「わたしは、女でも男のようにキャリアを積むことができると思う……」
ミレヴァ・マリチ゠アインシュタインの生涯
1894年の秋―彼女は当時まだ18歳の若さだった―彼女はひとりぼっちでスイスに到着した。家族の誰かにつき添われることもなく長旅をしたようだが、それは当時の女性にはまだ滅多にみられないことだった。異国でたった一人で情報を集め、下宿を探し、勉学のための最善のコースを捜しもとめたのも、女性には珍しいことであった。
大学入学資格の取得ののち、彼女は1896年の夏学期からチューリヒのスイス連邦総合技術学校で数学と物理学を学び始めた。学校創立以来五人目、その学年ではただ一人の女性だった。
彼女の同級生にアルベルト・アインシュタインがおり、すぐに、熱心で才能のあるこの女子学生に関心をいだいたようであった。ミレヴァ・マリチの方でも、すぐれた音楽性と特異な振る舞いで目立っていたこの天才的なアウトサイダーを気に入った。ミレヴァ・マリチはアインシュタインの発想の豊かさに魅了され、アインシュタインが彼女を自分とはまったく別のタイプの人間として賛嘆していたように、彼女の方でも彼を対極として評価していたようである。彼らは一緒にあらゆるコースに参加し、教師から出されたさまざまな課題を二人で一緒に解いていった。しかし一方では自分たちのやりたいことも見つけだし、カリキュラムには含まれていないいろいろなテーマとも取り組んでいった。集中的な共同作業からは、間もなく深い感情に裏打ちされた関係が生まれてきたが、ミレヴァ・マリチはそのことに驚いた。それまで相変わらず、結婚についてのあらゆる考えをきっぱりと自分自身の内から閉め出していたのである。ある会話のなかで彼女はこう言っている。
「わたしがいつか結婚することになるかどうかわからない。わたしは、女でも男のようにキャリアを積むことができると思うの。」
結婚と子どもの誕生が、これまで歩んできた道から彼女をそれさせてしまうことになるかもしれないということを、彼女は鋭く洞察していた。女性としての伝統的な役割を受け入れることは、彼女には想像もつかなかったのである。アインシュタインの求愛を彼女は自意識に満ちた言葉ではねつけようと試みた。
「わたしは、自分が男性の同僚たちと同じくらいすぐれた物理学者だと思っているのです。」
その点ではアインシュタインもまったく同意見だったことは、ミレヴァ・マリチにあてた彼の手紙が示している。手紙のなかで彼は彼女を、当然のごとく同等のパートナーとしてあつかっているのである。より深い関係を結ぶことに抵抗していたミレヴァ・マリチが最終的に折れたのは、彼のこうした理解あふれる態度が原因だったのかもしれない。彼女は女性として、と同時に学者としてもアインシュタインに受け入れられた、と感じたのである。彼らの関係は切っても切れない親密な間柄になり、生涯をともにするという決断をそれ以上延期したり排除することはできなくなってきた。両親に結婚の決意を告げたとき、アインシュタインは激しい反対にあったが、そのことは恋人にあてた1900年7月の手紙からも見てとれる。
「ママはベッドに身を投げて、枕に顔を埋め、子どもみたいに泣きじゃくった。最初のショックから立ち直ると、彼女はすぐに絶望的な攻勢に出た。『あなたは自分の将来をだめにして、自分の進むべき道もふさいでしまうわよ』『そんな女はきちんとした家庭にはいることはできないわよ』『彼女に子どもができたらおおごとじゃないの』いくつもの感情の爆発に続くこの最後の爆発では、ついにぼくの堪忍袋の緒も切れてしまった。不道徳にもぼくたちが一緒に暮らしていたんじゃないのかという疑いを、ぼくはありったけのエネルギーで否定して、一生懸命に言い返した……。」
母親は、個人的にはまったく知らないミレヴァ・マリチに、とりわけ次の二つの理由から反対したのだった。彼女は年をとりすぎており、知的でありすぎるというのである。母親の目には、それはどちらも女性にとっての決定的な欠陥であった。母親はくりかえし息子を非難する。
「彼女はあなたと同じような本の虫だけど、あなたはちゃんとした女性を妻に持つべきなのよ。」
「あなたが三十歳になったら、彼女はお婆さんだわ。」
あなたはミレヴァと「ふしだらな」暮らしをしている、という母親の非難を1900年の夏には憤激してしりぞけたアインシュタインだったが、間もなく二人の関係は母親の予想を裏づける形で発展した。いまになって出版された交換書簡によって、これまで守られてきた秘密が明るみに出た。1901年にミレヴァ・マリチは妊娠し、1902年の初めに両親のもとで一人の女の子を産んだのである。アインシュタインの気持ちは喜びと心配のあいだをゆれた。経済的に不安定な状態と、ミレヴァ・マリチとの結びつきに対する相変らずの両親の反対のために、彼はミレヴァのために何もできなかったのである。誠実を誓う、愛に満ちた手紙以外には、何も恋人に与えることができなかった。ミレヴァ・マリチのおかれた立場は破滅的なものだった。彼女の両親はこうした状況のなかで、世間の目を恐れることなく、妊娠した娘を受けいれたのではあったが、ミレヴァはもう完全に、自分が計画した人生のレールからはずれてしまっていた。これほど才能のあるミレヴァ・マリチがなぜアインシュタインのように学位を取得して学業を終わらせることができなかったのか、というこれまでしばしば出されてきた問いには、月並みな答えが与えられることになる。月数の進んだ妊娠をまずは隠すために、彼女には、すでに準備を始めた卒業論文をいったん取り下げ、あれほど期待に満ちて入学した工業専門大学を、一枚の退学証明書を手に去って行くという可能性しか残されていなかったのである。
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