イントロダクション
俳優にとって、演技に必要なものは何でしょう? この問いに対して、誰もが固い信念や、意見をおもちだと思います。私の場合、考えがまとまったのは、ごく最近。でも、すべての考えがはっきりつかめたわけではありません。私は演劇ひとすじに生きてきたけれど、まだまだ勉強中。アーティストは、限りなく成長していけるのです。「天性の素質がなければ、俳優になれない」「俳優は、勘に頼って演技をしているだけだ」「演技は直感でやるものだ。教えることはできない」。そんな意見を唱える人々もいます。短い間でしたが、私も同じように思っていました。素質があれば、演技をするのに努力や訓練など要らないのだろう、と。言い換えれば、他の人たちと同じように、私も演技に敬意リスペクトをもっていなかったのです。
演じることにも、技術が必要
「生まれつきの才能がなくちゃね」と言う人々も、発声や身体トレーニングの価値は認めるでしょう。演技の訓練といえば、発声や滑舌練習しか目につかない、思いつかない人が多いのです。声の出し方と身体の動きを訓練したら、観客の前で演じる。いい俳優になるには、そうするしかない、という考え方をしています。これは、小さな子を池に放り込み、「溺れたくなかったら、泳げ」と言うようなものではないでしょうか?
そんなことをしたら、子どもは溺れます。また、舞台に出たからといって、全員が演技上手になれるわけでもありません。
器用にアドリブができる若いピアニストは、ナイトクラブやテレビで人気者になれるかもしれません。でも彼は、ベートーベンのピアノ協奏曲には手を出さない。自分の指では無理だと知っているからです。発声訓練が足りない「ポップ」歌手も、同じです。バッハのカンタータを歌ったら、声帯が裂けるかもしれません。ダンスの初心者が、いきなり『ジゼル』を踊れば、アキレス腱を切るかもしれません。その人の技術に合った演目を選ぶことが大事です。そうしなければ、いずれ協奏曲やカンタータ、ジゼルをやろうかという日が来た時に、「これは、無理して身体を壊した演目だ」という記憶だけが思い出されてしまうでしょう。
ところが演劇では、技術の有無を考えることがありません。若い俳優が、いきなり『ハムレット』を演じてやろうと飛びつきます。ハムレットをやるだけの技術ができるまでは、自分を壊し、ハムレットを壊すことしかできません。
つまり、演劇だけが、俳優の技術を軽く見ている。なぜそんな風潮かというと、素人たちがこぞって皆、いっぱしの批評家きどりでいるからだ。そんなふうに思えます。音楽の素人は、ヴァイオリン奏者の弓使いがどうだと語ったりはしません。美術の知識がない人は、パレットがどうだ、ブラシ使いのテクニックがどうだと評価をしません。力が入るとアントルシャ[体を垂直にして跳躍し、空中に跳び上がっている最中に両足を交差させるクラシックダンスの動き]がうまくいかないんだよね、などと語るバレエ素人もいない。なのに俳優の演技には、誰もが茶々を入れたがる。親戚のおばさんも、芸能事務所のエージェントも、楽屋に来ては俳優にアドバイスをしたがります。「もっと泣いた方がよかったんじゃない?」「あなたは椿姫なんだから、口紅をもっと濃くすれば?」「はっと驚く時、もう少し大げさに演技したら?」。また悪いことに、俳優はそれらの声に、すなおに耳を傾けてしまう。そして、演技には技術や技能なんて関係ないんだと、ますます思い込んでしまうのです。
「泳げないなら、溺れろ」式の演劇界で、大成した天才たちもいます。ただし、彼らは天才。迷った時、行くべき道を本能的に見つけられる人たちです。私たちは、そんな資質に恵まれていないかもしれない。かといって、「やるだけやって、ダメだったら仕方ない」的な古い考えでは、成長もできません。演技力を伸ばすことは、きっとできるはずなのです。
優れた技術は、目に見えない
