全米をはじめ世界各国でオープニング初登場NO.1を獲得し、いまもっとも話題の映画『ダンケルク』。2018年アカデミー賞の最有力候補と目されています。
日本では9月9日の全国公開が決定していますが、公開にさきがけて『ダンケルク』の監督・脚本・製作をつとめたクリストファー・ノーランの来日も決定しています(8月23日~25日)。
フィルムアート社の2017年5月の新刊『クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論』では、ノーラン映画の特徴である「嘘と真実」を軸に、『フォロウィング』から『インターステラー』までの全長編作品を徹底考察しています。
今回は、そのイントロダクション全文を一挙公開いたします。
イントロダクション|嘘の倫理学
虚偽を前景化する
クリストファー・ノーランのすべての映画において、嘘は中心的な役割を担っている。最初の長編映画『フォロウィング』(1998年)の主人公ビル(ジェレミー・セオボルド)は、騙されることで、ある女性の殺人犯にされてしまう。ノーラン作品で最も人気が高い『ダークナイト』(2008年)では、バットマン(クリスチャン・ベール)はマスクで顔を隠すだけでなく、自分が殺人犯であるというフィクションのなかに身を隠す。ノーラン作品の登場人物は、自分たちが常に他人によって欺かれていて、多くの場合、個別的な嘘を超越した巨大な虚偽性の網のなかに捉えられているのを発見する。作品の内容において欺く行為が多く描かれることは、作品の形式と明らかな相同関係にある。典型的なノーラン作品は、形式面においても嘘を内在させており、映画的世界のなかで起こる出来事と登場人物の動機に関して、観客を欺くように設計されているのである。ノーランが虚偽の形式を利用するのは、ある倫理哲学を構成するためであるが、その哲学は、嘘を存在論的に最も重視する考え方に根ざしている。ノーラン作品は、真実が存在するという考えを完全に否定するのではなく、真実は(もし私たちが迷子になってしまわなければ)嘘のなかからしか現れ出ないことを私たちに示すのである。
ノーラン作品の構造的な嘘は、映画的世界のなかで実際には起こっていない出来事を見せることにあるのではない。そうした視覚的欺瞞は、自分たちが見ているものを信じない観客――したがって映画製作における袋小路――を生み出すだけだろう。ノーラン作品では、映画的世界のなかで実際に起こっている出来事を見せるが、観客はこれらの出来事について誤った解釈をするよう構造化されているのである。観客は映画の構造によって、見ている出来事の意味に関して欺かれるのだ。虚偽は、内容というよりもむしろ形式において存在しており、それはつまり、虚偽はたんなる経験的現象ではなく、構造的現象でもあることを示唆しているのである。ノーランは、虚偽の構造的性質と、その遍在性を示すことによって、真実とフィクションに関する一般的な考えについて私たちに再考するよう求めている。
この力学は、ノーラン作品のオープニングにおいて最も顕著である。私たちは、ある出来事を目撃するのだが、その本質についてしばしば誤った結論を下す。映画『ユージュアル・サスペクツ』(ブライアン・シンガー監督、1995年)のように、直接的に観客を操るというよりも、ノーラン作品は、観客が自ら誤解するように――それは単純に観客が標準的な映画のコードに従って映画を見ているからだが――映画を始める傾向がある。たとえば、『メメント』(2000年)のオープニングでは、レナード・シェルビー(ガイ・ピアース)が、殺された妻の復讐のためにテディ(ジョー・パントリアーノ)を銃で撃つ場面が描かれる。映画は時系列を逆向きに進んでいくが、レナードがテディを銃で撃ち、殺したことは明らかであり、さらにレナードのナレーションによって、観客は彼の発見――妻を殺した犯人はテディであること――を信じてしまう。しかし、映画の結末において、テディはレナードの妻を殺してはいないこと、またレナードが、テディの死へと至る一連の出来事を駆動させたのは、テディがレナードに彼が聞きたくないことを言って彼を怒らせたからだということが明らかになる。レナードの妻の死の背後に隠されている真実は、映画のオープニングで描かれる殺人とは無関係であるにもかかわらず、映画は観客を欺き、これが復讐の行為であると信じ込ませるのである。
『インソムニア』(2002年)のオープニングにも、前例ほどドラマチックではないが、同様の虚偽が仕組まれている。映画のオープニング・シークェンスでは、白い布に血がにじむ様子が何度も映し出されるが、それに続けて警察の捜査が描かれることで、観客はこれが殺人事件の被害者の血であると思い込む。しかし、映画の結末では、これらの血痕が、この殺人事件の捜査とは何の関係もないことが明らかになる。血痕は、刑事巡査のウィル・ドーマー(アル・パチーノ)が、以前の別の捜査の容疑者を犯人に仕立て、証拠をでっち上げる目的で仕込んだものだったのである。映画の構造自体が虚偽を生み出している。それによって観客はオープニングの映像を誤って解釈し、その最初の誤解がさらなる一連の誤解を招き寄せる。そして映画の結末において、最終的に観客は自らの誤りに気づくのである。いずれの場合も、虚偽が始まりを特徴づけており、真実が現れるのはそのあとである。ノーラン作品では、観客は、起こったことや出来事の核心についての誤った考えから出発する。典型的なノーラン作品が進む方向は、ほとんどの映画とは異なり、無知から知へではない。そうではなく、観客は、誤った知から、その誤りを正す知へと進むのである。出発点は、白紙状態ではなく、最初の誤りである。
他の映画製作者たちも虚偽を重視しているが、ノーランほどではないし、ノーランと同じやり方でもない。たとえば、M・ナイト・シャマランは、トリックエンディング(観客に映画で描かれた現実の理解が完全に間違っていたことを明かす意表をつく結末)で有名である。最も有名な『シックス・センス』(1999年)では、映画の主人公マルコム・クロウ博士(ブルース・ウィリス)が、実際には映画のほぼ全編にわたって死んでいたことが明らかにされる。シャマランとノーラン――あるいは『シックス・センス』と『メメント』――の違いは、前者では、映画が明らかにする真実の一部として虚偽が組み込まれていないことである。『シックス・センス』では、虚偽と真実との間に明らかな境界線が存在し、いったん真実を知れば、この新しい視点からもう一度映画を見直し、映画がどのように虚偽を構成していたかを検証することができる。一方、『メメント』では、そうした戦略は不可能である。なぜなら、真実に到達するためには、人は虚偽に身を浸す必要があるからだ。虚偽から距離を置くことは――シャマランの映画を見直す際には可能だとしても――ノーラン作品においては、真実からも遠ざかることを意味しているのである。
ノーラン作品の構造は、観客が真実の存在を信じていることを巧みに利用しており、その結果、いつでも観客は騙されることになる。私たちが画面上に見たものを信じる限り、ノーラン作品は私たちを誤らせるのである。直接見ることができるものとして真実が存在するという考えは、視覚的世界を媒介し、そのなかで意味を生み出すフィクションの構造に対して私たちを盲目にする。ノーラン作品は、このフィクションの構造が存在論的に最も重要であり、それによって私たちが画面上に見るものの意味が形づくられること、さらにはこのフィクションの構造こそが真実が現れ出る土台となっていることを示している。
