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書評『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』小泉義之

2018年7月下旬に福尾匠さん著『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社)が刊行されました。本稿は、ドゥルーズについての著作を多数執筆されている小泉義之さんによる『眼がスクリーンになるとき』の書評です。

*()内の頁数は、『眼がスクリーンなるとき』本文の頁数を表します。

「ゼロ」から「ゼロ」へ

ジル・ドゥルーズ『シネマ』は、フェリックス・ガタリとの協働の時期を潜り抜けて、再び一人で書き出すようになる時期の始まりを告げる書物である。だから、『シネマ』は、一旦はそれまでのドゥルーズ(+ガタリ)を忘れて、「ゼロ」から読むべき書物である。その意味でも、本書の副題は正しい。

ところで、福尾匠は、「ゼロ」から読んで、今度は『シネマ』の内部に「ゼロ」を見出していく。「ゼロ」から「ゼロ」へ進むのである。福尾は、本書冒頭で、その内的な「ゼロ」地点のことを、蜘蛛にとっての光景に喩えている。「彼〔ドゥルーズ〕は蜘蛛であり、光と音がその蜘蛛の糸を震わせていたのだ。この蜘蛛にとって光と音は糸の振動それ自体であり、糸の振動がその外にある光と音を知らせるのではない」。さらに、喩えを引っぱって、こう書いている。「眼がスクリーンになるとき」(これは『記号と事件』から引かれた措辞である)、「映画の観客が蜘蛛になり、映画がもはやイメージの向こうにある何かを知らせるものではなくなる」。また、「眼がスクリーンになるとき」、「イメージがそれ以上でもそれ以下でもなく見たままで現れる」(6頁)。

知覚の哲学、知覚の諸科学から見るとき、この喩え話に対して事細かなコメントをあれこれと加えたくなるが、いまはその類のことは無視して、ともかくゼロ地点に棲息する蜘蛛にとってのゼロ次元の光景に思いをいたそう。そこでは、イメージが「見たままで」(福尾は、「リテラルに(文字通りに)」に対して、こうルビを振る)現れる。「コカ・コーラが入った缶はここに、私が見えるとおりに存在している」(28頁)が、そのように、ドゥルーズにとって、「映画」は「直接的なヴィジョンの対象」(47頁)である(ただし、「リテラルに」に対して、「聞いたままに」とルビが振られることはない。おそらくドゥルーズ=蜘蛛にとって映画的聴覚は映画的視覚の水準に達していないのである)。

すこし強引に言いかえておこう。「コカ・コーラが入った缶」にあっては、中身は見えないだけでなく、缶としての概念的把握も消し去られるからには、直接的に見られているのは、〈光(線)の塊〉である。蜘蛛は、映画的視覚で〈光の塊〉だけを見るように、そのように自然的知覚でも〈光の塊〉だけを見るのである。これがゼロ次元の光景である。

要するに、私は、ドゥルーズは、『シネマ』において、蜘蛛の純粋知覚、蜘蛛の純粋経験を、文字通りに映画的視覚に見出し、もって自然的知覚も文字通りにそのようであると捉え直しながら、その知覚論を介して途方もないところへ向かおうとしたと解しているのである。おそらく、福尾もその読み筋が可能であることは全否定しないであろうが、その途方もなさを文字通りに受け止めていないように思われるのである。この点には最後に立ち返るとして、その前に、福尾の本の最大の達成に触れておかなければならない。

運動イメージと時間イメージの関係

これは、『シネマ』を読む上で「もっとも重要な問題」(104頁)である。『シネマ』は運動イメージから時間イメージへと論じ進められているが、この順序は、「歴史的な要請」に従った「映画史的な推移」なのだろうか、あるいは、「概念的な必然性」に従った「論述の推移」なのだろうか。その順序は、「歴史的な推移」なのか、あるいは、「概念的な推移」なのか。

この点に関して、痛烈にドゥルーズを批判したのが、ジャック・ランシエールであった。『シネマ』を一読すればすぐに気づかれるように、ドゥルーズは、あたかも運動イメージから時間イメージへの推移が、第二次世界大戦によって区切られる戦前から戦後への推移に対応しているかのように書いている。その一方で、ドゥルーズは、『シネマ』は映画史ではなく、イメージを分類する博物学であると称しており、二つのイメージの分割は、時間的推移によるものではなく非時間的分類によるものであると称している。とするなら、別の関係がありうるにもかかわらず、ドゥルーズは、運動イメージから時間イメージへ推移する関係だけを取り上げ、しかも、その関係を歴史化しているだけである。それだけではない。運動イメージから時間イメージへの推移は、戦争の断絶だけにではなく、感覚‐運動図式の破綻にも、イメージ間の紐帯の消失にも恣意的に重ねられている。歴史的推移と概念的推移が混同されているのである。このような混乱は、ドゥルーズの作家論や作品論にも露呈している。例えば、ロベール・ブレッソンは、運動イメージの一種である情動イメージでも時間イメージでも参照されている。また、アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』『めまい』についてのドゥルーズの解釈は馬鹿げている。どう考えても、運動イメージと時間イメージは映画にあっては相互に反転したり浸透したりするはずであって、ドゥルーズの設定する推移や差異は恣意的な虚構にすぎない。

