世界最古の国際競売会社サザビーズでディレクターを務めるフィリップ・フックが、長年の経験をもとに作品の様式からオークションの裏側まで、美術に関するさまざまなトピックを解説した『サザビーズで朝食を 競売人が明かす美とお金の物語』。
ここでは本書の「はじめに」全文を公開いたします。
「ときに滑稽で、ときに暴露的で、またときに刺激的で、さらには素晴らしくもあれば不条理」な美術の世界。
その裏側に潜む「美」と「お金」についての物語をぜひお楽しみください。
はじめに
人が美術館や展覧会場で美術作品の前に立ったとき、自らに問いかける最初の二つの質問はだいたい決まっている。一つ目は「この作品を好きだろうか?」であり、二つ目は「作者は誰だろう?」だ。オークションの競売室や画廊で作品の前に立ったときにも、まずはこの同じ二つの問いかけをするだろう。だが、次には別の問いが続くことになる。それもいくらか高尚さに欠ける問いだ。たとえば「いくらだろう?」とか、「あと五年か十年たつと、どのぐらいの価値になるだろう?」、さらには「うちの壁にかかっているのを見たら、みんなは私のことをどう思うだろう?」といった問いである。
本書は、こうした問いに対する答えにどう到達できるか、そしてまた美術品の資産的な価値が、どのようなプロセスでもたらされるのかを紹介する手引き書だ。私自身は、美術市場で三十五年以上にわたって仕事をしてきた。最初はオークションハウスのクリスティーズで、次に画商として働き、そして近年は再びオークションハウスのサザビーズに勤務している。この職歴が、私が美術界に関するこの本を執筆したことの言い訳になるだろう。これは、アートとお金をめぐる後ろめたい、だがなおも魅惑的な関係について、扇情的なディテールにまで立ち入って探索する本なのだ。本書は五つのパートに分かれており、そのそれぞれのセクションで、美術品に対して買い手が最終的に支払う金額を決める際の決め手となる要因を、異なる視点から分析している。執筆にあたっては、アートと美術界のそうしたさまざまな様相をきわめて主観的に、そして恥知らずと謗そしられるほど勝手気ままに巡って見ていくかたちをとった。なにしろ私にとってこの美術界とは、もう何十年にもわたって、ときに滑稽で、ときに暴露的で、またときに刺激的で、さらには素晴らしくもあれば不条理でもあるような、さまざまな印象を与えてくれた世界であるからだ。
パート1の「アーティストと彼らの秘密」では、アーティストとその背景にある物語を考察する。つまり「作者は誰だろう?」ということだ。作者が誰であるかということ、そしてそのアーティストの重要性が美術史の体系においてどう認められているかという点は、買い手の決断と、その人が一枚の絵画に支払う価格に対して当然の影響を与える要因だ。ただ、そこには「アーティストの生涯」という背後にある物語も存在しており、その物語がアーティストに対する、そして彼らが生み出した作品に対する私たちの評価に影響を及ぼしている。つまり芸術的な創造に関わる魅惑的な神話からなるロマンティックな物語が存在するわけだが、その物語は、美術史的な重要性からはまったく離れたところにある。そう、たとえばフィンセント・ファン・ゴッホ本人と、表現主義の創始者としての彼の重要性とはまったく別の次元に、彼の人生の悲劇的な物語が存在しており、それがコレクターにとっては感情的にも資産的にも、ファン・ゴッホの価値を高めているのである。
パート2では、作品について、どのような「主題と様式」に需要があるのかを見ていく。「この作品が好きだろうか?」という問いへの答えは、むろんその人自身の個人的な好みに影響されるが、同時により広い世界の芸術的嗜好によっても影響されるし、またその嗜好は常に変遷をとげている。時代が異なれば、人々は芸術にも異なるものを求める。そのため、画家が描いた作品自体も、またその描き方も、次世代の人々が好ましいと思うか否かは異なってくるし、また資産としての価値も変わりうる。だが、そうした変遷のなかにあっても、ある特定の主題や様式をもった作品は、他に比べると売りやすいことがわかっている。そしてそこにはまた、理にかなった一貫性も存在する。このセクションでは、その点に影響のある要因を分析し、二十一世紀初頭の現時点で現れている芸術的嗜好を見ていこう。前もって断っておくが、何が売れるか、何が売れないかを決めるのは、ときとして微妙な問題ではあるが、それでも概して驚くほど単純であることのほうが多い。
