ためし読み

『クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論』

クリストファー・ノーラン作品に関する日本で初めての本格的分析本である『クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論』。本書では、彼の映画で外せないテーマである「フィクション」や「嘘と真実」を通して、『フォロウィング』から『インターステラー』までの全長編作品を読み解いていきます。
各作品において「嘘」がどのように中心的な役割を果たし、観客である私たちは、何に翻弄され欺かれ、ノーラン特有の巨大な「嘘」に巻き込まれていくのか。
今回は、『インセプション』IMAX&4D版の上映を記念して〈第7章『インセプション』における現実放棄の要請〉の一部を公開いたします。
※『インセプション』と『メメント』の結末に関してネタバレを含みますのでご注意ください。

第7章
『インセプション』における現実放棄の要請

『メメント』を再訪する

 クリストファー・ノーランのすべての映画のなかで、完成までに最も時間を要した作品が『インセプション』(2010年)である。彼自身が述べているように、2010年にこの映画を完成させるまで、彼は約9年間にわたってこの映画のアイデアを温め続けていた★01。スタジオがノーランに、多額の予算を投じた、夢についての映画を作る機会を与えるためには、『ダークナイト』(2008年)のような並外れた成功が必要だったのである。ノーランはこの映画に関して、「『インセプション』には、私が直接『去年マリエンバートで』からアイデアを盗んだのではないかと疑われても仕方がないような共通点がある」と述べている★02。ノーランは、『インセプション』の製作以前にアラン・レネ監督の1961年の映画を見ていなかったと説明しているが、大規模予算の映画──夏のブロックバスター──と、映画史上最も有名なヨーロッパの芸術映画の一つが結びつけられること自体が、どれほど洗練された監督であっても、この映画の企画に関してハリウッドのスタジオから冷ややかな反応しか引き出せないであろうことは容易に想像できる。しかし、『ダークナイト』の成功によって、ノーランは大衆向けの『去年マリエンバートで』を作ることができるという信頼を勝ち得たのである。

しかし、『インセプション』は、評判の良い『去年マリエンバートで』ではなかった。実際、典型的な夏のブロックバスターと比べて優れているにもかかわらず、また、映画ファンと、批評家の圧倒的多数から高い人気と評価を得たにもかかわらず、他のノーラン作品と比べて、その凡庸さを嘆く人たちもいた。『インセプション』がアカデミー賞作品賞にノミネートされた初のノーラン作品だという事実が、『ダークナイト』と比べても、大衆向けノーラン作品という、この映画の地位を確証しているように見える。映画評論家のクリストファー・オアは、『メメント』(2000年)のような作品とは異なり、『インセプション』では、芸術上の技巧が他のすべての要素を圧倒してしまっていると不平を述べている。彼は「『インセプション』は、その優美な構成のために、何らの危うさも感じさせない映画になっている」と述べる★03。オアはこの映画において思想の欠如を見出したが、ロバート・サミュエルズは、政治的な観点からこの映画を批判している。彼は、この映画を、幻想と現実の区別が次第に困難になってきている私たちの無能力の徴候として見ている。彼が述べるように、「『インセプション』によって、私たちは夢のなか──夢のなかの夢のなかのそのまた夢のなか──にいるのだと知らされる。その結果、映画を見終わるまでに、私たちは現実にいるのか未だ夢のなかにいるのか区別がつかなくなるという感覚に捉えられる。しかし、おそらくこれが現代の世界を見る正しい見方なのだろう★04」。サミュエルズによれば、ノーランの映画は現代の文化の作用を神秘化しているだけである。現代の文化は、私たちをメディア漬けにしてさまざまな考えを吹き込み、私たち自身の考えなのか、それとも資本主義文化の命令なのかを私たちが見分けられなくしているのである。

オアもサミュエルズも、『インセプション』を、ハリウッド映画特有の失敗の徴候として見ている。オアは、継ぎ目のないブロックバスターを製作する要請によって、ノーランの(より洞察に満ちた)初期の低予算の映画に見られた「乱雑さ」が完全に消えてしまったと主張している。サミュエルズは、ブロックバスターとしての映画の地位が、それを広範な文化的傾向の一徴候にすぎないものにしてしまったと主張している。もし『インセプション』に何らかの思想が存在するとしても、それらは、技術的な効果や大規模な製作の脇に追いやられてしまっている。脚本や演出に非があるというよりも、映画を失敗に導いているのは、映画のとてつもない規模なのである。しかし、それでもなお『インセプション』は、ノーランの前回のブロックバスターである『ダークナイト』とは似て非なるものである。

