラは翻訳が交渉しなくてはならない言語的・文化的差異を認めたがらない。むしろ、自分にとって都合のいいものを選びだすことで、差異をコントロールしようとしているのだ。それゆえ、クンデラは『冗談』の三つ目の英訳版をつくるさいに、自分自身の英語・フランス語訳だけでなく、以前の翻訳から「数多くの冴えた解釈」と「数多くのすばらしい忠実な訳文と明晰な表現」を継ぎはぎしたのだ◆10。クンデラがそんなあつかいを訳文にするうえで、翻訳者の同意をえたのかははっきりしない。タイトル・ページには以前の訳者たちの名前はあがっていない。
クンデラの翻訳のあつかい方には疑問符がつくが、著作権法は作品についての権利を著者に独占的にあたえることで、クンデラを不問に付している。自分が書いたものにたいする解釈はすべて、著者が専決すべしという、クンデラの考えを著作権法は裏書きしてしまう。そしてそれは、クンデラ自身も恣意的だということを意味している。クンデラによる『冗談』英訳の「決定版」は、実際は1967年のチェコ語原文に手を入れたものだ。50頁以上を削除し、小説をイギリス・アメリカの読者にわかりやすくするため、チェコの歴史についての記述を削除しただけでなく、登場人物すら変更している◆11。クンデラは序文で、こういった修正には口をつぐんでいる。それどころか「1965年12月5日擱筆」といった、あたかも無削除のオリジナル・テキストを翻訳しただけかのような、誤解をあたえかねない記述で英訳を締めくくっている。著者が訳者を兼ねる場合、以前の英語版で自分が攻撃したような同化をためらわないようなのだ。
翻訳が提起する問題はまぎれもなく倫理的なものであり、まだ解決の目を見ていない。翻訳のスキャンダルの存在を確認するだけでも、ひとつの裁定になる。つまりここでは、翻訳がおかれた非対称性への改善案を発見し、翻訳を実践・研究するうえでよい方法論と悪い方法論を識別する倫理の存在が前提になっている。そして、俎上にあがる倫理の理論化は、経験にもとづかなくてはならない。つまり、外国語のテキストが選択・訳出される、あるいは翻訳および翻訳行為が研究対象になる特定の文化の状況に根ざした理念でなくてはならない。こうした倫理的な責任を線引きするうえで、私はまず自分自身の仕事から――アメリカ人文芸翻訳者として私が直面した問題についての議論からはじめることにする。翻訳の倫理については、ほかの関連したコンテキスト(とりわけ、アイデンティティを形成し、エージェントを認定する翻訳の力が検討される場合)についてもあとで議論していくことになる。私が弁護する倫理的な立場とは、言語的・文化的差異にさらなる敬意をはらって翻訳がなされ、読まれ、評価されるべきというものである。
翻訳が異文化間のコラボレーションである以上、いきおい本書の射程もトピックにあわせてグローバルなものになる。つまり、世界中の翻訳者や翻訳のユーザーに語りかけるというものだ―だが、彼らの立ち位置もさまざまだということを忘れてはならない――それによって、語りかける言葉も変わる。ケーススタディが具体的になればなるほど、時代や場所が定まれば定まるほど、そこから引き出せる理論的なコンセプトを深く掘りさげ、具体化できる。異文化交流の多岐にわたる側面を研究するためには、このような批評的ギブアンドテイクが不可欠のように思われる。私たちを結びつけると同時に隔てもする、この文化的な営みにおいて、翻訳が果たすべき役割は大きいからだ。
註
◆1 Ian Mason, “Discourse, Ideology and Translation,” in Robert de Beaugrande, Abdullah Shunnaq, and Mohamed Helmy Heliel eds.,Language, Discourse and Translation in the West and Middle East, Amsterdam and Philadelphia: Benjamins. 1994. p. 33.; cf. Basil Hatim and Ian Mason, The Translator as Communicator, London and New York: Routledge. 1997. pp. 153–159.
◆2 Ian Mason, “Discourse, Ideology and Translation,” p. 33.
◆3 Irene Rostagno, Searching for Recognition: The Promotion of Latin American Literature in the United States, Westport, Conn.: Greenwood.1997. pp. 117–120
◆4 Matthew Howard, “Stranger Than Ficción,” Lingua Franca, June/July, 1997. pp. 41-49.
◆5 ibid. p. 49.
◆6 ibid. p. 44.
◆7 Milan Kundera, The Joke, New York: HarperCollins.1992. p. x.
◆8 Milan Kundera, The Art of the Novel, trans. L. Asher, New York: Grove. 1988. pp. 129–130. ミラン・クンデラ『小説の精神』金井裕・浅野敏夫訳、法政大学出版局、一九九〇年〔ヴェヌティの言及部分は、「第六部 七十三語」に対応すると思われるが、フランス語版の見出しの順番のまま訳出した日本語版と、見出しを英訳したうえで、アルファベット順に並びかえた英語版では、該当箇所を指ししめすのが困難である〕。
◆9 Milan Kundera, Testaments Betrayed: An Essay in Nine Parts, trans. L. Asher, New York: HarperCollins. 1995. p. 105. ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』西永良成訳、集英社、一九九四年、一二一頁。
◆10 Kundera, The Joke, p. x.
◆11 Allison Stanger, “In Search of The Joke: An Open Letter to Milan Kundera,” New England Review 18(1) (Winter) 1997. pp. 93–100.
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