訳者あとがき
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本書はLawrence Venuti, The Scandals of Translation: Towards an Ethics of Differenceの全訳である。
著者のローレンス・ヴェヌティは1953年生まれ。コロンビア大学で博士号取得後、テンプル大学で40年にわたって教鞭をとった。現在はテンプル大学名誉教授。アメリカの翻訳研究の第一人者とされ、来日経験もある。本書はヴェヌティの主著のひとつとして、広く参照、引用されてきたものであり、ヴェヌティの初の邦訳書になる。
本書で著者が暴く「翻訳のスキャンダル」とはなにか。それは世界の文化、政治や経済を覆う不均衡だ。世界で流通する翻訳のうち、英語からの翻訳が圧倒的な割合を占める反面、英語への翻訳は少なく、全書籍の3パーセント以下である。そして、その割合としては少ない翻訳においても、英訳はさまざまな制約や制限をうけてしまう。本書で著者はその不均衡を――翻訳が文化にとりこまれ、あるいはとりこまれたように見せて文化を改変する様子を――克明に描き出している。
以下にヴェヌティの主要な著作をあげておく。『翻訳研究読本』など、北米の大学で翻訳研究の標準的な教科書として使用されているものもある。
Rethinking Translation: Discourse, Subjectivity, Ideology(編著、翻訳研究の論集。1992年)
The Translator’s Invisibility: A History of Translation(初版1995年、第2版2008年、第3版2019年)
The Scandals of Translation: Towards an Ethics of Difference(本書。1998年)
The Translation Studies Reader(編著、ヒエロニムスからデリダまで、翻訳論のアンソロジー。2000年、第2版2004年、第3版2012年、第4版2021年)
Translation Changes Everything: Theory and Practice(2013年)
Teaching Translation: Programs, Courses, Pedagogies(編著、翻訳教育についての論集。2017年)
Contra Instrumentalism: A Translation Polemic(2019年)
なお、ヴェヌティの文章で邦訳があるものに、
ローレンス・ヴェヌティ「ユーモアを訳す――等価・補償・ディスコース」鳥飼玖美子訳、鳥飼玖美子・野田研一・平賀正子・小山亘編『異文化コミュニケーション学への招待』みすず書房、2011年、434-454頁。
がある。
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ヴェヌティの名を一躍知らしめたのは、1995年に出版された『翻訳者の不可視性――ある翻訳の歴史』The Translator’s Invisibility: A History of Translation であり(未訳)、そこで提出された異化/ 同化 foreignization / domesticationという概念だった。
翻訳を「著者に忠実な訳」か「読者に歩みよった訳」のどちらにするかという問題は新しいものではなく、本書でも紹介されるように少なくとも19世紀初頭のドイツでフリードリヒ・シュライアーマハーが提唱した定義にまでさかのぼれるものだが、ヴェヌティはそこに言語による権力構造を持ちこみ、異化/同化 foreignization / domestication という対概念として鋳なおした。強大な、主流の/支配的な言語は(たとえば英語)は、翻訳のプロセスにおいて、外国のテキストを自文化の価値観に従属させてしまう。「ある翻訳の歴史」と題された同書において、ヴェヌティは歴史をさかのぼって、いかに翻訳や翻訳者が徹底的に不可視化されてきたかを暴いてみせた。