ノーラン作品の嘘は、映画館の外の世界で起こっていない――これからも起こらないであろう――出来事をスクリーン上に描くことだけではない。ノーランの映画的世界における嘘は、こうした基本的な嘘――表象と現実との間に対応関係がないこと――をはるかに超えている。ノーランの描く嘘は、登場人物と観客の双方を惑わせるものである。それによって、私たちは誤った結論を導き出し、行動や出来事の意味を誤解する。嘘の犠牲者である観客は、登場人物が、ある行為をおこなう動機について誤認してしまう。しかし、嘘はそこに隠された真実を指し示してもいるのである。ノーラン作品において、嘘は、それ自体として直接見ることができるものではなく、映画の構造の一部であり、真実を覆っている限りにおいて存在する嘘である。私たちは最終的に嘘と真実を区別することができるが、その真実との関係において嘘を嘘として理解するのである。ノーラン作品における嘘は、思っていることと、実際に起こっていることとの間の乖離として定義することができるが、そうした乖離が明らかになるのは、両者の対立が超えられたときなのである。
クリストファー・ノーランの映画は、嘘に対する姿勢が独特であるため、従来の意味で倫理的な映画とは言えない。彼が虚偽の優位性を示すのは、嘘を非難し、真実の重要性を主張したいからではない。それにもかかわらず、ノーランの映画は、倫理と真実との関係を再定義することによって、倫理的な映画になっている。ノーラン作品を見ることによって、私たちは、嘘の存在論的優位性を理解することが倫理的に重要であることに気づく。嘘の優位性を認識することができなければ、私たちは完全に嘘に捕らわれたままである。私たちは、虚偽に身を委ねることによって初めて虚偽から自由になれるのである。これが、ノーランが映画を通じて提示し、探究するパラドックスである。真実に対する嘘の優位性を受け入れ、正しく理解することによって、私たちは、嘘に秘められた解放する力を手に入れることができるのであり、嘘と主体性の起源との結びつきを発見することができるのである。
『メメント』は、他のノーラン作品と比べても、嘘の前景化において際立っている。主人公レナード・シェルビーは、映画の全編において、妻を殺した犯人を捜している。そして、映画は、この(事件の真相解明を目的とした)犯罪調査の儀式に参加するよう観客に促す。映画は変則的に時系列を逆向きに進んでいく――それがこの映画に特別な構造を与えている――が、『メメント』は、一般に広く受け入れられている真実についての考え方を、全編を通じて共有しているように見える。すなわち、真実とは、私たちが探し求めているものであり、ある出来事についてのすべての事実が明らかになったとき、発見できるものであるという考え方である。しかし、映画の終わり方は通常の探偵スリラー映画のそれとは異なっている。映画は、レナードの妻の死についての真相を明らかにして終わるのではなく、調査の出発点となるレナードの自分自身への嘘を明らかにするのである。レナードの自己欺瞞は、真実の発見を邪魔する障害物であるだけでなく、真実の探求を駆動する原動力でもある。レナードの自分自身への嘘が、自分で解かなければならない謎を生み出すのだ。ノーランにとって、嘘が、真実に対する存在論的優位性を持つのは、この意味においてである。真実の発見は、その背景となる嘘が存在しない限り不可能である。真実は、その土台となる虚偽から引き離さなければならないものなのである。
映画の歴史を通じて、多くの映画製作者たちが、真実の相対性を強調してきた。それは、たとえば、ロバート・モンゴメリー監督の『湖中の女』(1947年)における主観カメラや、黒澤明監督が『羅生門』(1950年)でおこなった、同一の出来事をめぐる説明をいくつも提示することによって可能である。あるいは、ミヒャエル・ハネケ監督が『隠された記憶』(2005年)で用いた、映画内のビデオ映像を含めてもよいかもしれない。これらの遠近法主義は、ノーランとは対照的に、真実の優位性に異議を唱えることはなく、真実の複数性と、真実が特定の主体の認識に根ざしていることを強調している。ここでの真実は、個人の視野の制約を認識する能力と同一視される。見ているものの客観性を信じる限り、その人は騙されるのである。しかし、あらゆる認識は必然的に相対的なものであるという理解は、新しい形態の真実に従うことを意味する。この種の映画は、真実の存在論的優位性を維持する目的で、真実を定義し直しているのである。しかし、これこそがまさにノーランが疑問視しているものである。
問題は、真実についての誤った考えによって私たちが惑わされることではなく、嘘に対する真実の優位性という考え方そのものが私たちを惑わし、虚偽が私たちの現実を構成しているという認識から私たちを逸らしてしまうことである。クリストファー・ノーランの映画的世界において、真実は相対的なものではなく、また存在しないものでもない。真実は存在するが、その真実に到達するためには、嘘を通過しなければならないのである。嘘が真実を発見するための道筋を作るが、そうした発見は嘘を受け入れ、嘘に身を投じることによってのみ可能となる。嘘は、実際に起こった(あるいは起こりつつある)こととは対応関係がない映画のなかの出来事――フィクション――を作り上げる。真実についての一般的な考えにおける問題点は、真実とこのフィクションを分離し、真実を、フィクションや虚偽によって汚される以前の原初の状態として見ることである。しかし、ノーランの映画において、真実とフィクションとの結びつきはいつでも明白である。真実を発見するためには、真実を覆い隠しているかのように見えるフィクションにまず従わなければならないのである。
ノーランは、彼の映画において、精神分析家ジャック・ラカンの有名な格言――「騙されない人はさまよう」――に従っている。騙されない人がさまようのは、すべての真実の起源がフィクションにあることに気づかず、遠回りをすることなく直接真実に到達できると考えているからである。ラカンが、セミネール「騙されない人はさまよう(Les non-dupes errent)」のなかで述べているように、「騙されない人は二度間違える」(1)。なぜなら、騙されることを拒否して、直接真実を求めることで、人は欲望する主体としての自らの状態についても――そして社会的秩序の構造のフィクション性についても――無知のままだからだ。騙されることを拒む人、フィクションを受け入れることを拒む人は、皮肉にも真実の領域を完全に手放してしまっているのである。真実は、真実とフィクションとの間に完全な境界線を引かない人にとってのみ、可能性として存在する。この意味で、フィクションは構造的な利点を持っている。なぜなら、私たちがフィクションから現れ出る真実を求める行為のなかにしか、真実は存在しないからである。
