ベトナムから難民としてアメリカに渡ったティー・ブイが、2002年に制作した自身の家族のオーラル・ヒストリーをもとに綴った『私たちにできたこと 難民になったベトナムの少女とその家族の物語』は、5世代にわたるベトナム人家族の歩みを描いたノンフィクション・グラフィックノベルです。
第二次世界大戦や第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争といった大きな歴史の中で、難民になりながらも必死に生き抜こうとする小さな家族の姿を、独特な絵や色彩、個性的なコマ割り、練られたモノローグによって描き出した本作は、本国のアメリカで非常に高い評価を受けています。
今回は、神田外語大学アジア言語学科ベトナム語専攻の教授を務める岩井美佐紀さんによる本書解説を全文公開いたします。
ひとつのベトナム、ひとつの家族
国土が分断され、連綿と内戦状態が続いてきた境遇の中で繰り返されてきたであろう家族の別れと再結合(reunion)はベトナム人にとって永遠のテーマである。どこにいても、いつでも、世代を超えて、ふと自分がベトナム人であるという自覚が生まれ、その「戦争の記憶」を共有する想像の共同体を創り出す。この物語の主人公であるティーの家族の歴史にも、とても明瞭に「戦争の記憶」が刻み込まれている。いわゆるボートピープルとしてアメリカに渡ったベトナム系アメリカ人の人口は約150万人で、在外ベトナム人400万人の大多数を占めている。彼らの呼称や扱いも、常に本国ベトナムの対外政策に即して変わってきている。画期となったのは、1986年12月のベトナム共産党大会で提起されたドイモイ政策である。祖国を棄てたボートピープルのイメージが反共的「越僑」から「同胞」へと、その枠組みを大きく変えたのである。
実は、私自身、ドイモイ直前の1985年にベトナムとアメリカを訪れたことがある。ピースボートでホーチミン市(旧サイゴン)を訪れ、停電が頻発し漆黒の闇に包まれた街を散策した。同市で出会った人びとは「こんな生活もう、うんざり」という不満と虚無感に満ちた目をしていた。その後、オプショナルツアーで首都ハノイに飛んだが、街全体がセピア色に染まり、白、黒、茶色の普段着をまとった人びとと共に、妙な統一感があった。長らく統制経済を経験してきたハノイの人びとは淡々と日常生活を送っていた印象がある。ほんの数日間の滞在中、ベトナムでデノミが行われ、ベトナムの通貨ドンの切り下げが起こったが、絶対闇レートで両替しないようにときつく関係者に言われた。そして、その年の年末、私はアメリカのカリフォルニア州オレンジカウンティのベトナム人コミュニティを訪れた。店のドア鍵をリモートで店内から開錠するほど治安が悪い地区で印象的だったのは、店主が私に向けた眼差しがサイゴンで経験した視線とだぶったことである。私を案内した白人のホストマザーが近くのベトナムレストランでフォーを食べながら「この道はよく車で通るけど、立ち寄ったのは初めてよ。ほら、みて! 衛生的に問題あるわね。保健局に通報しておかなきゃ」と眉間に皺寄せて囁いたのを鮮明に覚えている。
おそらく在外ベトナム人のアイデンティティは多様であり、決して一枚岩ではない。移民の国アメリカで育ち、市民権も得て、すでに自分はアメリカ人と思い込んでいても、ふと「あなたはアメリカ人ではない」と言われ疎外感を覚えた時、初めて「では、私は誰?」という疑問が生まれ、見知らぬ故郷に興味を持ち始めるのではないだろうか。
この物語も、そのようなある在米ベトナム人家族の5世代に渡る記憶を辿る長い旅である。時系列で構成されておらず、映画のシーンのように時空がよく切り替わるために、特にベトナムの地理に詳しくなければ、物語がすっと頭の中に入ってくる読者はあまり多くないのではないだろうか。しかし、ジグソーパズルの細かいピースを繋ぎ合わせていくように、多少忍耐しながらこの物語をじっくり味わうことをお勧めする。著者のティー・ブイは1975年サイゴン生まれで、難民の両親をもつベトナム系アメリカ人である。本書は、彼女がニューヨーク大学大学院で家族のオーラル・ヒストリーを作成した作品がベースになっている。
本書は主に3つの家族の物語で構成されている。まず、ひとつは父親ナムの家族の物語で、次に、母親ハンの家族の物語、そして最後に、ふたりが出会い、結婚してから始まる新しい家族の物語である。全体を通して大きなモチーフとなっているのは、何といっても父親ナムの居場所のない孤独感と祖国ベトナムに対する複雑な思いであろう。それもそのはずである。というのも、ナム以外の家族は、妻のハンでさえも彼の故郷である北ベトナムの農村を全く知らないのだから。ナムは、第一次インドシナ戦争の終結を決めた1954年のジュネーヴ協定締結後から1955年5月までの間に北緯17度線に引かれた軍事境界線を越えて北ベトナムから南ベトナムへ移住した約100万人のうちのひとりである。その2年後の全土統一を目指す選挙の実施は反故にされ、南北分断は1975年4月30日のベトナム戦争終結まで固定化された。
