ためし読み

『P.C.L.映画の時代 ニッポン娯楽映画の源流 1932–1937』

P.C.L.映画の時代 1932〜1937年

昭和8(1933)年8月10日『音楽喜劇 ほろよひ人生』(木村荘十二)が公開された。駅でビールを売るビヤガール・千葉早智子が、音楽家・大川平八郎と恋に落ちる。クライマックスのビヤホールの場面では壮大なオペレッタとなる。それまでの日本映画とは一線を画したモダンなトーキー音楽喜劇である。

製作はトーキー専門スタジオとして前年に発足した寫眞しやしん化学研究所(Photo Chemical Laboratory 略称P.C.L.)。配給はヨーロッパ映画を中心に輸入・配給をしていた東和商事合資会社映画部。だから観客もホワイトカラーや学生など、洋画に親しんでいたインテリ、都市生活者が多かった。

この『ほろよひ人生』を皮切りに、エノケンこと榎本健一、古川ロッパ、横山エンタツ・花菱アチャコのコメディなど、P.C.L.映画は、昭和8年から昭和12(1937年にかけて、都会的でモダンなテイストの作品を次々と送り出した。まさに夢の映画工場である。そのスタジオでは、トーキー製作のための最新サウンドシステムを導入。アールデコの外観とも合わせ「白亜の殿堂」と呼ばれた。

映画に活写される情景には、関東大震災からの復興都市東京の晴れがましさに溢れ、モダニズムの空気を体感することができる。映画から流れるサウンドもモダン、P.C.L.管絃楽団による演奏、エノケンや岸井明たちが唄うジャズ・ソングは、当時のハリウッドやブロードウェイに最も近かったのである。

のちに「明るく楽しい東宝映画」のキャッチ・フレーズで戦前、戦後の娯楽映画の黄金時代を牽引していく東宝カラーは、ここから始まった。

寫眞化学研究所の成立

P.C.L.こと匿名組合「寫眞化学研究所」は、フィルム現像とトーキーの光学録音機材の研究機関として、昭和6(1931)年2月に設立。北海道帝国大学農学部出身の植村泰二が、理化学研究所でビタミン研究をしながら、父・植村澄三郎が創設した写真の印画紙メーカー「オリエンタル寫眞工業株式会社」の嘱託として、写真乳剤の研究をしていた。

植村泰二は理研で知り合った松竹キネマの現像部部長・増谷りんと研究を続け、需要が急増していた映画フィルム(現・東京都世田谷区成城)に建てた。寫眞化学研究所の設立にあたって、植村泰二は増谷麟を松竹キネマから引き抜き、実業家である父・植村澄三郎に出資を要請。植村澄三郎は大日本麦酒の経営者でもあったので『ほろよひ人生』は、大日本麦酒との全面タイアップ作品だった。

その頃、日本無線の技師・門岡速雄が、フィルム式発声映画の録音装置を考案、寫眞化学研究所に実用段階の研究協力を求めた。そこでトーキー部が新設され、昭和6年6月に出資組合「国産トーキー社」を設立。四八平米のトーキー映画スタジオを開設した。

当時はまだ日本ではサイレント映画が主流だったがその頃、松竹蒲田撮影所では、日本初の本格トーキー『マダムと女房』を製作、昭和6(1931)年8月1日に公開された。植村泰二と、同作に関わった増谷麟はトーキー時代の本格到来を予見、トーキーと現像を請け負う会社として寫眞化学研究所をスタートさせた。翌、昭和7(1932)年2月20日、寫眞化学研究所は朝日新聞社と「朝日ニュース映画」の録音独占契約を締結。この年、第10回ロサンゼルスオリンピック、上海事変、満洲国誕生など、映画館でのニュース映画の需要が高まって、スタッフは忙しい日々を送った。

