はじめに
映画の魅力に取り憑かれ、研究者となったが、映画に対する関心の中心にはつねにジェンダーやセクシュアリティの問題があった。どんな映画作家の、どんな映画作品を見ていても、それが気にならなかったことはない。そうして映画に接していくうちに、テーマとして直接扱われていないときでも、ジェンダーやセクシュアリティはつねに映画のなかやその周囲に存在していることが、少しずつだがはっきり見えてきた。
当たり前のことだが、人は、ジェンダーやセクシュアリティのみでできているわけではないし、それによってのみ生きているわけでもない。わたしたちのアイデンティティは持続するとは限らず、時間と場所によって変化することもあるし、状況によってある部分が強く意識されたり、後景に退いたりすることもある。そうしたアイデンティティのひとつであるジェンダーと映画の関係を考えてみると、フェミニスト映画理論はすでに1970年代から、「女性」にまつわる多くの映画的事象――女性のイメージ、女性映画作家、女性観客、「女性映画」など――に取り組んできた。そして、フェミニストたちが部分的におこなってきた映画とセクシュアリティに関する研究は、レズビアン/ゲイ・スタディーズとの接合によって本格的に始動し、本書のテーマであるクィア・シネマに関する理論や批評へと引き継がれてきたといえる。
映画の内部やその周縁で、セクシュアリティがジェンダーや人種、階級と交差する様態を探求してきたクィア・シネマ研究の強みはその「雑種性」にある。不純で混沌としていて、ときに矛盾する考えや議論がクィア・シネマ研究を異質で、奇妙で、容易に手なずけることのできない分野として活気づけているように思われる。分類や名づけに抵抗するものとしての「クィア」が「シネマ」に接続されて「クィア・シネマ」となるとき、それについて語ることは、アイデンティティや欲望の複雑さや両義性を欠点ではなく、むしろ社会的で文化的な葛藤や折衝の痕跡として価値あるものとみなすことを意味しているのではないだろうか。
分析の対象や方法、テーマにいたるまで、本書でもそうしたクィア・シネマの雑種的性質がいかんなく発揮されている。作家論、作品論、観客論やスター論が入り混じり、映画的実践と経験が、アクティヴィズムへと連結され、「コミュニティ」を生成する可能性について考えたのが本書である。クィア・シネマを論じるスタイルのひとつとして、不純な「雑種性」を読者の方々にも面白がってもらえたらうれしい。
『クィア・シネマ』は、2011年から2022年にかけて雑誌や共著に発表してきた文章を大幅に加除修正したものに、書き下ろしの三本を加えた書籍である。英語論文を日本語に翻訳したものも二本、含まれている。それらを大きく四つのカテゴリーに分類し、整理し直した文章から本書は構成されている。以下に、各章の内容を簡単に説明しておく。
第1部「映画文化とクィア・スタディーズ」は本書全体の導入部分となっている。「クィア・シネマの場所――歴史を変えるために」では、クィア・シネマの現在がつねに過去や未来とともにあることを強調しながら、クィア・シネマをアナクロニズムという時間的錯誤によって特徴づけようとした。クィア・シネマが(再)発見されるきっかけとなったのは1990年代初頭に出現したニュー・クィア・シネマ(以下、NQC)であったが、本章では、エイズ禍と文化戦争を背景に誕生したNQCや、ニュー・レズビアン・シネマについて具体的な作品を参照しながら論じている。「クィア・シネマを知るために――クィアの理論と歴史」では、クィア・シネマという企図と密接に結びついたクィアの理論と歴史を「アイデンティティ・ポリティクス」、「インターセクショナリティ」、「コミュニティ」という三つのテーマから論じている。「クィア・シネマの可能性――映画の外側へ」では、クィア・シネマのアクチュアリティを考えるために、クィアが「シネマ」と呼ばれてきた制度を超えて他の制度やジャンルと接続され、浸透し合う例として、現代アートやBLを取り上げた。
