第9章 ステレオタイプを超越する
フィクションは強い影響力をもつことがあります。キャラクターも、多くの面で私たちに影響を与える可能性があるでしょう。気づきやモチベーションをもたらし、自分や他者についての理解を深め、本質的な学びを与える模範にもなります。私たちにとっては、それが新しい生き方へとつながることにもなるでしょう。
キャラクターにはポジティブな影響力がある反面、ネガティブな影響を及ぼす可能性もあります。テレビ番組の内容を模倣した犯罪行為の実在にも強いエビデンスがあり、子どもや大人の暴力とテレビで放映される暴力との相関関係も多くの研究で示唆されています。メディアにおけるステレオタイプもネガティブな印象を植えつけます。クリエイターとして多面的なキャラクターを創作する時は、ステレオタイプとは何であり、どうすればステレオタイプを打ち破れるのかを理解しておくべきです。
ステレオタイプとは、ある特定の属性をもつ人々を、限定的な見方で継続的に描写することと言えるでしょう。たいていは、ネガティブな描写です。自分たちの文化的な特徴に対して偏った見方をし、それに基づいて異文化の特徴を狭い見方で描いています。人間性を否定するような表現もあります。
そのような描き方をされるのは誰でしょうか。自分たちとは異なる人々なら、誰でもです。自分たちが理解できない人々。白人のクリエイターにとって、それはアフリカ系やアジア系、ラテン系、北米先住民族などのマイノリティと呼ばれる少数民族かもしれません。身体的な障がいや発達障がい、情緒や精神の病をもつ人々もしばしばステレオタイプ的な描かれ方をします。
宗教にも偏見があるでしょう。イスラム教やカトリック、プロテスタント、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教など、あらゆる宗教が対象になり得ます。
性別や、性的志向もステレオタイプの対象になり得ます。同性愛でも異性愛でも、自分とは異なる志向をもつ人々が偏見の対象になるのです。
自分よりも年齢が上あるいは下の人々に対しても、異文化と同じようにステレオタイプ的な見方をしがちです。
ステレオタイプ的なイメージは集団によってさまざまです。被害者として描かれることが多いのが女性とマイノリティです。特に映画ではこの傾向が強く、すぐに死ぬ設定か、白人男性に救助される役どころがよく見られます。
障がいをもつ人々は、肉体のゆがんだ形状が魂のゆがみの象徴として捉えられがちです。あるいは哀れな被害者とみなされるか、逆に、超人的な存在として、奇跡的に障がいを克服して偉業をなしとげる人物として描かれます。
アフリカ系はコミカルな存在か冗談の的、あるいは犯人役が多いです。アジア系の場合、女性はエキゾチックでエロティック、男性は何もわかっていない人々の集団か、裕福で行儀のよいマイノリティのお手本のような描写が目立ちます。後者はネガティブな印象ではありませんが、狭く限られた見方を示しています。アジア系の人々も、家庭的、社会的な問題があれば他の人種と同じように影響を受けるという認識に欠けています。
北米先住民族が残虐な悪人や、酒浸りの卑劣な無法者として描かれた例は数多くあります。ラテン系はギャングのメンバーや強盗役が多いです。また、劇作家ルイス・バルデスが言うように「ラテン系のストーリーといえば南西部が舞台と決まっていて、壁は日干し煉瓦、屋根はタイルという家屋の中で展開するものだと思われている*1」
白人男性も例外ではありません。無口でタフか、非常にマッチョなタイプとして行動する側面が強調され、そうではない白人男性のアイデンティティを否定しています。家事をする主夫やマッサージ師、教師など、人を癒して育てる男性たちは自分の価値が軽視されていると感じるでしょう。深く考える男性や、慈愛を与える男性のリアリティはめったに表現されません。
秘書やブロンドの女性、バスケットボール選手、WASPと呼ばれる白人プロテスタント教徒、退役軍人、弁護士など、どんな集団も、どこかでステレオタイプ的に描かれています。人間の特徴は複雑なもの。それを単純化して捉えようとするのも人間の自然な欲求です。先入観を持たれない人はいません。
「キャラクターのタイプ」はそれとは異なります。「愚かな父親」や「偉そうな兵士」というのはキャラクターのタイプであって、ステレオタイプではありません。なぜなら、父親や兵士がもつ他の特徴とのバランスがとれているからです。こうしたキャラクターを見ても、読者や観客は「父親はみんな愚かだ」「兵士はみんな偉そうだ」と結論づけません。キャラクターのタイプの設定は、ある特定の集団(たとえば父親たち)が同じ特徴(たとえば愚かさ)だと示唆しているわけではありません。ステレオタイプは集団全体の特徴を決めつけます。
ステレオタイプを意識する
書き手の意図はよかったとしても、フィクションの作品には白人のキャラクターが多く、世界の実態とずれています。アメリカ合衆国の人口の12パーセントがアフリカ系、8.2パーセントがラテン系、2.1パーセントがアジア系、2パーセントが北米先住民で占められ、全体の20パーセントが何らかの障がいをもつ人々です──しかし、ほとんどのフィクションで描かれるリアリティはかなり異なっています。
近年のテレビ番組の分析で米国公民権委員会が得た結果によると、米国の総人口で白人男性が占める割合は39.9パーセントであるのに対し、テレビ番組のすべてのキャラクターの62.2パーセントが白人男性だったそうです。
また、米国の総人口の41.6パーセントが白人女性で9.6パーセントがマイノリティの女性ですが、テレビドラマに登場するすべてのキャラクターの中での比率は白人女性が24.1パーセント、マイノリティの女性はわずか3.6パーセントでした*2。
米国ではすべての女性の内の95パーセントが家庭の外での労働を経験しますから、「女性は家庭にいるもの」というステレオタイプはもはや真実とは言えません。神学と法学を学ぶ学生の40パーセントは女性ですから、映画やテレビに女性の弁護士や判事、司祭がたまにしか登場しないのも現実的ではありません。女性のパイロットや機械工、電話修理工、ユダヤ教のラビ〔宗教的指導者〕も珍しくありません。白人男性だけを理想のキャラクターとして描くと、多様性に富む文化にそぐわなくなってしまいます。