さらに3月1日には、日活(日本活動寫眞株式会社)との間に、発声劇映画(トーキー)製作契約を締結。島耕二主演『時の氏神』(4月15日、溝口健二)、伏見直江の『女國定』(同日、清瀬英次郎)、大河内傳次郎の『上海』(4月29日、村田實)のアフレコを受注、これらは「P・C・L式全発声(オール・トーキー)映画」として鳴物入りで公開された。続いて大河内傳次郎の『沓掛時次郎』(6月14日、辻吉朗)、島耕二の『春と娘』(6月17日、田坂具隆ともたかがこのスタジオで撮影された。

やがて、これまでの録音スタジオ一棟だけでは手狭となり、昭和7(1932)年6月1日、「匿名組合寫眞化学研究所」は「出資組合国産トーキー社」を吸収合併して、「株式会社寫眞化学研究所」を設立。さらに10月25日には、白亜の本格的トーキースタジオ二棟を新築。のちの東宝撮影所の第一、第二ステージである。社長は植村泰二、相談役に父・植村澄三郎が就任。さらに澄三郎が懇請して阪急電鉄の小林一三いちぞうが相談役となる。

日比谷アミューズメントセンター構想

この頃、小林一三は、丸の内のオフィス街に近い日比谷地域に、ニューヨークのブロードウェイの劇場街のような「日比谷アミューズメントセンター」を構想。宝塚少女歌劇の東京進出のための劇場建設、トーキー専門劇場の開設、芝居の常設劇場などの建設を計画していた。銀座の東、木挽町にある松竹の歌舞伎座に対抗する意味もあった。少し後になるが、昭和9(1934)年1月には「東京宝塚劇場」、2月には洋画ロードショー館「日比谷映画劇場」、昭和10(1935)年6月には演劇劇場「有楽座」を開場して、12月には日本劇場(日劇)を吸収合併。日比谷アミューズメントセンターを完成させることになる。この時点で「東宝」という会社はまだない。「東京宝塚」劇場の略称として、小林一三や社内では「東宝」と呼んでいた。公式に「東宝」が使用されたのは昭和9年1月、東京宝塚劇場の開場と同時に発刊された機関誌「東宝」からである。「東宝映画」が社名となるのは、P.C.L.映画などを配給するため、昭和11(1936)年6月設立の「東宝映画配給株式會社」からとなる。

日活「脱退七人組」と森岩雄

話は昭和7年に戻る。寫眞化学研究所が新スタジオ建設中の11月、日活が突如P.C.L.との録音契約を一方的に破棄して、国産ではなくアメリカのウェスタン・エレクトリック社のトーキーと提携して自社でトーキーを製作することになり、京都の日活太秦撮影所に録音スタジオを建設した。

その背景には日活の労働争議があった。日活の専務・中谷貞頼は日活太秦の撮影所長・池永浩久はじめ200名を解雇、自ら撮影所長となり強権をふるい、P.C.L.との契約も反故にしてしまった。争議を契機に9月、日活のエース監督、村田實、伊藤大輔、内田吐夢、田坂具隆、小杉勇、島耕二、製作部の芦田あしだ勝ら七人組が脱退。P.C.L.の植村泰二と村田實の間で「日活を辞めたら面倒を見る」との話があったため、七人組と一緒に辞めた日活の技術スタッフ数十名が上京。それが想定を上回る人数だったので「話が違う」とトラブルとなる。そこで村田は森岩雄に相談。ここでキーマン、森岩雄が登場する。

森岩雄は、映画評論家として健筆をふるう一方、プロデューサーとして、日活で『街の手品師』(1925年、村田實)の脚本を手がけ、村田と共に、同作を持って欧米を回った。そこでハリウッドの映画システムを目の当たりにした。その後、日活現代劇のブレーンとなり企画部に在籍していた。またトーキーにも意欲的で、溝口健二監督によるミナ・トーキー(皆川芳造が開発した部分発声映画)『ふるさと』(1930年)を企画していた。

その森岩雄は、植村泰二とは面識がなかったが、松竹キネマ出身の増谷麟とは昵懇じっこんにしていたので、増谷が紹介。そこで「日活からの仕事がなくなったP.C.L.」と「人材は揃っているが撮影スタジオがない村田實たち七人組」が手を組むことで、打開しようと提案。