ランシエールによる批判は強烈であった。これに対して、例えば、ドーク・ザブニャンなどは、歴史の断絶、感覚‐運動図式の破綻、イメージ間の紐帯の消失を細かに腑分けして反論したりしているが、そもそもの問題はまったく片付いていない。以上が、この重要問題をめぐる先行研究の状況であった。

福尾による診断は、こうである。「つまるところ、問題の根源はドゥルーズの論述があられもなく映画史に沿ってしまっている、という点にあるだろう。だからこそ歴史の発展と概念的な推移が分かちがたく圧着してしまっているように見えるのだ」(116頁)。問題の根はドゥルーズにある。その準‐ヘーゲル的でも準‐マルクス的でもある歴史‐論理的な叙述にある。しかし、もう一歩、福尾は診断を進める。「この問いの答えを探る前に問いの正当性を疑ってみたほうがいいだろう」(105頁)とである。

零次性の光景

福尾によるなら、運動イメージと時間イメージの関係は、映画史的な発展の順序でも、論述の推移としての順序でもない。両者の関係を捉えるために考えるべきは、両者に共通する「発生の機序」なのである。それを摑み出すなら、歴史的な順序も博物学的な分類も、感覚‐運動図式の破綻もイメージ間の紐帯の消失も、それぞれが発生の分岐として捉え返されるだろう。イメージの発生論を摑み出せば、歴史的変化も論理的推移もそれとして把握できるだろう。そのとき、ドゥルーズの叙述の混同や混在さえもが明証的に理解できるだろう。

その観点から、福尾は、『シネマ2』第二章で「唐突に登場する」、「零次性」としての知覚イメージに着目する(118-119頁)。ドゥルーズは、こう書いていた。「知覚イメージは、運動イメージに応じておこなわれる演繹におけるゼロ度のようなものだ。パースの言う一次性の前に「零次性」があると言えるだろう」。それは、いわば「発生の機序」の始原なのである。福尾は、こう整理していく。この「ゼロ度」の知覚には、二つの極がある。一方は「運動と一致する知覚」であり、他方は「運動の間隔と一致する知覚」である。前者を「物の知覚」と、後者を「感覚‐運動的な知覚」と呼ぼう。ただし、前者は後者の存在の条件となるので、前者こそが、運動イメージの種別化以前の大文字の〈イメージ=運動〉の境位にある。この境位が、発生の機序のゼロ度の零次性なのである。いわばゼロ次元の光景である。

『シネマ』を読めば明らかだが、ドゥルーズの「物の知覚」は、ベルクソンの「純粋知覚」に対応している。ただし、福尾によるなら、両者の「ズレ」こそが重要である。純粋知覚にあっては、対象概念も主観性概念も失効している。ところで、ベルクソンにとって、そのような純粋知覚は「権利上」存在するものにすぎない。事実上は存在しないのである。われわれの知覚は、常に情動や記憶と混じり合うからである。ベルクソンにとって、純粋知覚では物質=イメージ=知覚なる一致が「権利上」成り立つものの、事実上は成り立つことがない。これに対し、ドゥルーズにとって、物の知覚では物質=イメージ=知覚=運動なる一致が、ベルクソンの一致等式に運動項を付加してもなお、映画的な「事実」として成り立つのである。映画においては事実上、物はイメージであり知覚であり、しかも運動である。それだけではない。ドゥルーズにとって、その物=イメージ=知覚=運動は、「普遍的=宇宙的変動」の一齣である。いまや純粋知覚は映画的知覚である。いや、映画的知覚こそが純粋知覚なのである。この「ズレ」が途方もないのだ。

加えて、物の知覚は、『シネマ1』では「気体状の知覚」や「分子状の知覚」とまで言われる。いまや知覚は、宇宙の端から端まで駆け抜ける「放縦さにいたる」(134頁)。それどころではない。ドゥルーズは、ジガ・ヴェルトフの「映画‐眼」と「間隔の理論」を引き継いで、ついには、運動=知覚と間隔=知覚という二つの極が識別不可能になるところまで至る。このようなゼロ次元の光景にまで至るなら、発生の機序はこう素描されるだろう。「これは物の知覚が、感覚‐運動的ではないべつのシステムへと引き継がれることもありうるということを含意するだろう。時間イメージとはまさにもうひとつの解答である。だからこそ、システムの発生的な機序のゼロ度として物の知覚は、運動イメージから時間イメージへという歴史的発展の順序および論述の推移の順序とは異なる、イメージのふたつの体制がそこから分化する基礎を指し示しているのだ」(138頁)。

見事な読解である。そこを認めた上で、私は、福尾が「放縦さ」を飼い馴らそうとする点に引っかかる。おそらく福尾は、映画的知覚が純粋知覚に相当することは「思弁的想定」(233頁)としては認めても、映画的知覚が自然的知覚に相当すること、逆に言うなら、自然的知覚は実は映画的知覚であることを「思弁的」にすら認めていないし認めたくないに違いない。その点に最後に触れておこう。

「否定性」の「回避」? 「生き延びるための根拠」?