ノーランがスーパーヒーローに惹かれるのは、彼が嘘の優位性と生産性に強い関心を持っているからである。スーパーヒーローは、正義の闘いにおいて、偽のアイデンティティを利用する。この偽のアイデンティティとスーパーヒーローが持つ神話的な力との間に、幾らかの関連性が見出されることがある。ピーター・パーカー(スパイダーマン)は、クモに噛まれることによって、クモが持つような特殊能力を手に入れる。トニー・スターク(アイアンマン)は、自らが開発したアイアンスーツを着用することで、無敵の力を得る。しかし、ほとんどの場合、スーパーヒーローの偽のアイデンティティと、その特殊能力との間に直接的な関係性はない。たとえば、スーパーマンとしての外見は、クラーク・ケントが犯罪や悪と闘う際に利用するただの見せかけにすぎない。身体的な観点に限って言えば、彼がスーパーマンとしておこなうすべての行為は、クラーク・ケントのままでおこなうことができる。スーパーマンとしてのアイデンティティが、彼に付加的な力を与えることはない。せいぜい匿名性が付与されるか、少なくとも見た目の派手さが得られる程度である。このように、偽のアイデンティティはスーパーヒーローが持つ特殊能力の必要条件ではないのだが、それでも偽のアイデンティティなしのスーパーヒーローを想像することは難しい。偽のアイデンティティはスーパーヒーローを日常の領域から切り離し、そうした存在として自分たちを見るように仕向けるのである。さらに、偽のアイデンティティに関する虚偽は、私たちの虚偽への関わり自体を映す鏡にもなっている。もしスーパーヒーローが実在するとすれば、彼らの本当のアイデンティティを見抜くのに――特にスーパーマンの場合は――大した努力を要さないだろう。にもかかわらず、観客は、こうした見せかけが有効であるという考えを受け入れて映画を見ている。スーパーヒーローの偽のアイデンティティは、スーパーヒーローにとってはもちろんだが、そのスーパーヒーローを外から見ている観客にとっても有効な虚偽の力を明らかにしているのである。
ノーランの最初のバットマン映画は、バットマンのスーパーヒーローとしての見せかけと、彼が持つ能力を明確に切り離している。『バットマン ビギンズ』(2005年)が物語るように、ブルース・ウェインは、少年時代、コウモリにまつわるある体験をする。彼は大きな古井戸に落ち、そのなかで興奮したコウモリの大群に飲み込まれてしまう。このトラウマ的な体験はブルースの人生に大きな影響を及ぼすが、それが彼をバットマンに変えるのではない。ブルースは、ヒマラヤの奥地で厳しい訓練を受け、スーパーヒーローとして戦うための戦闘能力を手に入れる。バットマンは肉体的、精神的な訓練を通じて特殊能力を手に入れるのであって、コウモリに噛まれることによってではない。ブルースがバットマンという偽のアイデンティティを採用するのは、訓練によってコウモリが持つような特殊能力を身につけたからではなく、彼が少年時代にコウモリに対して感じた恐怖心を彼の敵にも体験させるためである。
金持ちのプレイボーイとしてのブルース・ウェインのアイデンティティは、バットマンの威容がそうするように、犯罪者を怯えさせることはない。ブルースは、バットマンとして付加的に有利な立場を得るが、これは彼の戦闘能力とは無関係である。このことは、他のスーパーヒーローが採用する偽のアイデンティティにも当てはまる。バットマンは、多くの闘いにおいて戦闘能力や知力が上回っているからというよりも、ただ彼がバットマンであるという理由だけで勝利する。偽のアイデンティティは、スーパーヒーローに超越性の幻影を与え、この幻影は、あらゆる状況下の心的現実を別のかたちに作り変える力を持っている。スーパーヒーローを前にして、犯罪者は自滅的に行動する傾向があり、そのことによってスーパーヒーローの勝利を確実なものにする。
スーパーヒーローの偽のアイデンティティに関する虚偽は、犯罪者を捕らえるための有効な手段であるだけでなく、スーパーヒーローの現実のアイデンティティが覆い隠している個人の真実を捉える手段でもある。スーパーマンがクラーク・ケントの真実であるように、フィクションとしてのバットマンはブルース・ウェインの真実なのである。『バットマン ビギンズ』の終わりの場面で、レイチェル・ドーズ(ケイティ・ホームズ)は、この事実を理解する。ブルースがバットマンとしての見せかけの重要性を過小評価したあとで、今度はレイチェルが彼のブルース・ウェインとしてのアイデンティティを退ける。彼女は、ブルースの顔に触れ、「いいえ、これがあなたのマスクよ。あなたの本当の顔は、犯罪者たちに恐れられているほうだわ」と言う。この場面でレイチェルが理解しているように、ブルース・ウェインが作り上げた幻影としてのアイデンティティ、すなわちスーパーヒーローの姿のほうが、彼の「本当の顔」になっているのである。バットマンとしての見せかけは、ブルースの本質的な部分――彼の存在を形づくるコウモリに関するトラウマと、このトラウマに決然と立ち向かう彼の能力――を明らかにしている。この意味で、スーパーヒーローの偽のアイデンティティは、真実と力の両者の源泉なのであり、だからこそ映画製作者ノーランにとって魅力的な題材となるのである。スーパーヒーローとしての見せかけは、明らかに虚偽であるが、それは、もしそれがなければ完全に覆い隠されたままになっていたであろう、主体についての真実を指し示してもいるのである。
ノーランは、前進する時系列から逸脱し、物語の時間を組み替える映画の構造に引かれるのと同じ理由で、スーパーヒーローに引きつけられている。いずれの場合も、真実は、私たちを惑わせるものと切り離すことができない。そして、この結びつきは、映画において常に作用している。私たちは映画館で、騙されることを自らに許し、それによって日常生活から切り離され、気晴らしを得る。しかし、映画のフィクションは、その欺く力を通じて、映画の外にある、社会的現実についての真実を明らかにする。社会が、その抑圧された欲望、隠された不安、暗黙のイデオロギー的命題を明らかにするのは、他ならぬ映画においてである。映画の欺く力を強調し、映画のフィクションとしての構造に忠実であることによって、クリストファー・ノーランは、映画が持つ倫理的な可能性を明らかにするのである。
映画を見ることの危険性
クリストファー・ノーランの映画が積極的に嘘に関わっていることから、彼の作品は、わかりやすい批判にさらされるかもしれない。実際、映画に対しておこなわれる批判のなかで、最も根強いものの一つが、映画と虚偽との結びつきに関するものである。ヒューゴー・ミュンスターバーグやルドルフ・アルンハイムといった、映画芸術の偉大な擁護者さえもが、映画がときに誤った現実感を提示してしまうことの危険性について認識している。映画は、誤った現実感を伝え、それによって観客を騙し、彼らの現実の生活にしばしば悪影響を及ぼす事実無根の信念を抱かせる。たとえば、観客は、情け容赦のない重役が実は心優しい人だとあとから判明するかもしれないとか、すべての偶然の出会いが、赤い糸で結ばれた相手との最初の出会いになるかもしれないといった考えを抱いて、映画館を出る。こうしたごくありふれた映画の虚偽性は、深くものを考えない主体――社会構造や自らの社会的地位を疑問視することなく、素直に受け入れる主体――を生み出す一因となる。テオドール・アドルノのような批判的な思想家でさえ、映画が持つ虚偽の力に抵抗することの難しさを認めている。『ミニマ・モラリア』のなかで、彼はこう嘆いている。「私は映画を見に行くたびに、どんなに用心したつもりでも、自分が愚かで、ダメな人間になったような気がする」(2)。映画を見るということは、少なくとも、ある程度は、その映画の嘘を受け入れるということなのである。
