ためし読み

『だから私はここにいる 世界を変えた女性たちのスピーチ』

性差、人種、民族、宗教、障害など、さまざまな壁を乗り越え、多様な分野で権利と尊厳のために声を上げてきた女性たち54人によるスピーチを収録したアンソロジー『だから私はここにいる 世界を変えた女性たちのスピーチ』が刊行されました。女性の権利を求める闘いが始まった1830年代から現代までのさまざまなスピーチが収録されており、女性によってもたらされた変革の歴史を“言葉”という入り口から簡潔にたどることができます。
今回は本書「はじめに」全文をためし読みとして無料公開いたします。

はじめに

「女性のスピーチ、と聞いて何か思い浮かべられる?」

本書の下調べを始めるにあたり、私はこんな質問を投げかけた。友人や同僚、家族、恩師、ときには見ず知らずの人にまで。

女性のスピーチを思い浮かべることができるか? 私はこの問いを、あたかも雑学クイズや長いドライブ中のお遊びであるかのように楽しげに尋ねた。これは、テストでもひっかけ問題でもない。私だって、この問いの答えを持ち合わせていないのだ。しばらく考えていると、海底から掘り起こされる銀のかけらのように、数人の女性の名前がじわじわと浮かび上がってくる。そうしてすぐさまその名に飛びつく。でも、詳しいことはぼやけて、はっきりとはわからない。まるで、閉ざされたドアの向こうで交わされる会話に耳を澄ませているみたいな感覚だ。「ソジャーナ・トゥルースが何か言っていなかったっけ?」おそるおそる自問する。「ヴァージニア・ウルフが雄弁に語ったのは何だったろう?」それから「セネカ・フォールズ会議〔1848年、ニューヨーク州セネカ・フォールズで開かれた米国初の女性の権利大会〕で宣言をした、あのボンネットをかぶった正義の女性は誰だっけ?」

女性たちの歴史においては、多くの形あるものが我々の前から姿を消してきた。ポスターや請願書、バッジやチラシ、私的な手紙・日記といったたぐいのもの。何世紀もの間死蔵されたり無署名のままだったりした美術、批評、文学作品。それから家事や病院の予約、支払い期日、買い物メモや葬儀の段取りなどを書き留めた無数のリスト等々。女性のスピーチを確認するのが難しいのは、さほど驚くことではないのかもしれない。私たちの言葉は、発せられたあとどうなるのだろう。メモに残され、記事や書籍に書き起こされるのだろうか。誰かの耳に残って、静かなひとときに口ずさまれるのだろうか。それとも、口から離れた途端とんぼ返りするように、ひっそりと消えていくのだろうか。

はじめは、一冊にまとめられるほどの量の女性のスピーチが見つかるかどうか不安だった。五月のある週末、私はブルックリン公共図書館に出向き、スピーチアンソロジーの棚を調べた。重厚で頼もしいタイトルがずらりと並ぶ。The Penguin Book of Modern Speeches(『ペンギン・ブックスが選んだ現代スピーチ集』未訳)The Penguin Book of Historic Speeches(『ペンギン・ブックスが選んだ歴史的スピーチ集』未訳)American Speeches(『アメリカ名スピーチ集』未訳)Give Me Liberty(『我に自由を与えよ』未訳)。これは宝の山だ、と思った。しかし最大のコレクションであるThe World’s Great Speeches: 292 Speeches from Pericles to Nelson Mandela (Fourth Enlarged Edition)(『世界の名スピーチ292選──ペリクレスからネルソン・マンデラまで[増補第四版]』未訳)において、私はあることを発見した。男性による女性についてのスピーチが、女性によるスピーチ数に匹敵するくらいあるのだ。元上院議員のチョーンシー・ミッチェル・デピューの「女性」に、アメリカ南北戦争の将校ホレス・ポーターの「女性!」この二つより有名なのは、マーク・トウェインの1882年のスピーチ「女性に神の祝福があらんことを」だ。292本のスピーチのうち、実際に女性によって語られたものは11本である。