しかし植村は、ビジネスマンである父・澄三郎から、「興行は水ものだから映画製作には関わるな、あくまでも受注仕事として請負うように」と厳命されていた。そのため「一作だけ」という条件で、七人組と提携して映画製作をすることに。製作費はP.C.L.が持つが、森岩雄が保証人として責任を持つこととなった。

かくして村田實、伊藤大輔、内田吐夢ら、日活「脱退七人組」は「新映畫しんえいが社」を設立。P.C.L.と提携することとなる。そこで伊藤大輔脚本、村田實・田坂具隆監督、小杉勇主演『昭和新撰組』が、P.C.L.の新スタジオで撮影開始、12月29日にクランクアップ、大晦日に封切られた。作品はヒットしたが、製作費を上回ることができずに、差額は森岩雄の借金となった。

この時の活躍で森岩雄は、プロデューサーとしての実力を買われ、松竹の城戸四郎からも製作部長として声がかかっていたが、P.C.L.の製作者となったのである。

さて、トーキー専門の新スタジオでは、引き続き新映畫社が『叫ぶ亜細亜』(1933年5月1日・内田吐夢)を撮影。藤原義江、島耕二と共に出演した千葉早智子が、のちにP.C.L.のトップ女優となる。続いて新興キネマ出身の木村荘そ十と二じ監督が『河向ふの青春』(6月1日)を製作。本プロレタリア映画同盟の松崎哲次が脚本、左翼劇場出身の滝澤修、信欣三しんきんぞう、宇野重吉が出演した実験的プロレタリア映画で、千葉早智子はこちらにも出演している。

P.C.L.自主製作へ

しかし、このままではスタジオ運営がまかなえないので、P.C.L.は自主製作に踏み切る。森岩雄製作、構成による第一作『ほろよひ人生』だった。低予算で製作できるように、植村澄三郎が経営陣に参加している大日本麦酒とタイアップ。『河向ふの青春』の木村荘十二を監督に、『叫ぶ亜細亜』でデビューした千葉早智子をヒロインに起用。既存の映画スターではなく、徳川夢声や藤原釜足など軽演劇などの他ジャンルの人材を起用して、モダンなミュージカル・コメディを製作。これがP.C.L.のカラー、作品の方向性を決定づけた。

続く第二作『純情の都』は、P.C.L.相談役・相馬半治が経営する明治製菓とのタイアップ作品。都会に生きる若者たちの哀感を、微苦笑を交えながら描く、モダンな明朗青春映画だった。公開に際しては、外国映画の配給会社・東和商事合資会社が配給を担当。前年に発生した五・一五事件など世情不安もあり、トーキー専門とはいえ後発の製作会社であるP.C.L.は、モダンで明朗な作品を連作。これがのちの「明るく楽しい東宝映画」のイメージの源泉となる。

『ほろよひ人生』と『純情の都』の成功により、植村泰二は本格的に映画製作に乗り出した。しかし父の厳命もあり、寫眞化学研究所を映画製作会社にはできないので、昭和8年12月5日に、同社のスタジオ設備を使用する別会社「株式会社ピー・シー・エル映画製作所」を設立。代表取締役・植村泰二、取締役には増谷麟、森岩雄、山本留次、大橋武雄、阿南正茂(日本ポリドール創業者)らが就任。森岩雄は取締役支配人として、本格的に映画製作に乗り出した。

「白亜の殿堂」と呼ばれたP.C.L.のスタジオだが、「ステージの外壁がなぜ白いのか?」の問いに、常務取締役・増谷麟は「常に清潔さを保てるから」と答えたという。

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本書ではP.C.L.映画製作所の第一作『音楽喜劇 ほろよひ人生』(1933年)から、現存する作品、確認できた作品を編年体で詳説している。ビデオソフト黎明期、東宝「キネマ倶楽部」で戦前作品が次々とパッケージ化された。戦前を知る映画ファンのためのソフト企画である。僕はそのパッケージの解説を担当。まだ30代の頃、そのおかげで「明るく楽しい東宝映画」の原点であるP.C.L.作品を観て「時代の空気」を体感することができた。エノケンやロッパ作品のジャズ・ソングやモダンなアールデコのセット、丸の内、日比谷や銀座の風景、都会生活者たちのライフスタイルを観て、それまで抱いていた「戦前」のイメージが大きく変わった。