私の理想は、ローレット・テイラー[1884〜1946年]のような俳優です。『Outward Bound(異国への旅立ち)』という舞台劇で、彼女はミジェット夫人という役を演じていました。彼女の演技は、とても理屈では語れないほどいきいきしていました。彼女の演技から何かを学びたい! ミジェット夫人や『ガラスの動物園』のアマンダ役を演じる彼女を見に、私は足しげく劇場に通いました。ところが、自分にとって何が参考になったか、さっぱりわからないのです。それほどまでに、彼女の演技はリアルなのでした。私はすっかり引き込まれ、彼女の技術を客観的に分析する余裕などなかったのです。年月がたち、ローレットの伝記が出版されました。彼女の娘、マルグリット・コートニーが記したものです。私はわくわくしながら、ページをめくりました。19世紀末、ローレットはすでに、役づくりに必要な項目を分類していたそうです。当時の私にも、すでに「役づくりの方法は、こうではないか?」と信じるものがありました。なんと彼女の分類法は、私の方法と非常に似ていたのです。
ローレット・テイラーは、人物の背景を構築することから役づくりを始めます。背景ができたら、人物と自分自身を重ね合わせます。「こういう過去をもった人物が、こういう状況のなかで、こんな人々や物に囲まれたら、きっとこうする」。そう確信できるまで、役と自分を重ね合わせます。彼女自身の言葉を借りると、「その人物のパンツを履いた」と実感できるまで、役づくりは終わらない!
リハーサルでのローレットは、シーンが起こる場所を細部まで確認し、鷹のように鋭い目で共演者たちを見ます。「この人と私の関係は? 私は他に、どんな行動ができるかしら?」と、あらゆる可能性を考えつくします。セリフの丸暗記は、絶対にしません。人物が生きる世界を知りつくすまでは、セリフが言えない、というのです。彼女は、すばやく結果を出そうとは決してしませんでした。現場の慣習に反発し、「ただマネをすればいい」という演技法を拒否しました。「私には、演技テクニックもメソッドもありません」とローレットは言っていますが、実は、独自の方法と演技術をもっていたのです。
「メソッド」否定の名優たちにも、独自の技術がある
卓越した技術がありながら、それを「メソッド」と呼ばない俳優も多いです。アルフレッド・ラント[1892〜1977年。アメリカの俳優]とリン・フォンテーン夫妻も、その例にあたります。「メソッド」演技を否定したといわれる夫妻ですが、2人の役づくりは「メソッド」を信奉する俳優たちを超越しています。チェーホフ作『かもめ』で共演させて頂いた私は、夫妻のすばらしい技術を目の当たりにしました。
最終幕で、ニーナがコンスタンチンを訪ねてきます。2人が舞台でやりとりをする間、他の人物たちは舞台裏、つまり隣の部屋で夕食をとっている、という設定です。稽古中、ラント夫妻は、ずっと夕食シーンを練習していました。アドリブで会話をし、どんな食べ物を食べ、どう行動するかを模索し続けていました。
本番で夫妻は、舞台裏に退場してからも、食事をしながらしゃべる演技を続けました。彼らが再び舞台に登場する時は、まさに「食べ終わって戻ってきた」ように見えました。
舞台裏での夫妻の行動は、客席からは見えません。しかし、音は聞こえます。陶器やガラス、銀食器がカチャン、チリンと鳴り、かすかに話し声も漏れてくる。それが舞台上の悲劇との、すばらしいコントラストを生みました。また、舞台裏にいる間も役として生き続けることで、時間の経過をきちんと次の登場に生かすことができます。