まず、父親ナムのブイ家の家族史についてみてみよう。ナムの生い立ちは複雑である。彼の生まれは、ハイフォン市近郊のロイドンという村である。ここに描かれるナムの家族史は、主にふたつの要因で構成されている。ひとつは、1955年3月にナムが祖父と共にハイフォン港からハロン湾を経由して「口を開けた船(tàu há mồm)」と呼ばれる大型軍用船舶で「1954年大移動」(英語では「自由への道作戦」)を果たしたことである。当時、ハイフォン港は北部で唯一の大規模な設備が整っていた軍港であった。南シナ海の外海は波が荒く、海岸沿いに居住していても容易くボートを漕いで航海することはできず、全てハイフォン港まで辿り着かなければならなかった。ナムはベトナム統一後に木造の平底船に乗ってボートピープルとして再び祖国を離れる。「森には馴染まず、海には冷淡(xa rừng nhạt biển)」という成句に表れているように、北部の平野(紅河デルタ)で自給的稲作を営む農民にとって海は危険に満ちた非日常の世界である。ナムの人生の転機は、常に外海を越えて未知の世界に漕ぎ出す大冒険によってもたらされてきたという点も、極めて印象的である。
もうひとつの軸は、家族で唯一革命に身を投じたナムの父親との3回に及ぶ再会である。ナムの父カーイは一家と離れて抗仏レジスタンスに参加した人物である。ナムの家族内でも地主(フランス側)につく祖父と革命側につく父親の関係が分裂・対立していたことが描かれている。最初の父子の再会は、1945年に帰郷し、ベトミンの幹部として活動するために家族に別れを告げに来た時である。この直後の9月2日にホー・チ・ミンがハノイでベトナムの独立を宣言する。2度目の再会は1955年で、ナムが祖父とともに南部へ逃れる直前に、カーイに招かれ彼の新しい家族に会いに行った時である。最後は、1976年にホーチミン市と新しく命名されたサイゴンの自宅を共産党幹部となった父親が20年ぶりに訪ねてきた時である。昔、のけ者だった父カーイは新しい国家では勝者となり、祖父とナムは敗者となった。
次に、母親ハンの家族史をみてみよう。ハンは仏領インドシナ連邦のカンボジアの王都プノンペンに生まれ、大変裕福な家庭に育つ。彼女の父親は植民地政庁および南ベトナム政権下で土木技師として仕えたエリート中間層である。ハンは一貫して良家の子女が通うフランス式学校に学び、フランス語による近代教育を施された。彼女の両親は自宅で多くの使用人を雇い、ぜいたくな暮らしを満喫していた。ハンの家族は紛れもなく植民地支配の利権と恩恵を十分に受けてきた、いわゆる「買弁的な」ベトナム人であった。
一方で、ハンの父方の叔父は抗仏活動のかどで逮捕され、コンダオ島の刑務所に流刑されている。コンダオ島は植民地時代からベトナム戦争時代まで、フランスとアメリカの政治犯対象の刑務所が数多く建てられた。1973年ベトナム戦争終結を約したパリ和平協定の調印に参加したレー・ドゥック・トも10年間同地で過ごした。
ハン自身は学校以外でもフランス語でおしゃべりするベトナム人の級友の態度に違和感を覚えつつ、北部出身のナムの知性に魅力を感じてつきあい始める。それに対し、彼女の家族は彼を乞食扱いして結婚に猛反対する。ここに、南の人びとが北出身の移住者をどれほど軽蔑していたかが表れている。
最後に、ふたりの新しい家族の歴史をみてみよう。両親の運命の出会いは1962年、サイゴンにある師範大学であった。ハンは19歳でナムとクリスマスのダンスパーティで出会ってから数年後に結婚し、出産(最初の子どもは死産だった)しているから、子育てしながら学業を続けて教員免許を取得したことになる。私が驚いたのは、ハティエンでの教員生活を除いて、都市エリート家庭で育ったハンが夫の祖父母に「孫嫁」として献身的に仕えたことである。彼女は、保守的で伝統的家族観をもち、サイゴンでも故郷の生活様式を変えようとしなかったナムの祖父母と同居し、食事や身の回りの世話もしていた。
アメリカに渡ってからの家族については、子どもたちがアメリカの生活に適応していくのに対し、夫婦は嚙み合わずすれ違いが多くなり、20年近く別居中である。ベトナムでの学位や職歴も認められず、プライドが高く家にこもり、孤立感を深めていく夫をしり目に、妻は最低賃金で組み立て工場に勤めて家計を支えたのである。