壮大なフェミニズムの歴史書The Feminist Promise: 1792 to the Present(『フェミニスト・プロミス――1792年から現代まで』2010年、未訳)のなかで、著者のクリスティーン・スタンセルは、「歴史の忘却」が女性運動にもたらす結果について書いている。歴史の忘却によって、フェミニズムは「古い過ち、古い議論、古いジレンマを強迫的に繰り返す」傾向に陥ってしまうという。私がときどき思うのは、どの世代の女性たちもそうなのかもしれない、ということだ。独り立ちしてから望ましくない社会を目の当たりにした女性たちは、母親や祖母、曾祖母世代が直面してきた問題に相変わらず立ち向かっているように見える。どんなやり方ならうまくいくか、どんな方法だと失敗するのかも知らないまま。まるで、車輪を絶え間なく再発明しているかのように。新しい世代が、かつての女性たちに課せられた制約を知らないまま上の世代に反発し、「もっとやれることがあっただろう」と怒りの目を向けるのはよくあることだ。反発している対象は、かつては急進的であった女性かもしれないのに。

私は不思議でしかたがない。なぜ私たちは、これだけ考え、主張し、研究してきたというのに、いまだに「この世界で女性であるとはどういうことか」を自問し続けているのだろう。

図書館を出て、ジュディ・シカゴによる一部屋サイズの大型インスタレーション作品《ディナー・パーティー》を見るため、ブルックリン美術館に向かって歩く。1979年に完成した《ディナー・パーティー》は、ブルックリン美術館4階の「エリザベス・A・サックラー フェミニスト・アート・センター」の目玉だ。巨大な三角形のバンケットテーブルを模したこの作品は、ヴァージニア・ウルフ、ジョージア・オキーフ、サカジャウィア、サッフォー、エリザベス1世といった歴史や神話に登場する象徴的な女性39人のために、手の込んだテーブルセッティングがなされている。テーブルの下の「ヘリテージ・フロア」に敷かれたセラミックタイルに記されているのは、有名無名を問わない約1000人の女性の名前だ。アリス・ポール、カーロータ・マティエンツォ、フローレンス・ナイチンゲール、エカチェリーナ2世(ロシア皇帝)、アッシジのキアラ、ヒッパルキア、マリア・ルイサ・ボンバル、ローズ・ムーニー、テレサ・ビジャレアル。私たちは、物理的な空間で歴史をとらえることはあまりない。だが、シカゴの作品は、正典を作成すること、つまり誰がテーブルに座るかを決定するのが困難な作業であることを物語っている。

1970年代、大学の女性学課程がまだ始まったばかりの頃、シカゴとリサーチ協力者たちは、手当たり次第に古書や図書目録などの資料を漁り、女性たちのリストを作成した。協力的な有識女性たち(一部男性も含む)のネットワークが広がっていった。彼女たちはまさに文字通り、テーブルをつくっていたのだ。中学生の私が両親に連れられて初めてこの作品を観に訪れたのは、それから20年以上もあとのことだった。テーブルに招かれた女性たちは当然のチョイスに見えたし、あまりにも当然すぎて、議論の余地のない名声を得ているようにも思えた。しかし女性たちがテーブルにつくということ、すなわち展覧会やアンソロジーで女性たちに場が与えられるということに、議論がなかったわけではない。これは学術的な問題とは異なる。世界各国の巡回展で鑑賞券が完売したにもかかわらず、《ディナー・パーティー》が美術館に常設展示されるまでに、約22年の歳月を要しているのだ。

女性たちが自らの人生や選択に関する物語を次の世代に語り継ぐのは、今に始まったことではない。女同士のプライベートな空間において、うわさ話やひそひそ話、名もなき作品といった形で、常にそれは行われてきたのではないかと思う(ヴァージニア・ウルフは、1929年のエッセイ『自分ひとりの部屋』のなかで、「署名のない詩をたくさん書いた無アノン名詩人たちの多くは女性だった」と推測している)。フランス革命の時代、女性たちは自らの政治生活のあり方に悩むようになった。活字になったもので言えば、イギリスの知識人メアリ・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』(1792年)と、フランスの劇作家でフェミニズム運動家のオランプ・ド・グージュの『女性および女性市民の権利宣言』(1791年)が挙げられる。この二冊は、女性の運命についての力強く洞察力に満ちた主張であり、変革の必要性をまっすぐに訴えている。しかし、いずれもスピーチではなく書かれたものである。多くの文化圏において、講義や討論が行われる公共の場は、ほぼ男性のみで占められていたためだ。1800年代初頭になってようやく、英米を中心に女性たちが自分たちの状況について公の場で発言するようになった。

