ためし読み

『21世紀のアニメーションがわかる本』

はじめに 2016年、日本。

2016年、日本。その分岐点

2016年の日本はアニメーションが盛り上がりを見せた年だった。『君の名は。』(新海誠、2016年)、『この世界の片隅に』(片渕須直、2016年)の2本のアニメーション長編は、普段からアニメーションを観る習慣のある者たちの話題をさらったのはもちろん、その範囲を遥かに超えて、「社会現象」化した。

『君の名は。』は、東京に暮らす男子高校生瀧、田舎町に暮らす女子高生三葉が眠りのなかで入れ替わるなか、それぞれの運命を変えようと苦闘する。時空を超えて紡がれる複雑な物語が、カタルシスをもたらす映像・音響空間のなかで展開される。個人制作からキャリアをスタートさせ、コミックス・ウェーブとの二人三脚で着実に活動の規模を上げてきた新海誠が東宝と組んだ初の作品で、当初の期待を大きく上回る興行収入250億円超の大ヒット。日本映画史上で歴代2位の興行成績を上げた。

『この世界の片隅に』は、こうの史代の同名漫画を原作とした長編アニメーション映画だ。広島から呉に嫁いだ少女すずの視線を通じて、太平洋戦争の時代における日常生活と、その脆さ・儚さが語られていく。前作『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)が口コミでファン層を増やしていった片渕須直が監督し、クラウドファンディングを用いてのパイロットフィルム制作から始まり、数多くのファンのサポートとともに成長していった作品だ。当初は小規模での公開だったが口コミで大きく評判が広がり、熱狂的な支持を集め、興行収入25億円超のヒットを記録。『君の名は。』と比べると一桁小さいが、SNSを中心とした盛り上がりや波及、熱気という点でいえば同レベルに近いものを記録したといえるだろう。

この2作品のようにアニメファン・コミュニティの外にまで広がるわけでなかったが、2016年は『聲の形』も印象深い作品だった。大今良時の同名漫画を原作に、聴覚障害者の硝子と、小学生の頃に彼女を虐めていた将太の高校生時代の恋愛模様を中心として、思春期の少年少女たちの繊細な人間関係を描く。制作は京都アニメーションで、『映画けいおん!』(2011年)や『たまこラブストーリー』(2014年)といった長編作品など、少女たちの青春と日常描写に定評のある山田尚子が監督、興行収入22億を超えるヒットを記録した。

本書はこのように豊作となった2016年の日本の劇場用長編アニメーションに注目する本である。なぜそのような本を書くのかといえば、2016年の日本アニメの盛り上がりは、何らかの新時代が始まりつつあることを予感させるからだ。日本だけの話ではない。これらの作品は、世界のアニメーション全体の文脈のなかで読み解くとき、21世紀にアニメーション表現全体が経験しつつあるひとつの大きな変化について、雄弁に語るように思われるのである。本書は、2016年の日本アニメを21世紀の世界のアニメーションの文脈から読み解くことで、アニメーション表現の分岐点について考える本である。

筆者の立場

筆者の専門は、日本アニメにあるわけではない。ロシアのアニメーション作家ユーリー・ノルシュテインの作品研究をスタート地点として、旧共産圏やカナダの国営スタジオで作られてきた非商業系のアニメーションや個人制作を中心に小規模~中規模の体制で作られるインディペンデント作品を取り上げる活動(執筆、イベント企画・運営、映画祭ディレクター、劇場用配給など)をしてきた。海外のアニメーション映画祭に足繁く通い、いま現在、世界のアニメーション・シーンで何が起きているのかを捉えようとしている。どちらかといえば、一般的な観点からすると見逃されがちなマイナーな領域に光を当てている。

もしかするとこの段階で、筆者のような立場の人間による本の書き出しが、日本の商業アニメに触れたものであることに疑問を持つ読者もいるかもしれない。とりわけ、古参のアニメーション・ファンであればあるほど。なぜならば伝統的に、映画祭シーンを中心とする海外アニメーションと商業作品とは互いに相容れぬもので、表現の文脈もファン層も語り方も語る人間も、きっぱりと分かれているように思われがちだからだ。実際筆者は2006年頃からアニメーションについての執筆を始めたが、2000年代、個人制作(短編作品、海外作品)と商業作品のあいだには、たしかに大きな溝があったと思う。筆者自身、その溝を作る言説を作る張本人だったかもしれない。