第2部「クィア・シネマの再発見」は、アメリカ合衆国およびフランスの映画作品、映画作家、スターについての章からなっている。「ヒッチコック問題――『レベッカ』と『マーニー』をめぐるフェミニスト/クィア批評」では、アルフレッド・ヒッチコックの『レベッカ』(1940)、『マーニー』(1964)の作品と批評言説をフェミニズムおよびクィアの視点から分析している。「ハイスミス映画のクィアと逸脱――冷戦下のホモセクシュアリティ」では、パトリシア・ハイスミスの小説を原作とする『見知らぬ乗客』(1951)と『キャロル』(2015)を取り上げ、それらが冷戦を背景に、クィアと法、逸脱をどう結びつけているかを考察する。「ヘプバーンの脆弱さと自由――『ローマの休日』から『噂の二人』へ」は、オードリー・ヘプバーンのクィアな魅力とフェミニスト的でレズビアン的な可能性について論じたものである。
『ローマの休日』(1953)をはじめとする1950年代の作品でヘプバーンが体現するクィアでフェミニスト的な人物の意味を探ると同時に、従来「悲劇のレズビアン映画」の代表作とされてきた『噂の二人』(1961)を、レズビアン的未来に開かれた作品として読み直している。「ジュディ・ガーランドを愛するということ――キャンプ、ドラァグ、フェミニズム」は、ジュディ・ガーランドが「ゲイ・アイコン」になった理由を探りつつ、そのハリウッド的女優規範から逸脱する身体性やパフォーマンスによって、フェミニスト的でレズビアン的な「キャンプ」を体現したことを論じている。「時間の映画――グザヴィエ・ドランのスローモーション」は、スローモーションという技法を偏愛するグザヴィエ・ドランが、いかに映画的時間についての実験をおこなっているかを考えたものである。「最愛の夫―― ヴァルダの「ドゥミ映画」を読む」では、アニエス・ヴァルダによる、(夫ジャック・ドゥミを主題とした)「ドゥミ映画」を取り上げ、ヴァルダによるドゥミのセクシュアリティの表象について論じている。「話者の遍在――『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』における移民/クィアのコミュニティ」は、フレデリック・ワイズマンの『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』(2015)に描かれた移民とクィアのコミュニティの交差について論じている。「水平の美学――セリーヌ・シアマによる親密性の技法」は、セリーヌ・シアマが生み出す「固有」のクィア・シネマを、水平な視線やカメラの横の動きによる「視覚的平等性」という観点から考察している。
書き下ろしとなる「『ウォーターメロン・ウーマン』とオルタナティヴ・ヒストリー――黒人女性映画とレズビアニズムの邂逅」では、黒人レズビアンをテーマにした初めての長編劇映画とされるシェリル・デュニエの『ウォーターメロン・ウーマン』(1996)を取り上げる。NQCの代表的作品とも称されるこの作品が、黒人女性のステレオタイプや、異人種間の親密な関係、そしてアーカイヴなどを焦点化しながら、これまで語られてこなかった黒人レズビアンの映画史を書き直していることを論じたものである。
第3部「クィア・シネマとスターたち」は、日本と沖縄を舞台にした映画について書かれた文章からなる。スターと作品を中心に論じつつも、多くが作家論や観客論の側面を持っており、その意味で、最もクィア・シネマの雑種性が感じられるセクションとなっているように思う。取り上げたのは、淡島千景、浪花千栄子、原節子、キャサリン・ヘプバーン、美輪明宏といったスターたちとその映画作品である。
「パンパン、レズビアン、女の共同体――女性映画としての『女ばかりの夜』」は、売春防止法の施行を歴史的背景にもつ田中絹代監督作品『女ばかりの夜』(1961)のレズビアン表象に焦点を当てながら、女同士の差異が前景化される共同体を描くこの映画を「女性映画」として位置づけている。「人種化される欲望――三池崇史と「沖縄」をめぐる映画的想像力の一考察」は、三池崇史監督作品『BLUESHARP』(1998)が沖縄という「風景」を創出することによって、いかに「ホモセクシュアルな欲望」を人種化し、それによってやくざ映画の公然の秘密を露呈させたのかを論じている。「『女であること』と、川島雄三であること――川端康成と丸山明宏が出会う場所」は、川端康成の小説を原作とする「最も川島らしくない」川島作品である『女であること』(1958)を取り上げている。(川端がしばしば官能的に描いた)少年のような少女(久我美子)と原節子演じる年上の女性との間に生じる同性愛的欲望が、歌手として登場する丸山明宏(美輪明宏)による「女であること」のパフォーマティヴな効果に重ね合わされている。