パート3の「ウォール・パワー」は、私たちがなぜその壁にかけられた一枚の絵を気に入るのかについて、より詳細に探るものだ。人に所有したいと思わせるようなインパクトを与えるものは何なのだろうか(そして、私たちが実際に自由にできる額よりも相当に高い値段で売れてしまうほど、大勢の称讃者たちを魅了するものは何なのだろうか)? もちろん、ずば抜けて優れた芸術としての質は、その美術品が獲得する価格に常にポジティヴに反映される要素だ。そして、作品の質に注目してグラフをつくってみると、その樹形図の頂点周辺では、「きわめて良い作品」と頂点をなす「最上級の傑作」との間に生じる価格的な差異が驚くほど大きくなっている。このギャップは、奇妙なことながら、美術市場が正当に機能していることを立証してくれているように私には思える。この点で、市場は正しく価値を把握している。市場はまさに最高の作品を正しくそれと認識しているし、それを他の作品と別扱いにすることにきわめて徹底しているのである。
だが、美術市場はどのようにしてそのように機能できているのだろうか? 芸術作品としての質は、明確にするのが難しいという点では悪名高い。ここでは、その判断に寄与するいくつかの要因を考察している。作品の色彩、構成、仕上げ、感情に及ぼすインパクト、自然との関係、そして他の美術作品との関係である。これとは逆に、私たちはどのような観点から、ある絵画に疑いをもつのだろうか? そしてその疑いは価格に対して、どのようにネガティヴな影響を及ぼすことになるのだろうか? 未完成であるとか、暗すぎるとか、ひどく修復されているとか、それとも何か不快なものが描かれているといったことだろうか? あるいは恐怖のなかでも最大の恐怖、「贋作」ということもありうるだろうか?
アーティストの背後にある物語が、そのアーティストと作品に対する私たちの感じ方に影響を与えるのと同じように、その美術品自体がこれまでたどってきた物語にも影響力がある。その作品が誰のコレクションにあったか、どこで展示されてきたか、どんな画商が扱ってきたか。パート4では、作品が誰の手を渡って現在に至っているのか、その「来歴」に関わる問題を見ていく。購入しようとしている作品が優れた個人コレクションから出たものであれば、価格は高くなる。なぜなら、以前にきわめて著名なコレクターによって所有されていたなら、作品の質の高さがお墨付きになるからだ。たとえばアメリカ屈指の大富豪で、ワシントン・ナショナル・ギャラリーのコレクションの礎を築いたメロン家のコレクションにあったポール・セザンヌの絵画は、同じ絵が無名の個人コレクションにあった場合よりも価値が高くなる。同様に、事情通の人々にとっては、作品の来歴にある特定の名前があれば、心中にとたんに警報が鳴り響く。それはたとえばこれまでの調査の結果、第二次世界大戦中に略奪された美術品を取引していたと特定されている画商たちの名前といったものだ。その絵画がユダヤ人のコレクターから盗まれたものではないと証明できない限り、こうした画商が扱った作品の価値はひどく減じられることになるだろう。それどころか、まったく売れないこともあるかもしれない。そして、作品のかつての所有者一覧に、ナチスの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの名前があれば、たとえ彼が合法的に入手していたとしても、それが良い兆しになることは決してないのだ。
作品は、どのように価値をもつのだろうか? 美術品は評価され、そして絶えず変遷する市場環境のなかで持ち主を変えていく。その環境は、さまざまな要素からなる広大な領域が生み出すものだ。そこには、経済的、政治的、文化的、感情的、心理的な要素がある。そして画商たちやオークションハウスの市場戦略によって、コレクターや批評家たちの気まぐれによって、また人々が美術館やテレビで目にしたものによって、さらにはそうした人々がそれぞれに抱いている個人的な欲望によって影響される。本書の最後のセクション、パート5の「市場模様」では、美術界内の嵐や好天といった空模様に影響を及ぼすさまざまな要因を検討する。
美術品に資産的な価値を付与することは、もちろんまったく議論の余地のない行為というわけではない。だが、美術品取引は概して、必要とされている役割をはたしているものであるし、他のかなりの数の上品ぶった商業機関と比べれば、悪くない働きをしていると私は思う。それにこの仕事が、私自身に面白い人生をもたらしてくれたのは確かだ。これまで私は、数多くの素晴らしい美術品に近しく接してきた(もちろん、それほど良くない作品にも多数出会ったが、それもまた有益だった)。そして、驚くべき(しかも驚くほど裕福な)人々にも出会ってきた。本書は、私がそうした作品と人々から学んできたことのアンソロジーである。そして、サザビーズで二十年にわたって幸せに仕事をしてきた私としてはもちろん、ここで私が引き出した結論は私個人のものであり、私を長らく雇ってくれてきた辛抱強い雇い主たちの見解では必ずしもないということを指摘しておかなければならないだろう。
(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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