これは革命的な行為だった。卵が投げられ、風評は地に落ちた。1829年、スコットランド生まれの奴隷制廃止論者フランシス・ライトは、アメリカ各地で男女の聴衆を前に講演会を開いた。テーマは教育の重要性を訴える当たり障りのないものだったが、彼女がさらされたのは、蔑みの目だった。売春婦だと非難され、「不貞の真っ赤な娼婦」と呼ばれた。

本書に収めた初期のスピーチの多くは、アメリカの奴隷制廃止論者の女性たちによるものである。彼女たちは奴隷制廃止を訴えるうちに、自分たちが二級市民として扱われる現状に疑問を抱くようになった。アフリカ系アメリカ人の奴隷制廃止論者マリア・スチュワートは、1832年に早くも女性の可能性について勇気ある発言をしている。南部の農園主の娘であったアンジェリーナ・グリムケとサラ・グリムケの姉妹は、奴隷制廃止を訴える講演旅行に出かけたかどで、一族の名誉を傷つけることになった。1838年にアンジェリーナがペンシルバニア・ホールで熱弁をふるったときは、怒った暴徒が扉を打ちこわし、ついにはホールを焼き払った。

本書は共同プロジェクトである。きわめて優秀な編集チームによる尽力がなければ、この本を完成させることはできなかっただろう。彼らは収録するスピーチの権利を確保するために、各財団、遺産管理人、文芸エージェント、アーキビスト〔保存価値のある情報を保管し、閲覧できるよう管理する専門職〕に根気強く連絡を取ってくれた。カミラ・ピニェイロの輝かんばかりのイラストを起用して、本書に美しい生命を吹き込んでくれた。ヘレネ・レミシェフスカには、本書のような書籍には欠かせない事実確認を担当していただいた。丹念に調査を進めていくうちに、本一冊分の素材を集めることへの不安はまったくの杞憂に終わった。私は歴史家やジャーナリスト、女性学の教授、その他友人らに広く教えを請うた。続々と寄せられた候補のなかには、特定の演説を挙げるものもあれば、先駆的な女性の名前のみであることもあった。挙げられた候補が必然的にほかの候補を呼び寄せ、気づけばせきを切ったように扱いきれないほどのスピーチが集まっていた。なんという珠玉の言葉の数々! 「そう、私は自由恋愛主義者です」と高らかに宣言して自由恋愛の原則を謳い上げたヴィクトリア・ウッドハルのすぐれて現代的なスピーチ(1871年)。男性に投票権を与えるかどうかを女性たちが議論して大いに笑いを誘った、カナダの女性参政権活動家ネリー・マクラングの「模擬議会」(1914年)。ほとんど男性しかいない議会で、雄弁かつ共感的にフランスでの中絶合法化を訴えたシモーヌ・ヴェイユの演説(1974年)。2012年には、マナル・アルシャリフがオスロの聴衆に向けて、女性の運転を禁ずるサウジアラビアの掟への抵抗運動を牽引したことを、勇気をもって語った(その過程で彼女は仕事と家を失った)。ニューヨーク州セネカ・フォールズで開催された会議で「感情宣言」を読み上げたアメリカの女性参政権活動家エリザベス・キャディ・スタントンは、1892年のスピーチ「自己の孤独」で、あざやかに問いかけた。「私は皆さんに問います。他者の魂の権利、義務、責任を負える者、あえて引き受けようとする者などいるのか、と」

本書は19世紀初頭から始まり、現代に向かって進んでいく流れになっている(例外はエリザベス1世がスペインのアルマダで防衛軍に向けて行ったティルベリー演説である。この演説は遠くから響く鬨ときの声のように、現代の我々のもとに届く)。演説の多くは政治的活動に結び付いたものだ。そのため本書に収録されているスピーチは、参政権や公民権、LGBTQの平等、積極的な環境政策など、幅広い社会的・政治的な動きを映し出す窓となっている。芸術の領域に格調高く踏み込むスピーチもある。老婆と鳥のわかりやすいたとえ話を用いた物語の力で人々を幻惑させたトニ・モリスンのノーベル賞受賞講演。卒業する美大生に「あなたの作品は百年後にどのように読まれ、感じられるのか」を考えるように問いかけたマヤ・リンの卒業式祝辞。あらゆる意味で失敗とはほど遠いJ・K・ローリングは、「失敗は、ほかの方法では知りえなかった自分自身について教えてくれたのです」と、失敗の利点を讃えている。かわるがわる登場するスピーチはどれもウィットに富んで説得力があり、人柄が感じられ、強い信念に貫かれた情熱的なものばかりだ。彼女たちの多くはほかの女性たちに、とげのようにいつまでもつきまとうあの問題を投げかけている――女性はどのようにあるべきか・・・・・・・・・・・・・

