本書の構成と使用法
本書『新たな距離』は、制作集団・出版版元「いぬのせなか座」の立ち上げ以降、私がなしてきた議論を集成した三部作のうちの最初の一作である。いぬのせなか座の思想的背景を明らかにするとともに、言語表現やデザイン/レイアウトをめぐり私が形成してきた理論・分析をあらためてひとつづきの流れに沿って展開する。
三部作とはいえ本書のみで読み終えることができる。同様に本書を構成するテクストも、みな個々に全体像を描くため、本書はどこから読んでも構わない。テクスト間の関連性は必要に応じて随時注で触れもする。ただ、手前から順に読むことで議論がより強く明確になるよう構成しているのも確かであり、その大まかな見取り図を以下に示すことで本書の使用法とする。
まずⅠ章では、いぬのせなか座の立ち上げにあたり意識されていた昨今の言語表現を取り巻く状況や、それへの抵抗可能性などを、小説家・保坂和志の仕事を中心に整理する。生きることと表現を密接に関わらせることに重きを置くいぬのせなか座のスタンスはどこから来たのか、その由来を開示するとともに、なぜ「言語表現」を「レイアウト」から考えるのかという問いにも要約的に応答しているため、「はじめに」とともにまずは目を通していただくのが良い。
次いでⅡ章では、小説家・大江健三郎が中期以降採用していた制作スタイルを〈擬似私小説〉的手法と名付け、その技術や思考を辿っていくことで、言語表現を「私を私の外で破砕的かつ共同的に書き直し掛け合わせていく場/技法」として設定する。テクストとその手前側の生や環境は、言葉の配置の論理の設計・読み取り・組み換えを通じて絡み合い、多様に結合し、並列分散処理的思考でもって環境内部の不変項の探索に向かう。結果的にはそれが死への抵抗可能性の模索(〈演劇的教育〉による〈新たな距離〉の獲得と伝達)につながることにもなる。同論考はいぬのせなか座立ち上げにあたり執筆された長大なステイトメントでもある。末尾にはAbstractを用意しているためそちらを先に読んでも構わない。
Ⅲ章では、Ⅰ章とⅡ章で重点的に問われた「私が私であること」の避け難さや素材化を、詩歌や日記をめぐる各論でもって検討する。テクストのなかに刻まれた〈私+環境〉は、空白や事物や死でもって切断され、レイアウトされ直す。そのなかで培われていく「必然の混雑なる場をもたらす詩の形式」が、すなわち「制作のデモクラシー」なるスタンスをもたらしもする。さらに広く芸術全般における言語表現の意義や転用可能性を模索するため、Ⅳ章では、荒川修作や宮川淳らによる現代美術の仕事を検討する。あわせて抒情詩をめぐる議論なども通過することで、言語表現は、私の外に私を発見させられる〈喩〉なる効果を操作して、孤絶した私の遍在から成る共同体を設計する技術の束となる。文章が書かれ並べられる「紙面」やそれを束ね肉体間で共有可能とする「書物」もまた、異種や事物を巻き込み複数でもって表現(不)可能性を試行錯誤していく実験の場となるだろう。その具体的実践・対話としてⅤ章がある。
全編を通じて形成された「私」と「私」を隔てつなげる距離、すなわち〈新たな距離〉をめぐる問いは、Ⅵ章において、制作がもたらす特異な経験の質——山本が〈アトリエ〉と呼ぶそれ——からあらためて焦点を当てられ直す。いぬのせなか座立ち上げ時に大江健三郎論を通じてなされた議論は、〈死からの視線〉や〈擬場〉といった概念を呼び込みつつ、インスタレーションや演劇、映画、デザインといった複数の表現形式のもと再度検証されるとともに、問いは自由意志や差別、法や演技といった主題に関わるものとして続刊『死と群生』へと引き継がれる。