だが、2010年代、両者の境界がぼやけてきた。2013年頃から、個人制作、短編作品、海外作品を語るためのロジックが、日本の劇場用長編作品にも当てはまるように感じられてきたのだ。本書執筆の主な動機の一つは、その変化について、きちんと言葉にして共有する必要があると思ったからである。そうすることで、日本のみならず、そして海外のみならず、その両方を包括できるような、アニメーション全体について考えるための新しい視点を提供できるのではないか――本書のタイトルを『21世紀のアニメーションがわかる本』としたのも、そういった思いがあったからだ。区別なくすべてを見通す視点が、今ではありえるようになったことを示すために。

日本と海外のシンクロ

海外の事情も変わりつつある。

筆者は2008年からほぼ毎年、アヌシー国際アニメーション映画祭(フランス)に参加している。6月開催のアヌシーはアニメーションを専門とする映画祭としては世界最大かつ最古である。かつてはザグレブ(クロアチア)、オタワ(カナダ)、広島と並んで「4大アニメーション映画祭」と言われる時代もあったが、おそらく現状ではアヌシーが一強だ。

映画祭は本来、芸術性を評価するものとして始まった。第二次世界大戦が終わって冷戦がはじまり、東側諸国の国営スタジオでアニメーション制作が盛んになり、西側でもカナダ国立映画製作庁(NFB)が主導して個人作家たちのアニメーション制作が活発化する。国営スタジオの作品や個人作家の作品は、商業的な成功を収めることを念頭に置いていない。そんな彼らがマーケットとは別の評価軸を求めて作り上げたのが、アニメーション映画祭である。1960年、アヌシー国際アニメーション映画祭がスタートし、その後「4大」映画祭を中心に、アニメーション芸術のネットワークが国際的に出来上がっていく。

しかし、アヌシーが状況を変える。アヌシーが現在「一強」となったのは、映画祭が本来得意としてきた芸術性の評価だけではなく、商業的な貢献をすることをいち早く考え、実践したからである。アニメーション映画祭は当初短編だけをコンペティション対象としていたが、アヌシーは1985年に長編部門を設立。その翌年にはMIFAという名の国際見本市を併設し、作家コミュニティだけではなく、アニメーション産業の関係者にとっても重要な場として機能することを考えはじめた。1990年代以降、世界的にアニメーション産業の規模が拡大し、新たなビジネス・チャンスを求める需要が高まるなか、産業面におけるハブとなることも目指したアヌシーには、プロデューサーをはじめとする広い範囲の関係者が集まりはじめる。近年ではハリウッドの関係者もアヌシーの重要性を認識することになり、現在、アヌシーは世界中のアニメーション関係者が商業・非商業問わず参加する唯一の催しとして、国際的なシーンで仕事をするものにとって、この映画祭に参加しないのは「モグリ」といえてしまうほどの状況になっている。

現在のアヌシーでは、短編部門のコンペティションで芸術性・実験性・作家性の高い作品が取り上げられる傍ら、長編部門では世界中から注目作が集まり、ハリウッドや日本アニメの最新作がプロモーションとして特別上映され、さらにはMIFAでは商談が進められ、学生たちもスタジオのリクルート担当者に売り込みをかける……そんなように、アニメーションにまつわる全てが一堂に会するような場になっている。今、世界のアニメーション・シーンで起こりつつあることは、それに似ている。これまでのように商業/非商業できっかりと分けられることなく、互いに隣り合い、ファジーに連関しあう状況だ。

なかでも興味深いのは、筆者が専門としてきた個人ベースの小規模で作られるアニメーション作品と、商業ベースのアニメーション作品とのあいだに、不思議なパラレルやシンクロがみられるようになってきたことだ。世界全体の最新動向を捉える作業が、そのまま日本作品の動向を捉えることにつながるケースが増えてきたのだ。とりわけ、表現やテーマの面で。