在米ベトナム人家族の世代間の確執と和解というモチーフは、映画『ベトナムを懐う(Dạ CổHoài Lang)』(2017年製作)に描かれた3世代のベトナム難民家族にも通じる。私は2018年に新宿の映画館で開催されたベトナム映画祭で鑑賞した。同映画では、呼び寄せで後にアメリカ・ニューヨークに移住した祖父と孫娘の「嚙み合わない」世代間ギャップがコミカルに描かれる一方で、異郷の高齢者施設で孤独に暮らす在米ベトナム人の望郷の念が胸にしみる。孫娘に会うことが叶わず故郷メコンデルタで亡くなった祖母の命日を異郷で祭祀するというシーンが出てくるが、ベトナム文化の継承が難しい状況は、在外ベトナム人家族に共通する問題意識であろう。もうひとつ印象的だったのは、ボートピープルとしての船上および漂着した難民キャンプでの経験の凄まじさである。「故郷を捨てる」とはどういうことなのか、どのような分断や亀裂を家族内にもたらすのか、ということが突きつけられている。この2点については、本書ではあまり詳しく描かれていない。
本書の特徴のひとつを挙げるとすれば、アメリカ育ちの娘が家族、特に父親の人生の空白を取り戻すために向き合う過程がじっくりと描かれているということであろう。これは、アメリカでの生活に馴染めずひとり孤立した父ナムと、もう一度家族としての絆を取り戻したいという著者の動機による。そこから浮かび上がってくるのは、前述したように、ベトナムでのナムと父親カーイとの確執である。父子は3度再会しているが、決して心を許し合う関係ではなかった。渡米後ナムは一度も帰郷せず、最後までカーイを許さなかったように思う。これは、彼が今でも現ベトナム政権を嫌っていることと無縁ではない。
本書の最後にティーと両親の間に和解の時が訪れる。ティーは父親をbố(北部弁)と呼んでいた。ナムは幼少期から子どもたちにそのように呼ばせていたのであろう。一方、母親についてはあえて南部弁のmáで呼んだ。その理由は、「発音が重いmẹよりも軽いmáの方が明るくて好きだった」と語るところに表れている。確かに、声調言語であるベトナム語は、北部弁は6つの声調がはっきりと、南部弁はより丸みを帯びた柔和な音声となっている。サイゴンで生まれアメリカで育ったティーが母になった自分を「(北部弁のお母さん)」と呼称した時、彼女は母親の思いを受け止めることができたと語っている。思えば、彼女の両親はアメリカに渡ってから別居状態にあるものの決して離婚まで至っていない。つまり、お互い相いれないところはあるものの、決裂してしまうような脆い関係ではないのである。もしかしたら、近い将来、両親は再び歩み寄るかもしれない。いずれにしても、ティーが父親の生い立ちの空白を掘り起こし、家族の歴史に繋いだ時、ベトナムがイデオロギーを超えてひとつになったことを予感させる。
S字型の国土は決して分断できない、ベトナムの文化的な枠組みである。思えば、南北分断期、北は「ベトナム民主共和国」、南は「ベトナム共和国」と称したように、「ベトナム」は彼らの民族アイデンティティの拠り所であり続けた。「水を飲めば、その源を知る(Uống nước nhớnguồn)」ということわざがある。「いつも自分を慈しみ育ててくれた人びとに、そして自分が生まれた故郷に思いを馳せなさい。自身を賢く一人前の人間に成長させてくれたのだから」という意味である。本書で著者が描いたベトナムも、かつての「ベトナム共和国」ではなく、北ベトナムを含めたS字型の国土である。だとすれば、在外ベトナム人にとって「故郷」は北も南もない、ひとつのベトナムでしかない。先の映画の美しい挿入歌は、以下のフレーズで締め括られる。
遠くに行けば行くほど、私たちは故郷が恋しくなる
思いっきり遠くに行こう、いつか戻って来るために
故郷があるから、遠くに行ける
親が子どもの将来のために故郷のベトナムを離れアメリカに渡ったことは、子どもにしてやれる最善のことであったのであろう。そして、異郷で親が老境に達した時、子どもが親にしてやれる最善のことは、いつか彼らの魂を家族のルーツである故郷に戻してやることだったのではないだろうか。
本書に描かれるボートピープルの望郷の念は鮮やかにひとつのベトナムの姿を浮かび上がらせてくれた。ベトナムがひとつであるように、自分たち家族もひとつなのだと彼らは我々に訴えかけているような気がする。
(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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