「クィアな共振――美輪明宏の映画スターダム」は英語で書かれた論考を日本語に翻訳したうえで、大幅に加筆修正した美輪明宏論である。クィアな映画スターとしての美輪明宏を考えるうえでは、イメージのみならずその声について考えることが欠かせず、また1960年代の政治と文化の交差が最も可視化された空間である「新宿」の重要性を強調している。「連累の観客論――原節子とクィアなジョーク」もまた英語で書かれたものを日本語に翻訳し直したものだが、原節子とキャサリン・ヘプバーンについてのスター論であるとともに、レズビアン観客論でもある。フロイトによるジョーク理論とイヴ・セジウィックによるホモソーシャルな欲望の理論を重ね合わせて『麥秋』(1951)のジョークにアプローチすることによって、この作品が召喚するクィアネス(クィア性)について考察している。「ゴシップ、あるいはラディカルな知――高倉健のスター・イメージ」は、高倉健の「ゲイ説」を取り上げ、ゴシップの意味を再考しながら、映画スターのゲイ・ゴシップがコミュニティ形成に果たす役割について考察している。
クィア・シネマにおいてスターを論じることは、多くの場合、スターを愛する観客について論じることであり、また観客について論じることは、観客が属するコミュニティについて論じることでもある。第2部で取り上げたジュディ・ガーランドのように、日本のクィア・コミュニティにとっても、映画とスターは特別な重要性をもっているのである。
第4部「クィア・シネマと上映空間」は、映画祭を中心に、アクティヴィズムやコミュニティの問題を考察している。「政治的なことは映画的なこと――1970年代の「フェミニスト映画運動」」では、1970年代の第二波フェミニズムにおける映画運動を分析しながら、女性映画祭がいかにしてフェミニズムと映画の結びつきを可視化し、「フェミニスト映画空間」と呼ぶべき公的空間を創造したのかを論じている。「クィア・LGBT映画祭試論――映画文化とクィアの系譜」では、日本の地方都市で開催されるLGBT映画祭が、地域のアイデンティティを捨てることなく、クィアな主体として日常を生き抜くための「微弱な」アクティヴィズムとして機能し、ゆるやかなコミュニティ形成を促すことを論じている。この試論を発展させたのが「コミュニティを再考する――クィア・LGBT映画祭と情動の社会空間」である。映画祭という場がいかに情動的経験によって創造され、社会関係と身体とによって織りなされる社会空間となるかを考察しながら、従来の「都会と田舎」の二分法に依拠したコミュニティ概念を批判的に再考している。
『クィア・シネマ』という本書のタイトルには、作家と作品、スターと観客、アクティヴィズムとコミュニティを分けることを拒む雑多で雑種的な方法論への愛着と、映画をめぐる実践と経験を個人的なものとしてだけでなく、集合的なもの(シネマ)として位置づけたいという願いが込められている。「世界と時間に別の仕方で存在するために」というサブタイトルは、アメリカ合衆国のクィア理論家であったホセ・ムニョスが『クルージング・ユートピア』において論じた「未来性としてのクィア」に触発されている。この本のなかで、ムニョスは、クィアネスを「過去の可能性」の領域であるような時間的配置であるとし、この可能性の領域において、わたしたちは「未来」のために「現在」において行動することができるのだと語った。「今、ここ」が十分ではないからこそ、わたしたちは、別の世界、別の時間を再想像しなければならないのだ、と。
ムニョスにならって、また、本書でも論じている『ウォーターメロン・ウーマン』が示しているように、希望としての、未来性としてのクィアネスを考えてみたい。それは、過去と未来が潜勢している現在を決して空疎化させないことである。直線的に進歩し、発達する規範化された時間の流れに背を向けて、過去と未来が共存する複数の時間である現在において、ゆっくり動いたり、立ち止まったりしながら、あるいは不規則に反復したり、循環したりするクィアなリズムによって、本書を読んでいただけたなら、これ以上の喜びはない。
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。