それを最初にはっきりと意識したのは2013年だったろうか? スタジオ・ジブリが、『風立ちぬ』(宮﨑駿)そして『かぐや姫の物語』(高畑勲)という2本の長編を完成させた年である。日本アニメを代表する宮﨑駿と高畑勲という二人の巨匠から届いた(現時点での)最新作は、筆者が追ってきた同時代の世界のアニメーション・シーンの傾向と共鳴するように感じられた。詳しくは本文中で述べることになるが、『風立ちぬ』はアニメーション・ドキュメンタリーの動向に、『かぐや姫の物語』はヨーロッパを中心に広がる映画祭シーンで活躍する「アニメーション作家」たちの表現史の流れ(と終焉)に、容易に位置づけることができるものであるように思われた。そして、2016年が決定的だった。長年映画祭に通い詰めるなかで次第に感じつつあった世界的なアニメーションの変化が、『君の名は。』、『この世界の片隅に』、『聲の形』の三本に凝縮されているように思われたのだ。言ってみれば、個人作家の歴史の延長線上に、これらの作品が現れたかのような。

「個人的な」作品の拡張と変容

筆者の専門についてもう少し詳しく話してみよう。それによって、本書が何を語るのかをより明確にしておきたいと思う。

筆者の専門が個人作家の作品にあることはもう既に述べたとおりだ。個人作家のアニメーション作品の魅力がどこにあるのかといえば、その作家ならではの世界観が、偏ったままに表出されることである。

個人作家のアニメーションは、その小規模な制作体制とマーケットの不在(に伴う商業的要請のなさ)によって、作り手が自分の作りたい世界を比較的素直に描くことが許される分野である。その結果、作り手の感じ取る世界のあり方が濃密に反映される。「みんながどうかは知らないけれども、私にとって世界はこういうふうに見えている」――とでもいったように、その作り手の世界に対するフォーカスの当て方に応じて、自分自身が感じ取る小さな現実のありかたをすくい取るものが多いのだ。それは、ドローイングなど人工的にこしらえられたイメージを通じた表現なので、作家自身の偏りがそのままナチュラルに出てくる、「個人的な」リアリティの世界である 。

観客は、それらの作品を観るとき、作家という「私」が見た世界の内側に飛び込み、そこから世界を眺めるような経験をする。だが、その作品の世界観は人によっては奇妙に見えてしまい、多数の観客と共有することはなかなか難しい。見慣れない異質なリアリティや、一般的な視点からは見過ごされてしまう隠れた現実を取り上げたりもするので、入り込めない人が出てくるのだ。

一方、商業作品にとっては、なるべく多数の人に楽しんでもらうことが重要となってくる。そんななか、「リアル」であることが求められることはあまりなかった。むしろ、積極的に現実から遠ざかることにこそ価値が置かれてきた。こういった背景もあって、個人作家の作品と商業作品とは、伝統的に別物として捉えられてきた。

しかし、2010年代に入って、その対立軸が無効化されるような作品が多く見られるようになってきた。個人作家の作品が多数の熱狂的な支持者を獲得したり、商業作品が異質なリアリティを観客に突きつけつつも大ヒットを飛ばす例が増えてきた。

なによりも興味深いのは、かつては個人作家の専売特許だった「私」から見たパーソナルな世界を描くという方法論が、メインストリームの作品にも見られるようになったということだ。

2016年にヒットした3本は、とりわけその色が強く、主人公の内側に入り込み、そこから世界を体感させる。たとえば『君の名は。』は、瀧と三葉が、互いの内面に入り込みながら、糸守町を襲う災害から人々を(そして自分たちを)救おうとする。『この世界の片隅に』が描くのも、とても小さな範囲の現実だ。画面に映るものはすずが眺めうる世界に限られて、戦闘が実際に起こっている場所は遥か遠くである。群像劇である『聲の形』では、観客は登場人物それぞれが抱える傷や問題を彼らの内面に潜り込むことで体感しつつ、その繊細な心で、人間関係の戦いに巻きこまれていく。どの作品も、小さな主人公たちの視点を体験させるのだ。

一方で、このような共通点はありつつも、これらの作品がそれぞれ沈ませる「私」自体の性質は、それぞれに異なっている。その違いこそが、世界のアニメーションにおける「私」の表現の変容のフェーズを、それぞれ象徴するように思われるのである。本書がメインテーマとするのは、まさにこの「私」の変化である。かつてあんなにはっきりと分かれていた「私」と「世界」の境界線が消え、「私」の世界の輪郭がボヤけつつある――それは言ってみれば、「私」から「私たち」への変化である。


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21世紀のアニメーションがわかる本

土居伸彰=著
発売日 : 2017年9月25日
1,800円+税
四六判・並製 | 232頁 | 978-4-8459-1644-3
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