映画は嘘をつくことで悪名高いが、この嘘と映画の魅力を切り離すことはできない。私たちは、まさに騙されるために――非現実的なものを現実的なものとして捉え、映画が創造する、ありえない世界と状況を楽しむために――映画に行くのである。私たちは、経済不況の時期に、自分の経済状況が一瞬にして劇的に好転するといった、到底起こりそうもないフィクションを味わうために映画館に向かう。そうしたフィクションが提供するのは、たとえば、人生で偶然得た知識だけで、「フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネア」で誰も予想しなかった最高賞金を手にするというような物語である。ダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』(2008年)が得た称賛の声は――その多くは、思慮深い批評家や一般の評者からのものであったが――映画に騙されることの喜びを明らかに示している。映画は、個人が経済的貧困から脱出できる可能性を信じさせるだけでなく、国家全体が同じように経済的貧困から脱出するための手段は西洋化であるという考えを描いてもいる。こうした考えは、強力なイデオロギー的フィクションであり、映画が獲得した人気は、多くの人がこのフィクションを支持していることと切り離すことができない。『スラムドッグ$ミリオネア』は、現代の資本主義社会が円滑に機能するのに役立つようなやり方で嘘をつく。ボイルの映画とクリストファー・ノーランの映画の違いは、ボイルが嘘を真実として提示しているのに対して、ノーランは真実を嘘の所産として提示していることにある。しかし、映画製作者がどのように虚偽を利用するとしても、映画が私たちの経験を構造化する点で、虚偽はすべての映画製作に組み込まれている。
特殊効果は、映画の虚偽性を複合的にすることで、映画の魅力を増大させた。映画のテクノロジーが発展するにつれて、映画製作者はますます説得力のある映像の世界を生み出せるようになった。サウンド、カラー、ワイドスクリーンのテクノロジーは、映画の虚偽性の進化を妨げるさまざまな障壁を取り除くのに役立った。批評家がこうした虚偽性を嘆き、映画がCGIなどの新しい特殊効果に依存していることを悲しむとしても、映画の虚偽性を増幅させる手段は急速に拡大しており、映画製作の中枢へと深く入り込んでいる。虚偽は、映画に内在する危険性であると同時に、映画の必須条件でもあるのである。
映画の虚偽性の表れとしてよく取り上げられるものの一つが、想像上の歴史の再構成である。映画は、実際は存在しない進歩の感覚を生み出すため、映画と歴史の関係を議論する学者は、常にこの問題に取り組まなくてはならない。ロバート・ローゼンストーンはこう述べている。「(書かれた歴史と同じく)主流派の長編映画は、導入部・中間部・結末からなるストーリーとして過去を語る。それは、道徳的メッセージや(たいてい)高揚感を見る者に与える物語であり、進歩史観的な歴史の見方のなかに埋め込まれた物語である。たとえ題材がホロコーストの恐怖のような殺伐としたものであったとしても、その映画が伝えるメッセージは、状況は改善された、あるいは改善されつつある、というものである」(3)。この種の嘘の最も典型的な例は、スティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』(1993年)である。この映画では、ホロコーストについての物語は、救済の物語となっており、この映画の論理に従えば、ヨーロッパのユダヤ人にとって最も暗い時代は、ユダヤ人の祖国の建設へと繋がっている。これは極端な例だが、歴史を歪曲して進歩の物語を作り出すことは、映画においてはごくありふれたことであり、こうして観客は進歩史観を真実として受け取るようになる。虚偽が真実性を獲得するのである。
おそらく映画史において最も影響力のある伝説は、パリのグラン・カフェでリュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895年)が最初に上映されたとき、観客が恐怖で悲鳴を上げながら逃げ出したというものだろう。この伝説が事実に基づいているかどうかは別にしても、それが語り継がれる理由は、このエピソードが、私たちが映画と結びつけている、広く共有されている恐怖――そして同時に魅惑――の感覚をうまく言い表しているからである。私たちは、映画の魔力に取りつかれて、映像を現実よりもリアルなものとして受け取ることを恐れている。これが、あらゆる政治的立場の批評家から激しく批判されている映画の危険性である。道徳主義者は、映画が喫煙、飲酒、婚外性交などの行為を描くのを恐れてきた。なぜなら、彼らは、これらの行為に現実感を与え、したがって望ましさの感覚を与える、映画が持つ力に気づいていたからである。ヘイズ・コード(映画製作倫理規定)は、映画に対するこうした考え方に基礎を置いており、映画が提示することができる現実を規制する目的で制定された。客席に突進してくるように見える列車が私たちを欺くように、映画はまた喫煙、飲酒、セックスの結果についても嘘をつくのである。映画は、しばしば激しい愛の一夜や喫煙の喜びを描くが、予期しない妊娠や肺癌といった有害な結果については、めったに描くことがない。こうした結果を自ら体験することで、観客は映画の虚偽性に対して高い代償を払うことになる。
映画を見ることの危険性は、保守的な道徳主義者にとってだけでなく、政治に積極的に関与する左翼思想家にとっても存在する。ハリウッド映画の嘘――貧困が存在しないこと、労働が不可視であること、ロマンチックな恋愛が至る所に存在していること――は、アメリカ人の政治意識に対して危機的な影響を及ぼしてきた。金銭のことをまったく気にせず、働かず、いつでも満足できる恋人を見つける登場人物を見ている観客は、社会的不平等や、価値を創出するうえでの労働の役割や、個人のロマンスにしか注意を払わない近視眼的な態度が社会に与える悪影響についてあまり考えなくなる。左派の政治的な批評家も、保守的な道徳主義者とまったく同じように、映画に内在する虚偽の危険性を認識しており、それと闘っている。
保守主義者たちは、映画の虚偽性が政治的に中立であり、自分たちの考えを広めるために役立てられることを信じていた。その目的で制定したのが、ヘイズ・コード(映画製作倫理規定)である。左派は、それとは異なる反応を示した。左派の革新的な映画製作者たちは、映画に本来備わっている虚偽性を相殺したり、それと闘ったりするために、歴史的にさまざまな戦略を採用してきた。彼らの主な戦略は、嘘をつきがちな映画から真実をもぎ取る方法を模索することだった。イタリアのネオレアリズモ映画は、従来の編集を避け、素人の俳優を起用し、ロケーション撮影をおこなったが、これらの努力はすべて真実に溢れた映画を創造するためだった。ジャン=リュック・ゴダールは、『中国女』(1967年)や『たのしい知識』(1969年)といった作品において、映画の虚偽性から遠ざかるために、物語を放棄し、映画の映像の生成過程を強調した。多くの映画製作者たちは、真実に接近する手段としてドキュメンタリー映画の形式を選んでいる。それは、物語映画が伝播するフィクションに対抗するものである。どのグループに属しているとしても、オルタナティブな映画を模索するほとんどの映画製作者たちにとって、映画と虚偽との結びつきは、何らかの方法で解決しなければならない根本的な問題なのである。政治的な映画は、幻影を永続させるのではなく、それらを放逐しなければならない。