福尾によるなら、「直接的な時間イメージ」の「手前」に、「イメージの領野」が存在する(158頁)。「手前」にあるのは、例えば、「純粋に光学的で音声的な状況」である。それは、物の知覚に相当するだろう。あるいは、物の知覚からの第一次的分岐に相当するだろう。その状況では、「内在と思考の致死的な関係」が生じる(ここは映画作品解釈も絡んでおり、私にはすこし理解し難い)。だから、ということで、福尾は、「この関係を生き延びるための根拠」を求める(235頁)。また、福尾は、物=イメージ=知覚=運動が宇宙的変動の一齣となることが、同時に、諸々のイメージが「千々に弾け飛ぶ」ような「際限なき断片化」(241頁)を招き寄せることになるとする(ここも、よく見られる論述の運びだが、私にはすこし理解し難い)。だから、ということで、福尾は、この「否定的な契機」を「回避」して「越えて」いくことを求める(238頁、288頁)

そのような観点から、福尾は、身体が「際限なき断片化」への「抵抗の拠点」になるとする。その身体とは、「疲労と待機」の身体、「絶望、怠惰」の身体である。そのような身体のゲストゥス(態度、姿勢)は、「生のカテゴリー」である。それを見させる「身体の映画」によって思考が強いられ、ひいては「思考と生の同一性を見出す」ことにもなる。つまり、「身体の映画」は、思考を生と一致させ、思考に生を再び信じさせて、否定性を回避するというのである。また、福尾は、「偽なるものの力能」が、可能的なものを与えることによって、内在の致死性を生き延びる根拠を与えてくれるという。例えば、「貧者」に「作り話」を語らせてみよ。彼/彼女は存分に「仮構作用」を駆使して、その放縦さにおいて、おのれを他者化することにもなろう。そのようにして「おのれの民衆を発明する」ことにもなろう。その民衆的な作り話こそが、内在化し致死的になる思考=生に対して、可能的なものを、生き延びるのに必須の息として吹き込むというのである。

福尾によるなら、『シネマ』は、「人間的経験」に還る道筋を消し去るほどに、「映画的経験」へ踏み込んだ(295頁)。そこにおけるゼロ度の零次性、物の知覚という境位、「リテラルなイメージの全面化」は、「破局的」である(287頁)。そうかもしれない。だから、福尾によるなら、「この破局はいかにして回避されうるのか」と問わなければならない。そうかもしれないが、それだけではなかろうと私は思っているのである。事は、ドゥルーズのベケット論の一節の読み方に関わってもいる。『シネマ』全体を総括するように思われる一節である。引用しておこう。

「ベケットのフィルムは、映画の三つの大きな基本イメージ、行動・知覚・感情の各イメージを横断した。しかし、ベケットにおいては、何も変わらず、何も死なない。〔……〕マーフィが言ったように、登場人物が死ぬとき、彼はすでに精神において動き始めている。彼は荒れ狂う海上の浮子と同じように振る舞う。彼はもはや動かないが、動くエレメントの中にいる。今度は、現在さえもが、もはや暗さを含まぬ空虚の中へ、もはや認識可能な変化を含まぬ生成の中へ消えてしまった。部屋はその隔壁を失った。そして、光り輝く空虚の中へ、非人称的で特異な原子を、他者と区別されたり混同されたりするための〈自己〉をもはや持たない原子を放つ。知覚しえぬものになることが、〈生〉である。「絶えず、無条件で」、宇宙的で霊的な騒めき(clapotement cosmique et spirituel)に到達することが、〈生〉である」(「最も偉大なるアイルランド映画――ベケットの『フィルム』」[初出1986年]『批評と臨床』河出文庫、62-63頁)。

このように書かれるようなドゥルーズの霊性こそが、『シネマ』の途方もない放縦さの向かうところであると私は思っている。それは、否定性を回避したり断片化を生き延びたりして到達するような境位であるとは私には思われない。もっと途方もない無条件の放縦さであり、途方もないトンデモであり、喩え話としてしか聞き届けられないような境地である。

福尾と私の差異は、『シネマ』のどこに強調点を置くかの違いにすぎないかもしれない。あるいは、これは真面目に言うのだが、年齢の違いに由来する読み方の違いであるかもしれない。いずれにせよ、優秀な若い書き手によって、おのれの精神のゲストゥスを思い知らされることは、ありがたいことである。

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