本書『翻訳のスキャンダル』でもこの「異化/同化 foreignization / domestication」という概念は鍵となる。この用語自体は本邦でも専門家のあいだではある程度流通しているが、単に前者を「ぎこちない直訳」、後者を「なめらかな意訳」と解して使用している例も多い。だが、ヴェヌティによる原意はそれだけではないのだ。同化とは訳文のみならず、作品選定やプロモーション、パッケージなど、さまざまなレベルで働き、外国のテキストを国内の主流の価値観に阿らせる圧力なのである(逆に言えば、流通している以上、まったく同化の要素のない翻訳もありえないことになる)。異化とは同化に抗して、受け手の文化規範において摩擦を生む翻訳のことである。この異化によって、読者は翻訳の中にナルシスティックな自己像ではなく、真の他者の姿を見つけることが可能になるのだ。
誤解されがちなのだが、ヴェヌティは単に「なめらかな訳」を批判しているわけではない。むしろ、読者にとっての可読性は重視されている。翻訳する側の規範に全面的に服従してしまい、異質なもの、新しいものをなにも提示しない翻訳(プロジェクト)が問題なのだ(こういった翻訳は特に英米圏では読者に「翻訳が翻訳であること」を意識させず、結果的に翻訳/翻訳者を「不可視化」してしまう)。ゆえに、一見なめらかな訳であっても、翻訳する側の文化状況や、翻訳される側の作品や文化の地位によっては十分に異化的な作用を持ちうることになる。翻訳者は出版や学術といったさまざまな制度の中で交渉し、異質なものをもちこむことで自国の文化を変革しなくてはならない。それこそが本書の提唱する「差異の倫理」であって、翻訳者の使命なのだ。
このようにforeignization / domestication は本書においても重要な位置を占める鍵概念なのだが、同時に本書を翻訳するうえで、訳者を悩ませた問題でもあった。本概念はこれまでも「内国化/外国化」「受容化/異質化」など訳者や論者によってさまざまに訳されてきた。またこの語はヴェヌティの造語ではなく、それ自体意味をもつ語であって、名詞としてのみならず、動詞や形容詞としても使用されるため、あつかいが難しい。本書では日本語としての座りのよさを重視して「同化/異化」とし、章の初出や関連する語の登場時には読みづらくならない程度にルビを付して、注意を喚起することにした。読者の了解を願う次第である。
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『翻訳者の不可視性』のエピローグは「行動への呼びかけ」と題され、以下のように締めくくられている。
今日における翻訳者の不可視性は、文化の地政学的経済をめぐる厄介な問題を提起している。これに立ち向かうためには、翻訳に今まで以上に疑いの目をむけることが緊急に必要である。しかし、私がここで奨励している疑念は、翻訳の力に対する一種ユートピア的とでも言えそうな信仰を前提としている。この力は、国内における新しい文化形態の出現だけでなく、国外における新しい文化関係の出現にも変化をもたらすものだ。翻訳者の不可視性を認識すれば、現状の批判と同時に、翻訳者が交渉しなければならない差異を今よりも受け入れてくれるような未来を希望することにつながるのだ。
つづいて刊行された本書『翻訳のスキャンダル――差異の倫理にむけて』は、そのようなさまざまな「交渉」が描きだされている。
たとえば第四章「文化的アイデンティティの形成」では、日本文学の英訳事情が取り上げられている。戦後、エドワード・サイデンスティッカー、ドナルド・キーンといった米国人日本学者が翻訳した日本近代文学は、一部のアカデミシャンの価値観を反映したものだった。その谷崎・川端・三島のいわゆる「ビッグ・スリー」は――日本学者のエドワード・ファウラーいわく――冷戦下の同盟国としてののぞましい日本像を提供するものでもあった。
90年代に商業的な成功をおさめた吉本ばななの英訳は、その政治性の欠落から批評家マサオ・ミヨシによって批判されたが、ヴェヌティはそれを日本文学の多様性を欧米の読者に開示するものとして再評価する。ここでヴェヌティは触れていないが、もちろんこのオルタナティブな日本文学受容の延長線上に村上春樹の爆発的なヒットがある。村上春樹作品は商業的な成功をおさめると同時に、ハーヴァード大学教授ジェイ・ルービンの英訳によって正典化し、エージェントが第二のハルキ・ムラカミを求めるという事態が起こった。2020年代の現在はハルキ的なものにおさまらない新たな日本文学の紹介が進行中の時代だろう。
