ヴォネガットについての回顧であり、創作技法への言及を整理したものであり、伝記的要素も含む。手紙やタイプ原稿の写真などの資料も多い。
ヴォネガットの著作や経歴をある程度知っている人が手に取ると、家に帰ってきたような安心感を抱けるはずだ。
ジョーク好きで、人を楽しませる労を惜しまず、気難しいところはあるが、すましたところのない人物。時代の制約から完全に自由とはいかなかったが、公正で気のいいおじさんとして親しみやすい。
創作に対する励ましもよい。
本書の各所に引用されるヴォネガットの助言を読むうちに、自分にも小説が書けるという気持ちになってくる。それはとても苦しいものであることをヴォネガットが強調してもだ。何度も書き直し、声に出して読み、読者の負担を最低限にするべきことを繰り返し言う。でもしかし、その人にしか語りえないことというものがあるのだ。
何かを伝えることに対する熱意は必須だ。創作の原動力にはつまるところそれしかない。
読み手はこの、ヴォネガット(創作科の教師をしていた時期がある)のかつての教え子が生き生きと描き出していくヴォネガット像にきっと魅了されるだろう。
創作を「志す」場合にはその読み方が間違いない。創作を「している」場合には、そのヴォネガット像に対して「違う」と唱え続ける必要がきっとある。
どんなインタビューでも、配偶者の見解でも、古くからの友人の証言であっても、あなたの人物像が正しく言い表されることはない。それは広く受け入れられることの可能なイメージのどれかを反復したものであり、あなたの真の姿からはかけ離れている。
自分で描いた自分の像であってもそれは同じだ。「真のありかた」の書き方を教えることは誰にもできず、そもそも書き方というものはなく、なによりもそれは書きうる代物でさえない。
小説の書き方を知っているなら、当人がその方法で書いたはずだ。普遍的な法則はなく、そこにはただ、人と人との関係だけがある。誰かに効いた魔法の呪文が他の人に効くとは限らない。効く方が余程どうかしている。
様々な人の描くヴォネガットの印象は、特に彼の言葉を引用しながら語る場合は、どれもひどく似通ったものになっていく。その印象は心地よい。ヴォネガットの言葉の操作能力によってそうなっている。
もしもあなたがこの本を読んで小説を書こうとしているのなら、まずなによりも実際に書かなければならない。書く前のあなたと書いたあとのあなたは別のあなたなのだ。
そのあなたは、本書を読んで「違う」と言うことになる。カート、それは違う、ときっと言う。そうして以前よりさらに強い親近感を抱くことになっている。