問題は、映画における虚偽が、資本主義的生産体制のなかで映画が占める位置――そして映画が作品のなかでその体制を再生産すること――と不可分の関係にあることである。現在、ハリウッドの映画産業と広告産業とが結びつき、相乗効果を上げていることは、映画製作の付随的な展開ではなく、両者の本来的な結びつきを示す徴候なのである。それ自体が虚偽の構造物なので、映画はプロダクト・プレイスメントといった戦略を使って、間接的な広告を入れ込む理想的な媒体となる。そして、映画と虚偽との結びつきが解消されない限り、映画はこれからも資本主義的生産の広告部門の一翼を担い続けるだろう。しかし、プロダクト・プレイスメントは、映画と資本主義的イデオロギーの作用の結びつきの出発点にすぎない。ジョナサン・ベラーが述べているように、「映画は、モノが商品としてますます流動化するために必要とされる、意識の形態の発展および強化として現れる」(4)。映画は、私たちが出会う、あらゆるモノとあらゆる人を商品として扱うように促す。映画は私たちを欺き、すべてを商品として見るものの見方を教え、世界を変革するために行動する私たちの能力を奪う。映画の虚偽性と資本主義的生産の複層的な重なり合いを考慮すれば、この虚偽性のなかに真実を紛れ込ませることが、政治的な映画製作に残された唯一の道なのかもしれない。
クリストファー・ノーランは、これとは違う道を歩んでいる。彼も政治に関与した映画製作を展開しているが、映画が嘘をつく傾向を受け入れ、意図的にそれを利用している。『フォロウィング』から現在まで、彼の映画は、映画に本来備わっている虚偽性を積極的に受け入れ、この虚偽性に倫理的な価値さえ付与しているのである。ノーランは、最初に観客を惑わせ、(あとで間違いだとわかる)誤った前提を受け入れさせる。このこと自体はそれほど特異なことではない。しかし、ノーラン作品は、結果として起こる真実の発見のために、虚偽――そしてそれに従うこと――の重要性を強調する点において特異である。ノーランは、従来の真実と虚偽の優位性の序列を転倒させる。映画のフィクションそれ自体が真実を発見するための領域を生み出すのと同様に、真実の探求はまず嘘から始まるのである。
虚偽やフィクションの優位性を理解することができないノーラン作品の登場人物たちは、その必然的な結果として破滅する運命にある。たとえば、『フォロウィング』の主人公は、真実の力を素直に信じ込んでいるがゆえに、彼を罪に陥れようとする殺人犯の計略にはまってしまう。そして、バットマンや『プレステージ』(2006年)のマジシャンといったノーラン作品の主人公たちは、自らの目的のために虚偽のマントを身にまとい、人を惑わせる外見を作りださなければならない。ノーランは、フィクションを明確に打ち出すことで、ある変化がもたらされることを示しているが、この変化が価値を生み出すのである。フィクションは、昇華作用を引き起こし、ありふれた対象を望ましいものへと変える。それは、マジシャンが観客を騙さなければ、観客の欲望を喚起するものは何も存在しないのと同じである。人生を価値あるものにするためには、ある種のフィクションが必要だが、ノーラン作品はこの点に注意を向け、価値――人生を価値あるものにするもの――が現れ出る瞬間を刻印する。ノーラン作品は、嘘をつくことを奨励しているのではなく、価値の創造における虚偽やフィクションの役割を認識し、真実がこうした創造的フィクションに依拠していることを正しく理解することを奨励しているのである。
嘘の倫理性という考え方は、一見すると、不合理に思えるかもしれない。そうした倫理を推奨することで、疑いと被害妄想に満ちた世界――誰も信用することができない世界――の生成に加担することになるかもしれないからである。それは、抑制のない資本主義が生み出すであろう世界、自己の利益を最大にするために、あらゆる状況で(たとえ社交やロマンスの場であったとしても)クレームがつけられる世界である。こうした世界では、できるだけ安く買いたたき、できるだけ高く売りつける中古車の販売員が規範となるかもしれない。しかし、こうした世界は究極的には持続不可能である。もし私たちが、ある基本的なレベルで社会の他の構成員を信頼できないとしたら、(たとえ中古車の販売員にとっても)資本主義社会は機能することができないだろう。なぜなら、資本主義社会は、互いの貨幣の価値を信じあっている、その信用のうえに成り立っている社会だからである。疑いに満ちた世界とは、現在の社会において見られる社会的絆が完全に失われてしまった世界である。疑いに満ちた世界の生成が、ノーランの嘘の倫理性に付随した危険性だとしても、彼の映画が焦点を合わせているのは、私たちを疑い深くさせる虚偽の力ではなく、私たちの自由を明らかにする虚偽の力である。この意味で、彼の映画が関心を寄せるのは、嘘をつくことそれ自体ではなく、主体が自由になる能力と結びついた、嘘のある特定の一面である。
対照的に、嘘の倫理性が表明された最も有名な例では、虚偽は、自由からの逃走と結びついている。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』において、大審問官は、自由という重荷を軽減する手段として嘘の倫理性を説いている。この倫理によれば、大多数の人々は、人間存在の無根拠性と死の恐怖に耐えることができないので、一部の特権的な権威者たちが、彼らに大いなる嘘を提供し、彼らの無知と幸福を確保するのだという。嘘は、一般大衆が自由――彼らにとっては祝福というよりも、呪い――を放棄するための口実として使われている。大審問官が説明するように、「人間という哀れな生き物は、生まれ落ちるときから授かっている自由の賜物を譲り渡すべき人を、少しでも早く見つけなければならない。この心配ほど人間にとって苦しいものはないからだ。しかし、人間の自由を支配することができるのは、その良心を安らかにする者だけなのだ」(5)。この大審問官の発言において、真実(耐えられない真実ではあるものの)と自由は完全に結びついている。真実――自由という巨大な重荷――は人間の手に余るため、人は嘘を受け入れ、幸福を手にするのである。大審問官の嘘の倫理性は、自由を、一般大衆には受け入れられないものとして退けている。ノーラン作品において展開される嘘の倫理性は、それとは逆方向に作用する。ノーラン作品では、嘘は、自由からの後退ではなく、自由の出現と結びついているのである。
ある意味で、嘘と自由との結びつきは理解しやすいものかもしれない。嘘をつくとき、私たちは、他人から見られている自分と自分が見ている自分との間に明確な区別を作り、それによって自分の内側に(外界からの要求とは別の)自由な空間を生み出すことができるからである。このようにして、嘘は、個人の主体性の表明として機能する。これは、ジャック・ラカンが精神分析の技法について論じた際に述べた点である。彼は言う。「私たちは、語る主体を主体として認めないわけにはいきません。それはなぜか。それは単純な理由から――彼は嘘をつくことができるからです。すなわち、彼は彼が言うこととは異なります」(6)。ラカンにとって、主体性は、言語が作り出す溝――発話する地点と、彼または彼女が言うこととの隔たり――のなかにあるのである。言語が嘘つきを生み出すのだ。自由は、発話する地点(言表行為)と、語る主体が述べたこと(言表内容)が等式で結べない点に存在している。