あらゆるアンソロジーがそうであるように、このアンソロジーも不完全で、決して決定的なものではない。必然的に範囲を限定せざるを得ず、素晴らしい女性たちを何人も取りこぼしている。続くコレクションに期待するほかない。スピーチのほとんどはもともと英語でなされ、その多くは表立った女性解放運動が早くから始まったアメリカやイギリスで行われたものだが、フランス、オーストラリア、ケニア、リベリア、エジプト、パキスタン、ポーランドといった国の女性によるものも含まれている。どうしても掲載したい女性がいても、信頼できるスピーチテキストを確保できないという壁に阻まれたこともあった。ほとんどのスピーチは抜粋された形での掲載だが、いずれも全文を調べてみる価値のあるものばかりだ。読者におかれては、本書の抜粋や図版を足がかりに、さらなる発見に導かれることを願っている。

付記:このコレクションに登場する女性たちは、いくらそうであってほしいと私たちが望もうとも、ヒロインでも聖人でもない。実在の人物であり、妥協や失敗、難しい決断をしてきた政治家であることも多い。悩ましい矛盾を感じたのが、初期の女性参政権活動家のなかに人種に関して危うい発言をする人がいたり、マーガレット・サンガーの産児制限の主張のいくつかが優生学と結びついていることである。国家首脳の場合は、たとえばインディラ・ガンディーやマーガレット・サッチャーのように、負の遺産を残していることも珍しくない。それでも本書に掲載したスピーチは、ある特定の瞬間をとらえ、その時代の不満や願望を後に続く世代のために結晶化させ、感動とインスピレーションを与えている。

ここにあるのは革命を起こしたスピーチだ。革命には二種類ある。大規模なデモや暴力的な衝突といった形で公共の場で起こる革命と、心のなかで起こる静かな革命と。そのどちらも引き起こしたこれらのスピーチは、記憶されるべきものだ。

さらに、これらのスピーチは互いに関連し合っている。たくさんの優れたスピーチを一度に読むことで得られる興味深い発見のひとつに、「つながり」がある。イギリスの女優エマ・ワトソンは、2014年に国連でジェンダーの不平等をなくすためのスピーチをした際に、ヒラリー・クリントンが1995年に北京で行ったスピーチに言及した。このスピーチは、クリントンが「人間の権利は女性の権利であり、女性の権利は人間の権利である」と宣言したことで知られている。クリントンは自身のスピーチにおいて、米国の女性が選挙権を獲得するまで長い年月を要したと述べたが、女性参政権運動は1848年にエリザベス・キャディ・スタントンが「感情宣言」を読み上げたときに正式に始まったものだ。ルース・ベイダー・ギンズバーグは、1973年の最高裁での圧倒的な弁論において、奴隷制廃止論者のサラ・グリムケ(アンジェリーナ・グリムケの姉)の言葉を引用した。「特別扱いを求めているわけではありません。ただ、私たちの首根っこを踏んでいる足をどけてほしいのです」。ブラック・ライブズ・マターの創設者のひとりアリシア・ガーザは、「黒人女性に捧げる詩オード」のなかで、ソジャーナ・トゥルースとアイダ・B・ウェルズに敬意を表している。作家のナオミ・ウルフは1992年、ヴァージニア・ウルフの1931年の講演「女性にとっての職業」を引用し、自己検閲の危険性を警告した。また、想像力豊かな小説家アーシュラ・K・ル゠グウィンは、「左ききの卒業式祝辞」において、「周りや足元」を見て女性同士で刺激を与え合い、「堂々と女性の言葉で」話すことを女性たちに勧めている。本書に収録されている女性たちの多くは、お互いから学んでいるのだ。同じように、私たちも彼女らから学ぶことができるだろう。

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だから私はここにいる

世界を変えた女性たちのスピーチ

アンナ・ラッセル=著
カミラ・ピニェイロ=絵
堀越英美=訳
発売日 : 2022年5月26日
2,000+税
A5判変形・並製 | 184頁 | 978-4-8459-2023-5
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