大規模予算の映画であり、また夏のブロックバスターとしての明確な地位を持ちながら、『インセプション』は、『ダークナイト』よりも、低予算の映画『メメント』にずっと近いのである。『メメント』や『フォロウィング』(1998年)におけるような時間のねじれは見られないとしても、『インセプション』は、ノーランの初期の映画の構造に回帰している★05 。ノーランの大規模予算の映画──『ダークナイト』と『バットマン ビギンズ』(2005年)──の鍵となる特徴の一つは、主人公に付与された信頼性である。『ダークナイト』で、バットマン(クリスチャン・ベール)が──彼のおこなう活動が純粋に例外的行為であり続けることを示唆するために──最後に犯罪者の見せかけを採用するとしても、観客が彼への信頼を失うことはいささかもない。観客は、バットマンが本当は犯罪者ではないことを知りつつ映画を見る。映画は、観客を騙すことなく、噓を描く。同様のプロセスは『バットマン ビギンズ』においても見られる。ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)は、バットマンとしての本当のアイデンティティを隠すために億万長者のプレイボーイの役を演じる。対照的に、『フォロウィング』や『メメント』といったノーランの比較的低予算の映画では、映画の物語世界の現実のなかで虚偽が果たす役割を描くことに加えて、観客自身が騙されることになる。この意味で、ノーランが『インセプション』のアイデアを、『バットマン ビギンズ』や『ダークナイト』を製作する以前から持っていたという事実は啓示的である。『インセプション』は、大規模予算の映画にもかかわらず、これらの二作の映画よりも、『メメント』により近い作品なのである★06

『メメント』のように、『インセプション』は、主役のドム・コブ(レオナルド・ディカプリオ)を最重要視し、私たちに彼を信頼するように促す。『メメント』の結末では、観客は、レナード(ガイ・ピアース)が、妻を殺した犯人を追い続けるために、意図的に自分自身を騙すのを知る。これは、これまで映画が見せてきたものは、(映画が観客に信じ込ませてきたように)妻の死をめぐる真実の探求の結果であるというよりも、レナードの自己欺瞞への欲望が生み出した結果であるということを暗示している。レナードの自己欺瞞は、同時に、ノーランが観客を騙す方法でもある。ノーランは、レナードを(うわべは)知識の探求をおこなう登場人物として設定し、のちに、彼の探求が不誠実なものであったことを明らかにするのである。『インセプション』のコブの場合は、これほど明確ではないが、『メメント』と同様の手続きで映画は進行する。コブの行動の指針は、殺された妻の復讐を成し遂げることではなく、妻──モル(マリオン・コティヤール)──の死に対する自らの嫌疑を晴らし、子どもたちに再び会うために母国に帰還することである。本当の生活を再び取り戻すために、コブは、夢の世界に入らなければならない。

コブは、企業の経営幹部の夢に侵入し、秘密を盗み出す産業スパイとして活動している。サイトー(渡辺謙)から秘密を盗み出そうとしたのち、コブは、窃盗集団──アーサー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)、イームス(トム・ハーディ)、ユスフ(ディリープ・ラオ)、そしてアリアドネ(エレン・ペイジ)──を組織し、ロバート・フィッシャー(キリアン・マーフィー)の無意識に侵入して、彼の心のなかに、ある考え──彼が父親モーリス(ピート・ポスルスウェイト)の死によって相続した数十億ドル規模の巨大企業を解体するという考え──を植えつけようとする。

典型的な窃盗映画のように、チームのメンバーは、それぞれが特殊な役割を担う。アーサーは夢の世界からのメンバーの帰還を扱う。イームスは計画をサポートし、武器を提供する。ユスフは彼らを夢の状態にいざなう薬理学者である。アリアドネは建築家の卵で、彼らが入っていくさまざまな夢の情景を設計する。コブと彼のチームはサイトーからの要請によってインセプションをおこなうが、サイトーも彼らに同行して夢の世界に入る。サイトーは、コブに、金を支払うだけでなく、インセプションが成功したあかつきには彼の犯罪歴を抹消すると約束する★07

映画は、コブをスパイとして描いているが、彼の犯罪行為は、『メメント』のレナードのように、正当な理由──映画の結末で描かれる子どもたちとの再会──のためにおこなわれているように見える。『メメント』が、レナードの自分自身への噓によって締めくくられる──それによって、結末まで映画を支配してきた彼の探求の虚偽性が明らかになる──ように、『インセプション』の終わり近くで、コブはアリアドネに、自分には妻の死に対して幾らかの責任があり、自殺する際、彼を殺人犯に仕立てようとした妻の試みに関して、自分は無実の被害者ではないと告白する。