『メメント』において、レナード・シェルビーの主体性は、彼の妻を殺した犯人を必死に捜し求める(ように見える)行為を通じては現われ出ない。レナードは、この強迫観念が、自分が何者であるかを証明してくれると信じているが、観客である私たちは、それがレナードの自己欺瞞の一部であることを知っている。レナードの主体の単独性(=特異性singularity)は、映画の終わりにおいて、彼が自分自身に嘘をつき、テディを自分の妻を殺した犯人に仕立て上げようとしたときに明らかになる。嘘をつくという彼のこの決断は、主体としての彼の根本的な自由を示している。映画の構造は、最終的にこの嘘へと至るが、この嘘を通じてレナードは、自己原因(causa sui)、すなわち自分自身の存在の起源となるのである。嘘が、探求――映画全体を構成し、レナードに存在理由を与える探求――を生み出している。主体が自分自身に達成すべきプロジェクト――主体を他の存在から切り離し、この分離を価値あるものにするプロジェクト――を与えるのは、嘘によってである。
嘘は、主体と、主体が言うこととの間に区別を生み出すだけではない。嘘は、主体と他のすべてのものとの間に根本的な分離を生じさせる。私たちは、嘘をつくとき、私たちに与えられたままの世界から自分自身を切り離すことで、自らの自由を表明する。真実は、既存のものへの働きかけや、それを整理することに関係している。真実は存在する世界に対して忠実であろうとし、そして同時に、この世界に依存していることを表明している。真実の言明とは、受容と服従の言明なのである。しかし、嘘をつく行為においては、主体は暗黙のうちに、自分がする説明――所与の世界に基づかない説明――に関して責任を負わなければならない。嘘は、完全な責任を生み出し、そしてそれを伴う。なぜなら、嘘は、世界との依存関係から主体を切り離して自由にするからである。嘘をつく主体は、見たことや聞いたことを繰り返すのではなく(それは真実を語るときに起こることである)、所与の世界から離れ、自由に創作する。物語において見出されるフィクションは、素朴な嘘の、手の込んだ形態である。物語が実際の出来事に基づいているとしても、物語の構造自体が必然的にその出来事を歪め、観客をその軛から解放する。時間の圧縮、サスペンスの追加、セリフの変更などのなかに自由が存在しているのである。
映画は、私たちを、映画のフィクションの外にある世界から解放してくれる。そして、この自由は、映画を見る快楽に欠かせないものである。もし私たちが政治的腐敗が蔓延した世界に住んでいるとしても、『スミス都へ行く』(フランク・キャプラ監督、1939年)を見て、買収を断固拒否する真の政治家の存在を信じることができる。最終的に、キャプラの映画は、アメリカン・ドリームの幻想を推奨することで、観客を既存の社会体制に順応させる働きをするが、観客は少なくとも映画を見ている間は、映画館の外にある腐敗した現実を忘れ、一時的に自由になることができる。この一時的な自由が、映画の革新的な可能性を示しているが、それは映画の虚偽性のなかに存在しているのである。
フランク・キャプラとクリストファー・ノーランの映画の間には類似点がほとんどない。キャプラは映画の嘘を使って、既存の社会構造を強化している。彼は、映画の嘘が持つ解放する力を、不自由な状態を作り出すのに役立てている。対照的に、ノーランは、観客に自分たちの自由を気づかせるために、嘘それ自体に注意を向けさせる。彼の映画は、あらゆる映画と同様、一時的な自由を提供するだけでなく、映画館の外でも自由を持続させるような認識――嘘の優位性に対する認識――を生み出すのである。
ノーランは、映画を通じて、嘘の優位性を認識し、それが及ぼす幅広い影響を理解することの重要性を描いている。もしそれができなければ、社会関係がどのように機能しているかを理解することはできない。しかし、ノーランが、嘘の優位性を描くのは、嘘つきで、相手を騙すのが得意な観客を生み出したいからではない。『メメント』のレナード・シェルビーも『インソムニア』のウィル・ドーマーも――ノーラン作品を代表する二人の欺瞞に満ちた人物だが――模範としての役割を果たすことはない。その代わりに、ノーラン作品は、虚偽やフィクションに対する従来とは異なる態度によって、倫理学の新たな概念――真実には虚偽が不可欠であるように、善には悪が不可欠であるという考え――が生み出されることを明らかにしている。映画は、その虚偽的性格を積極的に認めることで、虚偽に基づいた倫理的プログラムを確立することができるのである(7)。
ヘーゲル主義者ノーラン
ノーランのフィクションへの関わりは、歴史的前例がなければ、十全に展開し得なかっただろう。虚偽を通して真実を発見するという考え方は、フィルム・ノワールにおいて顕著に見られるものである。フィルム・ノワールの主人公と観客は、しばしばファム・ファタール(魔性の女)によって騙される自分自身を発見することになる。フィルム・ノワールは、この虚偽によって、当時プロダクション・コード(映画製作倫理規定)によって制限が課されていたにもかかわらず、社会の真実を巧みに表現する方法を獲得した。ノーランは、真実へ至る手段として嘘の優位性を強調することによって、現代の監督のなかで最もノワール的な監督であると言える。それは、『バットマン ビギンズ』や『プレステージ』といった作品――典型的なフィルム・ノワールの物語形式から離れているように見える作品――を製作しているときでさえ、そうである。しかし、ノーランは、虚偽に捕らわれた主人公の外側に観客を置くことを拒否することで、ノワールをさらに展開させている。
ノーラン作品では、真実はフィクションの外側にあるのではなく、その内側にある。フィクションに付き従い、それに最後まで随伴することで、人は倫理的な地点まで到達することができるのである。ノーラン作品は、観客への惑わしを永続的なものにしている。それぞれの作品は、ある嘘を中心にして組織されており、この嘘がフィクションの世界を確立し、観客が積極的にこの世界に関わるよう作用している。『フォロウィング』は、私たちが常に、ある信念――真実が存在し、それが私たちを解放してくれるという考え――に捕らわれている事実を明らかにしている。『メメント』は、嘘をベースにした、真実の探求を描いている。『インソムニア』は、犯罪スリラーとしての様相を呈しているが、この映画では捜査官自体が、捜査の主体にも対象にもなる。『バットマン ビギンズ』は、英雄的行為それ自体がフィクション――私たちがその内側に身を置くことができるフィクション――であることを示している。『プレステージ』は、その主題としてマジック――観客と映画の登場人物の両者を欺くマジック――を扱っている。『ダークナイト』は、悪の見せかけを装っておこなわれる英雄的行為を描いている。『インセプション』(2010年)は、夢というフィクション――そのなかで人は自らの欲望に関する真実を見つけることができる――を扱っている。これらの映画は、映画の基本的な虚偽――映像が現実に成りすますこと――から始まるが、映画はこの虚偽をさらに押し進めていく。これらの虚偽を受け入れることによって、観客は、たんに映画的経験――ノーランが観客に求めている経験――に身を委ねるだけではない。観客は自らの倫理的存在を変えようと努めるのである。