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ヴェヌティの論の特徴として、翻訳研究を、広く人文学的な文脈に接続した点が挙げられるだろう。本書で参照される文献も、(ポスト)マルクス主義や構造主義、ポストコロニアリズムまで多岐におよぶ。これは本書が翻訳の背後に潜む権力構造を暴くことを狙っている以上、当然でもあるのだが、結果として翻訳研究を広義のカルチュラルスタディーズの文脈に置くことになった。いずれにしても、その記号的ではなく、叙述的なアプローチは、以降文学研究において翻訳をあつかううえでも影響をあたえた。
またこれも本書の対象が言語文化間のグローバルなヒエラルキーである以上、避けがたいことでもあるのだが、ヴェヌティは、議論の射程を西洋にとどめず、フィリピンやアフリカ、中国や日本にまで対象を広げている。その際、英訳や専門家による研究の参照、あるいは英訳同士の比較といった手法をもちいることで、通常原文と訳文に密着しなくてはならないと思われがちな翻訳研究を拡大している。こういった方法論は本書の刊行後2000年代以降に活発になった世界文学研究とも相通じるところである。
もちろん議論の弱点も共有しており、日本文学についての記述なら日本文学者エドワード・ファウラー、中国文学なら中国文学者李欧梵の著作に主に依拠しているのだが、その内容を批判的に吟味することはできていないため情報に偏りがある。日本においても国外に文学を輸出するうえで文学者の側からさまざまな動きがあったはずだし、中国においても訳者はかならずしもイデオロギーに突き動かされてのみ翻訳をしていたわけではないだろう。
しかしそういった点を割り引いても、本書の文学研究への貢献は大きく、たとえばデイヴィッド・ダムロッシュによる『世界文学とは何か?』も本書を参考文献のひとつにあげている。
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ヴェヌティの論のもうひとつの特徴として、翻訳者としての姿勢をかなり前面に打ち出している点が挙げられるだろう。英米の翻訳理論家や翻訳研究者はかならずしも翻訳実践者というわけではなく、翻訳をしていたとしても(日本の外国文学者の基準に照らして)量的にはさほどではないことも多いのだが(これは翻訳が学術業績としてほとんど評価されない慣行にもよるところが大きい)、ヴェヌティは早くから翻訳家としても活動し、イタリア語の文芸作品の英訳を中心に相当数を手がけている。またその翻訳にたいして、グッゲンハイム・フェローシップほか、国内外のさまざまな賞を受賞している。
ヴェヌティが翻訳者が不可視化されていると非難し、同化翻訳を押しつけてくる制度を糾弾するのも、翻訳実践者としての実感によるところも大きいのだろう。第八章「グローバリゼーション」では具体的な数字を提出したうえで、「英米の出版社は翻訳をほとんどしない」と述べるのだが、この状況は少なくとも数字の上では2022年もあまり変わっていない。英米の出版物における翻訳の割合は依然として3パーセントを切ったままである(とはいえ、近年は小規模なインディペンデント系出版社による外国文学の出版などポジティブな要素もある)。
またその翻訳者のおかれた周辺性は大学教育のような制度の中ですらそうなのだ。たとえば第五章「文学の教育」で、翻訳研究のプログラムが大学教育で周辺に追いやられていることが指摘されるが、近年プログラム自体の数は大きく増加したものの、その周辺性という点において2022年の現在でも本質的には変わっていないようだ*1。
第三章「著作権」で、ヴェヌティは出版から5年を経過した著作物は版権なしで翻訳できるようにしたらどうかという提案をおこなうが(これはかつて日本に存在した十年留保をさらに短縮したものだ)、個人的には日本でもこれぐらい思い切った手を打たなければ、多様性のある、健全な翻訳文化は育たないのではないかと思うこともしばしばである。版権の不要の「古典新訳」はいい手段のようにも映るが、初訳作品とのバランスを欠けば、正典の権威をいたずらに高め、制度の硬直化を生むだろう。
2013年、私はハーヴァード大学で開催された世界文学研究所(IWL)のサマースクールで、幸運にして本書の著者ヴェヌティのゼミに参加することができた。トゥーリーやナイダ、ベルマンなど翻訳理論を一通り学ぶクラスで、講師の説明と発音の明晰さだけでなく、授業が終わったあとの雑談時に、ヴェヌティ先生が「カタルーニャ語の詩を訳したんだけど、出版社から断られちゃってね……」とこぼしていたのが印象に残っている。