映画はストーリーやテーマだけでなく、そこに活写されている情景や、流れる音楽もまた魅力であることを知った。「映画時層探検」の楽しみである。

それから30年、CSの映画チャンネルで、P.C.L.作品はじめ各社の戦前作が順次放映され、遅れてきた世代でも気軽に戦前作品に触れる機会が増えた。しかし、あまり需要がないのか、近年ではほとんど放映されなくなった。

現在は、ソフトパッケージや配信で、気軽に映画を楽しむことができる時代になったが、戦前の邦画は滅多に観ることができない。P.C.L.映画でもDVD化されているものは、成瀬巳喜男作品やエノケン映画の一部のみ。2024年になり成瀬の1930年代作品は東宝で全作ディスク化されたが、エノケンのP.C.L.時代は、黒澤明が参加した『エノケンの千萬長者 前後篇』(1936年)と『ちゃっきり金太』総集篇(1937年)のみ。朝日新聞出版「黒澤明DVDコレクション」で、P.C.L.作品は『東京ラプソディ』(1936)、『戦國群盗傳』『良人の貞操』『美しき鷹』(1937年)はディスク化されたが、ロッパ作品に至っては、東宝時代の『ロッパの新婚旅行』(1940年)、『音楽大進軍』(1943年)以外は、皆無である。

記念すべきP.C.L.第一作『音楽喜劇 ほろよひ人生』や『エノケンの青春酔虎傳』(1934年)、戦前音楽喜劇の最高作『唄の世の中』(1936年)に、気軽にアクセスできないのである。

かつて、映画は「一期一会」だった。映画書籍や原稿も、「映画体験」や「映画の詳細」をテキストにして伝えてくれた。僕らは、そうした先輩たちの仕事を通して「映画」を知った。

「観られないからこそ語る」ことも大事である。コロナ禍で、ライフスタイルが大きく変わり、僕は依頼原稿ではない「映画詳説」を残していこうとnote「佐藤利明の娯楽映画研究所」を始めた。そこでP.C.L.の音楽喜劇を中心に「映画詳説」を連日アップしてきた。

ウエブで記事を読んだ、海外の日本映画研究者から「どうして作品を観ることができたのか?」「論文に引用したい」「もっと解説して欲しい」と連絡を頂き、交流が始まった。21世紀の今こそ「観られないからこそ語る」重要性を感じて、本書を企画。さらに書き続けてきた。

P.C.L.映画成立から、昭和12(1937)年9月10日の「東宝映画」創立以降、その年の年末にかけての可能な限りの作品を製作、公開日順に「詳説」したのが本書である。P.C.L.映画に加えて東宝ブロックのJ.O.スタヂオ、東京発聲映画製作所、今井映画作品も加え、未完作も含めて113作品を編年体で紹介している。東京発聲映画、今井映画については代表作のみ記述した。

今後、ソフト化や配信、上映が望めない作品もあるので、なるべく作品のディティールや結末にも触れている。「ネタバレ満載」だが、映画データベースや従来の映画本で取り上げられていない作品も多数ある。作品情報にすらアクセスできないものもある。この時代の映画を語ることは、文化、風俗、社会現象、流行、そして歴史的な出来事にも言及することでもある。また、執筆過程でどうしても観ることのできなかった、6本の長編、2本の短編作品については、現状で判る限りのデータ、ストーリーを記した「梗概こうがい」のみを記している。原版が失われたもの、CS未放映のものは、今後の発見、放映に期待したい。

それでは、昭和8年の『ほろよひ人生』から、昭和一二年の大晦日公開『エノケンの猿飛佐助』まで「P.C.L.映画の時代」へ、時層探検の旅をご一緒に!

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P.C.L.映画の時代

ニッポン娯楽映画の源流 1932–1937

佐藤利明=著
発売日 : 2024年10月26日
6,800円+税
A5判・並製 | 710頁 | 978-4-8459-2402-8
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