映画の嘘を受け入れるとき、私たちは、映画が提示する世界の現実のなかにどっぷりと浸かる。どのような映画も、程度の差こそあれ、映画のフィクションを現実として提示することによって観客を騙す。ひたすら自らを脱構築していく映画でさえ、自らのフィクション性を――まさにそれを暴き出すふりをすることによって――隠している。映画のフィクションを現実として受け取るとき、私たちは、劇場にいる他の人たちやフレームの境界に対して盲目になる。私たちは映画館の外にある世界を忘れ、それが存在していないかのようなふりをする。この種の没入は、フェティシズム的な否認を表している。私たちは、スクリーンが現実ではないことをよく知っているが、それにもかかわらずそれを現実と見なすのである。映画理論家たちはこれまで、ハリウッド映画のフェティシズムとそのイデオロギー的効果を激しく非難してきたが、ノーランは、私たちが映画の嘘を受け入れることに対して別の側面を見出している。映画の嘘に従うことによって、私たちは、別の場所に現実世界が存在しているという考えを放棄するが、ノーラン作品が示唆しているのは、まさにこういった、別の場所に現実世界が存在しているという考え自体が、私たちが倫理的存在になるのを妨げているということなのである。
真実と嘘、現実とフィクションを完全に分離してしまうことで、私たちは、純粋な真実、純粋な現実といった実現不可能な理想を作り上げる。この理想に従えば、私たちは自らの純粋さを保つために、いつでも不純物を取り除くようにしなければならない。それは、排除する行為と、排除する対象の存在を前提とした理想であり、それゆえ、倫理的にも存在論的にも筋の通らない理想である。しかし、真実を嘘の優位性のなかに位置づけることによって、私たちは、不純物の必要性を認識し、純粋さに含まれる不純さについて理解することができる。こうした手続きは、純粋化の規範とは異なる、別の選択肢を提供してくれる。純粋さと結びついた不純さのなかに身を置くことは、向こう側(beyond)がない世界に身を置くことである。
この意味で、ノーランの映画は、ヘーゲル哲学と深いつながりがある。ヘーゲルは悪名高いほど難解なドイツの哲学者であり、ノーランは広く受け入れられたイギリスの映画製作者だが、両者は哲学的および倫理的プロジェクトを共有している。両者とも、虚偽を自らの出発点にしているが、相対主義に陥ることは拒否している。両者が嘘の優位性に積極的に関わるのは、純粋なものや超越的なものといった考えを避けているからである。ノーランが彼の映画においてそうしているように、ヘーゲルは、どこかに超越的な場所があるという誤った考えから読者を解放するが、彼がそれを完遂するのは、自らが一連のフィクション(偽なるもの)に深く関わり、それらの論理を最終地点までたどることによってである。彼は決してフィクションの外に出て、真実の立場から語ることはなく、あるフィクションから次のフィクションへと変転する哲学的な運動を前景化させる。フィクションが次のフィクションへと移り変わるのは、そのフィクションの論理が破綻したときである。あるフィクションの論理が破綻したとき、真実が現れるのである。ノーランと同様、ヘーゲルにとって、真実とはフィクションの失敗なのである。
フィクションの内側に留まり続けることが、ヘーゲル哲学全体の本質を成している。この哲学の最終目的は、〈絶対的なもの(the absolute)〉に到達することだが、その契機は、フィクションそれ自体の不可避性を認識することである。フィクションが真実の基盤を提供することに気づくとき、人は〈絶対的なもの〉に到達することができる。しかし、そこに到達するためには、一連のフィクション――フィクション性の外にある真実を指し示しているように見えるフィクション――を通過しなければならない。一般的なヘーゲルの批判者たちが考えているように、〈絶対的なもの〉とは、超越的な立場――これまで論じてきたすべてのフィクションの働きを俯瞰できるような立場――を獲得することではない。それはむしろ、哲学者が、フィクション性の外に超越的な場所が存在するという考えを放棄しなければならない地点なのである。真実を求めるとしても、人は必ずフィクションに従わなければならない。
ヘーゲルの『精神現象学』は、一連の誤った原理を探究することによって、それらの虚偽が主体性の構造に関してどのような知識をもたらすかを明らかにしている。最も欺瞞的な原理である、〈感覚的確信〉(「このものがある」という感覚的印象が究極的な真実を与えるという信念)でさえ、次のことを明らかにしている――主体が言語を最小限にしか使用しない場合でも、すでに一般的なもの(普遍的なもの)によって媒介されている。ヘーゲルがこの真実に到達するのは、〈感覚的確信〉の論理をただ忠実にたどることによってである。〈感覚的確信〉が『精神現象学』の出発点になっているのは、それがまさに最も欺瞞的な原理だからである。私たちは最大の虚偽から始め、そこから次第に進んでいかなくてはならない。
ヘーゲルが、彼の哲学全体を通じて示しているように、私たちが真実を見出すのは、フィクションから遠ざかることによってではなく、フィクションに従うことによってである。フィクションの論理には、真実へと至る創造的な力があり、それゆえ、哲学――そして映画――は、簡単にフィクションを放棄することができないのである。私たちが見出す真実には、こうしたフィクションとしての構造が備わっているので、それが現れ出るフィクションから完全に切り離すことはできない(8)。ヘーゲルにとっては、超越的な外部でさえ、それが超え出ようとしているこの世界の一部なのであり、したがって私たちが考える一般的な超越の概念から言えば、超越していない。このように超越的な外部――日常的な世界から切り離された場所――を拒絶することこそが、ヘーゲルとノーランが共有している倫理的および存在論的立場である。
どこかに超越的な場所や外部があるという考えに捕らわれないことは、あらゆるフィクションを理想的な社会から追放したり、神への信仰を捨ててしまうことほど単純なことではない。プラトンも、有名な無神論者リチャード・ドーキンスも、フィクションや神話を放逐することで、それらを超えた現実という考えを維持している。プラトンにとって、超越的な外部とはイデア界であり、ドーキンスにとってそれは、まだじゅうぶん解明されていない、完全に説明可能な科学的世界である。プラトンは、よく知られているように、フィクションの生産者である詩人を彼の理想とする国家から追放し、またドーキンスは、超越的な神への信仰を痛烈に批判しているが、どこかに超越的な場所があるという考えは保持している。たとえ彼らのように真実に固執し、あらゆる虚偽を追放したとしても、超越的な外部があるという考えを捨て去るまでには至らないだろう。それを捨て去ることができるのは、嘘の優位性とフィクションを受け入れることによってのみであり、そうすることによって真実は、嘘の外側というよりも、内側から現れ出るのである。