『メメント』は、観客に、解決すべき主要な問題は、レナードの妻を殺害した人物の身元を明らかにすることだと信じ込ませる。物語は、この問題を中心に構成されているように見え、その解決に向かって進行しているように見える。欲望する主体が、知る主体として現れることが、『メメント』の虚偽の中心である。『インセプション』は、夢の世界と現実の区別(その重要性)を強調する見せかけによって、観客を惑わせる。しかし、映画の本当の焦点は、主体とトラウマとの関係性──しばしば夢によって促進されるが、現実によって避けることができる関係性──にある。『インセプション』が示すように、本当の逃避は、モルが夢の世界のなかに逃げ込む(コブはそこから彼女を救おうとする)ことではなく、現実に戻ることによって(彼が夢の世界で見つける)トラウマから逃れようとするコブ自身の試みなのである。『インセプション』は、トラウマとフィクション(夢)──そしてトラウマからの逃避と現実──とを結びつけることによって、ノーランの映画製作の新たな一歩を記している。

『インセプション』のなかに真実が存在するとしても、それを見つけることができるのは、現実世界においてではなく、夢の世界においてである。すべてのノーラン作品と同様、『インセプション』は、フィクション──ここでは夢──こそが(真実への障壁ではなく)真実へと至る道であることを明らかにしている。夢とは切り離された領域として現実世界の重要性を強調することは、映画の最も重要な虚偽であり、観客は、この虚偽を越えて、映画が夢の世界を最重要視していることを理解しなければならない。ノーランは、夢から覚めることが、真実の発見ではなく、真実からの逃避となることを示している★08

★01──ノーランのインタビュー記事を参照。Dave Itzkoff, “A Man and His Dream: Christopher Nolan and Inception,” New York Times, June 30, 2010.

★02──ibidからの引用。

★03──Christopher Orr, “Inception: Summer’s Best, Most Disappointing Blockbuster,” The Atlantic, July 15, 2010, http://www.theatlantic.com/culture/archive/2010/07/inception-summers-best-mostdisappointing-blockbuster/59855/.

★04──Robert Samuels, “Inception as Deception: A Future Look at Our Everyday Reality,” Hufngton Post, July, 26, 2010.

★05──『インセプション』における唯一の時間のねじれは冒頭の場面で起こる。映画は、サイトーを探すために〈虚無(limbo)〉と呼ばれる夢の最下層で砂浜に横たわるコブから始まる。映画の時系列では、この場面は実際は映画の終わり近くの場面であり、その場面では冒頭の場面がほぼショットごとに繰り返される。

★06──大規模予算のスーパーヒーロー映画における噓は内容のレベルで起こるが、ノーランの他の映画では、噓は形式のレベルでも起こる。この区別は厳密なものではないが、おおよそ当てはまっており、それが、『フォロウィング』や『メメント』といった作品と比べた際の『バットマン ビギンズ』と『ダークナイト』の弱点の一つの証となっている。『インセプション』の場合、虚偽はあきらかに形式的なものであり、それによってノーランのバットマン映画とは(予算規模が類似しているにもかかわらず)差別化される。

★07──「観光客」として同行することに関してコブと彼のチームからの抵抗があるにもかかわらず、サイトーは、彼らと一緒に夢の世界に入ることにこだわる。サイトーという登場人物を通じてノーランは夢のなかの観客を描いている。彼は、ノーランの映画の理想的な観客のモデルとなる。夢のなかの銃撃戦でサイトーは撃たれ、そのことによって、彼は窃盗のプロットに積極的に参加しながら、それを邪魔する存在にもなっている。ノーランの考える理想の観客は、映画のフィクションに没入しながらも、フィクションの成功を妨げる障害にならなければならない。この障害が、フィクションのなかで見出される真実である。(この点に関しては、オッターベイン大学のダニエル・チョウの教示による。)

★ 08── このことは、映画のある場面で直接言明される。コブのチームがミッションに誘うためにユスフのもとを訪れたとき、ユスフは彼らを店の地下に連れて行く。そこでは多くの人が眠っており、イームスはユスフに「毎日眠るためにここに来ているのか」と尋ねる。見守り役の老人が彼に答えて言う。「いいや。目覚めに来てる。彼らにとっては夢が現実だ。あんたは違うのかね?」。このリアリズム(イームスの質問に示された考え)に対する批判は、映画全体を通じて維持されている。

(続きは、ぜひ本編でお楽しみ下さい)
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クリストファー・ノーランの嘘

思想で読む映画論

トッド・マガウアン=著
井原慶一郎=訳
発売日 : 2017年5月25日
3,200円+税
四六判・上製 | 520頁 | 978-4-8459-1622-1
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