キャラクターを設定する時は、こうした統計的な数字が参考になるでしょう。さらに都市単位で見ると数字は変わります。サンフランシスコが舞台のストーリーをリアルに描くなら、アジア系と同性愛者の比率は大きくなるでしょう。ロサンゼルスが舞台ならラテン系の比率が大きくなり、デトロイトやアトランタではアフリカ系の比率が大きくなります。
ステレオタイプを超越するということは、視野を広くすることでもあります。キャラクターを創作しながら、あなたの観察力も鍛え直していきましょう。どんな場でも、私たちはまず、大多数を構成する集団に目を向けます。もしもあなたが、1960年代に、筆者の故郷ウィスコンシン州ペシュティゴ(人口、2,504人)を訪れたなら、中流階級の白人が暮らす静かなコミュニティだとすぐにわかるでしょう。住民のほとんどはプロテスタントかカトリック教徒で、「教会には行ってない」という人たちがわずかにいるという印象です。
さらによく見てみると、コミュニティの多様性が見えてきます。当時、ベシュティゴには家電用品店を営むユダヤ系の家族と、戦後にラトビアから来た移民の家族がいました。近郊にあるピクルス工場のために夏場にキュウリ摘みをするメキシコ人たちも数名います。筆者の父はドラッグストアを営んでいましたが、近くの居留区に住む先住民族メノミニー族の人がたまに買い物に来ていました。他に覚えている人は、1人は午後に下校する児童たちを横断歩道で見守っている人で、もう1人は学習障がいがある小学5年生の女の子、あと1人は片腕をがんで失った中学生の女の子。とても裕福な家が4軒と、とても貧しい家が3軒ありました。
数年後にまた見直せば、静かで何もないように見えた町にも、ステレオタイプを打ち破るようなディテールがあることに気づくでしょう。ウィスコンシン州立銀行から現金を奪って逃走した3名の強盗が6時間後に逮捕されたこと(彼らが逃げた道路は行き止まりでした!)。反戦運動家の司祭がベトナム戦争時に町でデモ行進を率いたこと。さらに後の時代では、全米に名を馳せた人物が3名現れました。近郊に別荘をもち、O・J・シンプソンの弁護団に参加した弁護士F・リー・ベイリー。ベトナム戦争のソンミ村虐殺事件に関与した軍人のアーネスト・メディナ。ニカラグアで爆撃中に撃墜されて捕らわれた傭兵ユージーン・ハーゼンファスです。
お気づきのように、これらの人々はあまり人種や民族で語られておらず(ユダヤ系の家族、プロテスタントなど)、むしろ、役割によって定義されています(店を営む人、反戦運動家の司祭など)。
まず、あなた自身の文脈の中の多様性を見てみれば、あなたがおこなった全般的なリサーチの確認ができます。あなた自身の背景にいる人々はマイノリティのキャラクターとして素晴らしいモデルになるでしょう。
小説や短いストーリーにマイノリティのキャラクターを登場させるのは比較的簡単です。舞台や映画やテレビ向けのストーリーなら、先住民族の医師や韓国人の機械工などの表現はキャスティングの決定にゆだねられる可能性が高いでしょう。実際に、そうなるケースが多く、問題は複雑になります。キャスティングディレクターとプロデューサーはマイノリティの登場をあまり考慮しないからですが、書き手としてできることはあります。
『女刑事キャグニー&レイシー』でスーパーバイジング・プロデューサーを務め、脚本家チームのヘッドライターでもあったシェリー・リストはこう言っています。「私はマイノリティの描かれ方を意識していますから、脚本にも全般的に書き入れます。曖昧な形でキャスティングディレクターに任せるのではなく、たとえば、学校の生徒はアジア系やアフリカ系や白人がいるとはっきり書いておきます。あるいはラテン系の検事、アフリカ系のエンジニア、アジア系のニュースキャスターというふうに指定もします。それについてネットワークから意見が出ることはないし、気にしていないようですね。キャスティングディレクターは脚本を読み、指定に従います」
特にマイノリティと指定されていなかった役を演じて高く評価されたケースもあります。つまり、白人が演じていたかもしれない役柄をマイノリティの俳優が獲得して演じた例です。エディ・マーフィー主演の『ビバリーヒルズ・コップ』(1984年)はもともとシルヴェスター・スタローンのために書かれた脚本でした。『愛と青春の旅だち』(1982年)でルイス・ゴセット・ジュニアが演じた軍曹の役は白人を想定して書かれていました。『エイリアン』(1979年)でシガニー・ウィーバーが演じた役は、元は男性キャラクターとして設定されていました。ウーピー・ゴールドバーグが近年演じている役柄の多くはマイノリティを想定しておらず、また、中には女性キャラクターとして書かれていなかったものもあります。役柄の設定に関わらず、俳優は自らの文化的な背景によって特別なものを人物像に加えます。
マイノリティの俳優たちはこのようなキャスティングを好むでしょう。あらかじめ設定された人種や身体の障がいの有無などに該当する俳優が演じるよりもよい、ということです。
*1 Luis Valdez, as quoted in an interview with Claudia Peng, “Latino Writers Form Group to Fight Stereotypes,” The Los Angeles Times Calendar, August 10, 1989.
*2 Statistics from Window Dressing on the Set, a report of the United States Commission on Civil Rights, Washington, D.C., 1979, p. 9.
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