映画において、真の虚偽は、私たちがスクリーン上に見るものは現実ではないということではなく、スクリーンの外に現実世界があると信じさせることなのである。したがって、批評家が、偽の現実を提示していることに関して映画を非難するとき、実は咎があるのはこれらの批評家のほうなのである。なぜなら、彼らは、フィクションの外に現実が存在しているという誤った考えを固定化しているからである。私たちは、フィクションを去って、現実のなかに入ることはできない。私たちは、フィクションのなかで生活しており、私たちが真実に出会おうとすれば、必ず、ある支配的なフィクションの内側からそうしなければならない。私たちは、人生の大半を映画館のなかで過ごしているわけではないが、それでも毎日、想像上のスクリーンに映し出された現実を見ながら――私たちの世界の見方を形づくる幻想の構造のなかで――生活している。私が言いたいのは、私たちが、まったく真実が存在しない、一連のフィクションの構築物のなかにどっぷり浸かって生活しているということではない。こうした常識的な考え方にも、本当の判断をおこなう外側――文化的な構築物を調べ、それらをそれ自体として観察できる地点――が暗黙のうちに想定されている。さらに、社会構築主義も、外部の存在――社会的な構築物を構築物として観察できる地点――を前提とすることで、フィクションから逃れようとする別の試みである。
私たちが、映画の幻想の構造のなかに身を投じるのは、その幻想性の意味をつかみそこねているからではなく、まさにその意味をつかんでいるからである。もし私たちが、幻想の外部――現実的な意味を持つ現実世界の存在――を信じていれば、自らが捕らわれている構造を変えるために行動を起こすことはない。真実は嘘の外側にあるというという考えは、永遠に嘘のなかで生きるよう、私たちを運命づける。私たちが嘘を免れるためには、逆説的だが、すべては嘘であり、スクリーンの外に現実はないという考えを受け入れるしかない。そうすることによって初めて真実がフィクションのなかから現れ出る契機が浮上するのである。
クリストファー・ノーランは、小さい頃から映画のフィクションに慣れ親しんできた。彼は7歳で8ミリカメラを使って映画を作り始めた。おそらく、こうして早くから映画製作を始めたことで、彼は、現実に代わる幻影としてではなく、存在するすべてとして映画にアプローチすることが可能になったのである。もちろん、ノーランにも映画以外の生活がある。結婚して、子どもがいて、イギリス文学に対しても深い愛情を持っている。しかし、彼の映画が示しているのは、完全性を備えた映画のフィクションへの全的な没入である。フィクションの外側を拒絶することが、すべてのノーラン作品を通じて明らかになる暗黙の倫理である。
スクリーンの向こう側に真の現実があるという慰めがなければ、私たちは、自らの存在を完全に変えてくれるような真実をいつの日か手に入れるという希望を失うことになる。しかし、私たちは、自分たちの生活のありふれた日常性から逃れるという希望を失うと同時に、日常性のなかにある自由を手に入れることができる。フィクションの領域こそが、私たちの闘いの場所である。すべての政治的変革はそこで起こる。私たちを、この唯一の場所――フィクションの領域――に留まらせることが、クリストファー・ノーランの映画のプロジェクトである。
註
- Jacque Lacan, “Le séminaire XXI: Les non-dupes errent, 1973-1974,” unpublished manuscript, session of January 15, 1974.
- Theodor Adorno, Minima Moralia: Reflections from Damaged Life, trans. E. F. N. Jephcott (New York: Verso, 1978), 25.〔テーオドル・W・アドルノ『ミニマ・モラリア/傷ついた生活裡の省察』三光長治訳、法政大学出版局、1979年〕
- Robert A. Rosenstone, History on Film/Film on History (New York: Longman/ Pearson, 2006), 47.
- Jonathan Beller, The Cinematic Mode of Production: Attention Economy and the Society of the Spectacle (Hanover, NH: Dartmouth College Press, 2006), 260.
- Fyodor Dostoevsky, The Brothers Karamazov, trans. Richard Pevear and Larissa Volokhonsky (New York: Knopf, 1990), 254.〔ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(第一〜四巻)米川正夫訳、岩波文庫、1957年〕
- Jacque Lacan, The Seminar of Jacques Lacan, Book I: Freud’s Papers on Technique, 1953-1954, trans. John Forrester, ed. Jacques-Alain Miller (New York: Norton, 1988), 194.〔ジャック・ラカン、ジャック=アラン・ミレール編『フロイトの技法論』(上・下)小出浩之ほか訳、岩波書店、1991年〕
- ジャン=ミシェル・ラバテは、嘘の倫理性について明らかにする過程で、嘘は真実以上に啓発的であると主張している。彼によれば、「私たちが真に学ぶことができるのは、自分の嘘や誤り、そして他人の嘘や誤りからだけである」。Jean-Michel Rabaté, The Ethics of the Lie, trans. Suzanne Verderber (New York: Other Press, 2007).
- ラカンは、精神分析の倫理について論じたセミネールVIIのなかで、真実に関してヘーゲル的な立場を採用している。これ以前のラカンは、あらゆるフィクションを、真実へと向かわせる暗黙の訴えと見なしていたが、セミネールVIIでは正反対の立場を定式化している。彼は言う。「あらゆる真理はフィクションの構造を持っている」。Jacques Lacan, The Seminar of Jacques Lacan, Book VII: The Ethics of Psychoanalysis, 1959-1960, trans. Dennis Porter, ed. Jacques-Alain Miller (New York: Norton, 1992), 12.〔ジャック・ラカン、ジャック=アラン・ミレール編『精神分析の倫理』(上・下)小出浩之・鈴木國文・保科正章・菅原誠一訳、岩波書店、2002年〕
※ウェブ掲載に際し、一部表記を改め、本文のルビと原註の一部を割愛した。
(「イントロダクション|嘘の倫理学」了 このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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