*1 翻訳家デヴィッド・ボイド氏とのやりとりによる。
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本書の出版は1998年だが、本書が指摘する不均衡は大勢において変化しないどころか、なお強まっているというのが現実だろう。
「翻訳大国」とかつて呼ばれ、欧米に比して翻訳者の地位が総じて高かった日本においても、この「スキャンダル」は無縁ではない。そもそも日本では翻訳書の新刊書に占める割合が10パーセントを切って久しい。2004年の翻訳書の刊行点数は5,721であり、これは書籍全体の7.7パーセントでしかない。これは英米よりは高いもののフランスやドイツといった欧州の国々よりも低い(これは日本の出版点数があまりにも多すぎるせいもあるが)。なお翻訳書の刊行点数は近年さらに減少傾向にあり、2019年には4,081点、割合にして5.7パーセントまで急減している。出版不況のため、翻訳者の報酬は低い水準で抑えられており、「文芸翻訳者」という職業自体が成立しづらい状況がある。
さらに問題は日本の翻訳書の多くが英語からの翻訳だという点である。たとえば翻訳書のうち最大のジャンルである外国文学小説のうち、8割を英米文学が占めている*2。それ以外の言語からの翻訳はプロモーションなどさまざまな点で忌避されやすい。当然ながら日本において、邦訳である程度の「文脈」を把握できる同時代の外国文学は、英米圏が中心になる(現在、英米に次いで身近な現代外国語文学はスペイン語圏の文学だろう。最近では韓国文学がこれを猛追している)。「その他の外国語」の文学の紹介はどうしても単発になり、たまに翻訳されてもすぐに膨大な出版点数の洪水の中に消えていくしかない。これでは「国内の価値観」になんらかのインパクトをあたえることはむずかしいだろう。
学術においては英語偏重はさらに重大な問題であり、本書――北米の研究者の英語による著作――の翻訳自体、そのようなヒエラルキーの軛から無縁ではない。しかし残念ながら、欧米の重要文献が指をくわえていても翻訳されていたのは90年代前半までの話で、人文学においても一部の分野をのぞいて研究書の翻訳は採算面から専門的出版社すら忌避する傾向が強まっている。本書のような「古典」が現在まで翻訳されないでいたことがその何よりの証拠だろう。
また日本における英語中心主義とも関連するのだが、日本で翻訳といえば、まずもって英文和訳のことであって、「翻訳論」とは名英訳者がいかにこなれた名英訳をするかという技術論や精神論だったりすることも少なくない。これは大学でもそうで、たとえば翻訳研究や翻訳論のコースがあったとしても、担当しているのがとりたてて翻訳研究を学んだわけでもなければ、その分野でアカデミックな業績もない英文専攻の教員だけでは、翻訳という現象の多様性や深さを教えるのはむずかしいだろう。
世界的な潮流である英語中心主義とパラレルな関係にある国内的な言説が再生産される一方であるようにも見える昨今、本書のもつ意義は少なくない。
*2 日本の出版に関するデータは『出版指標年報 2021年版』(全国出版協会出版科学研究所)より。
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本書の翻訳は訳者二名でおこなった。各章の担当を決め、月に一、二度ミーティングを開催して、内容についての理解を深めながら訳文を叩きあった。以下にそれぞれの担当章をあげておく。
秋草=序章、二章、四章、五章、八章、索引。
柳田=一章、三章、六章、七章。
本書の内容は多岐にわたるため、訳文については専門家に教えを乞うた部分もある。上原究一、田中創、山辺弦の各氏である。特に上原氏はヴェヌティの引用元が中国語の数か所に関して、部分的に訳文を提供してくださった。記してお礼を申し上げる。
最後になったが、編集者の薮崎今日子さんに御礼申し上げる。面識のない訳者による本書の持ちこみを受けいれてくださり、企画として成立させてくれた。著者や訳者だけでなく、編集者の力ぞえもあってはじめて翻訳書は世に出、結果として本書が提言する「差異の倫理」は実現するということを忘れないようにしたい。
2022年2月
訳者を代表して
秋草俊一郎
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