わたしたちは混血している。
サントリー学芸賞受賞の批評家が、文学、映像、フォークロア研究を交差させながら、太平洋の島嶼という視点で日本列島(ヤポネシア)に宿る文化の混淆性を掘り起こす、新たな民俗学。
サハリンから蝦夷、沖縄、台湾まで。
異なる文化の邂逅を追って。
批評、映像、民族学といった分野を越境しながら、さまざまな著作や翻訳を発表している映像作家・批評家の金子遊。
いまもっとも注目されている気鋭の書き手の最新著作にして重要論集がついに刊行。
小説家の島尾敏雄は、日本列島から南西諸島にかけての島々を「ヤポネシア」と呼び、日本国ではなく日本列島として捉えようとした。 そして、民俗学者の谷川健一は、この「ヤポネシア」全体に見られる文化や民俗を、朝鮮半島や大陸、そして台湾、フィリピン、インドシナやマレーなどの半島、インドネシアの島々との関係で考えようとした。
日本列島や南西諸島を構成する島々は、最初から「日本」であったわけではない。さまざまな種族が、さまざまな文化様式や時代性をもってまだら状に混在し、それぞれの地方における歴史は独自で異質な時間の系列を進んできた。
それが列島のヤポネシアという本来の姿であり、混淆的である日本列島人や「混血列島」のあるがままの姿なのである。
谷川健一の思想にみちびかれて、ヤポネシアとしての日本に、さまざまな異質性と重層性をはらんだ、あるがままの「混血列島」を再発見する画期的著作。
多系列で異質な時間を単系列の時間という一本の糸に撚り合わせていったのが「日本」であり、そのために支配層が腐心し、ときによっては、糊塗と偽造をもあえて辞さなかったのが「日本」の歴史である。したがって、撚り合わせた糸をもう一度撚りもどす作業、つまり「ヤポネシアの日本化」を「日本のヤポネシア化」へと還元していく努力が要請される。
まさに谷川健一の思想のひとつが、この「日本のヤポネシア化」であるといえよう。わたしたちが無批判にいだいてしまっている日本列島への歴史認識を、同質的で均等性をもつと幻想される「日本」から、それぞれが異質で不均等でたがいに混ざりあうような島々の連なりである「ヤポネシア」の歴史空間へとシフトしていくのだ。そんなことは本当に可能なのだろうか。たとえば、ヤポネシアをサハリン、千島列島、日本列島、小笠原諸島、マリアナ諸島、南西諸島、台湾などを含む、太平洋上の大きな島弧として見るとき、このヤポネシア世界が世界中のほかの地域と比べても、面積がせまい割には南北の長い緯度にわたって分布していることがわかる。
(本書「prologue 混血列島論」より抜粋)
【イベント情報】
本書の刊行を記念して書店でイベントを開催いたします。
詳細は こちら
日時:2018年6月17日(日) 19:00~21:00 (18:30開場)
場所 :本屋B&B 東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F
メディア掲載
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日刊ゲンダイDIGITAL
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「北海道新聞」6月3日(日)付 評者:山村基毅(ルポライター)
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「宮古毎日新聞」7月7日号 評者:伊良波盛男(詩人)
目次
prologue 混血列島論
Ⅰ 旧植民地をめぐる旅
対岸のアラベスク―マイケル・タウシグと樺太先住民
首を狩るひと―鳥居龍蔵の台湾フィールド写真
接木の王国―アカ族から新嘗祭へ
Ⅱ マイノリティの人類学
悪魔祓い―映像でよみがえるアイヌの呪術
草葺き小屋のイザベラ・バード」
砂川のインディアン―亀井文夫とデニス・バンクス
Ⅲ 海人のフォークロア
オホーツク 漁る人びと 土本典昭論
交雑する池間島 伊良波盛男の詩
竹富島の神司―神秘体験の聞き書き
Ⅳ ヤポネシアに谺する女声
花綵列島の独唱曲 島尾ミホ
大神島の媼亡ければ
戦時の人類学 ルース・ベネディクト
Epilogue 巫娼たちの渚 奄美大島
あとがき
プロフィール
[著]
金子遊(かねこ・ゆう)
批評家、映像作家、民族学研究。『映像の境域』(森話社)でサントリー学芸賞(文学・芸術部門)を受賞。他の著書に『辺境のフォークロア』(河出書房新社)、『異境の文学』(アーツアンドクラフツ)、『ドキュメンタリー映画術』(論創社)。
編著・共編に『フィルムメーカーズ』『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)、『クリス・マルケル』『アメリカン・アヴァンガルド・ムーヴィ』(森話社)、『国境を超える現代ヨーロッパ映画250』(河出書房新社)、『アピチャッポン・ウィーラセタクン』(フィルムアート社)、『映画で旅するイスラーム』(論創社)など。共訳にマイケル・タウシグ著『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(水声社)、ティム・インゴルド著『メイキング』(左右社)がある。