ポール・ムニ[1895〜1967年]も、役づくりに「メソッド」はない、と言った俳優です。とはいえ、彼も独自の方法で役づくりをしていたことは確か。人物が住んでいた土地や故郷にしばらく住んでみたりしています。「もし僕だったら」と主観的なリサーチをし、探求した。その執念は、周囲が目をそらしたくなるほど、痛々しいこともあったそうです。「メソッド」とは、スタニスラフスキー[1863〜1938年。ロシアの俳優、演出家]がつくった演技理論だと、思い込んでいる人もいるかもしれませんね(実は違うんです!)。彼は名優たちを観察し、どうやって演技をしているのか尋ねて歩いた。そうして発見したことをまとめながら、自説を築いていったのです。
優れたアーティストは、身をもって示す
私が名優から学んだすばらしい教訓を、もう1つご紹介しましょう。アルバート・バッサーマン氏[1867〜1952年。ドイツの俳優]と、イプセン作『棟梁ソルネス』を練習していた時のこと。私はヒルダを演じていました。氏は当時80歳を越していましたが、ソルネス役の解釈や演技テクニックは、けして古くさくなく、近代的。ご自身がレパートリーとして40年近く演じてこられたこの役に、私たち新キャストが加わってリハーサルすることになったのです。まず、氏は私たちの演技の感触をつかもうとされました。私たちを見ながら、耳を傾ける。それから私たちに合わせて、ご自身の演技を調整されました。本番のエネルギーはまだ出さず、軽くアクションをされていました。
衣装を着けてのリハーサルが始まると、バッサーマン氏は100パーセントの力を出して演技を始めました。セリフのリズムや身のこなしは真実味にあふれています。私は圧倒されました。氏はセリフを言い終えても、まだ何か言いたそう。私は待ちました。いつ、私がセリフを言う「番」がくるのかな、と思いながら。すると会話のなかで、ポカンと間が空いてしまうのです。「次は、間を空けないようにしよう」と頑張ったら、今度は彼のセリフをさえぎってしまいました。「あなたが言い終わったら、次は私」と、互いにセリフをやりとりすることが演劇だと思っていた私は、第1幕が終わった後、彼の楽屋に行って、こう言いました。「バッサーマンさん、本当に申し訳ありません。でも私、あなたがいつ演技を終えられるのか、わからないんです! タイミングがつかめないんです」。彼は、びっくりした目で私を見つめ、こう言いました。「終わりのタイミングなんか、ありませんよ! そして、あなたの演技も、終わっちゃいけません」。
名優たちとの共演や観劇だけでなく、両親との生活からも、私は多くを学びました。わが家では、何かをつくりたい、表現したいという欲求が尊ばれました。行動が伴ってこそ、才能は開花するのだ。練習や制作活動に集中することに喜びがあるんだよ、と教えられました。両親は、身をもってその教えを示してくれた。また、芸術への愛は、世間的な成功とは関係がないんだよ、とも教えてくれました。
エヴァ・ル・ガリエンヌ[1899〜1991年。女優、プロデューサー、演出家]にも感謝をしています。彼女が私の才能を信じてくれたおかげで、初めてプロの公演に出演することができました。エヴァは演劇に深い敬意を抱いていました。彼女にならって私もまた、演劇は国家のスピリチュアルな部分に貢献するものだ、という信念をもつことができました。ラント夫妻にも感謝しています。俳優は、惜しみなく修練に励まねばならない。そのことを、骨の髄まで染みるほど教えて頂きました。
うわべだけの技が、演じる喜びを殺す
ところが、私がアマチュアからプロに転向すると、おかしなことが起こり始めました。本来「アマチュア」とは、愛好者を指す言葉です。好きなことを追求する人、という意味ですが、今ではうわべだけの知識しかない素人や、技術のないパフォーマー、趣味や暇つぶしに何かをする人と同義語になっています。私はとても若くして、演劇の舞台に出演しました。当時の私は、本来の意味でのアマチュアでした。演じるのが、ただ好きだった。出演料は、そのおまけ。好きなことにただ打ち込んでいたら、認めてもらえたということかもしれません。
しかし、私に技術がないことは、明白な事実でした。「何がなんでも、空想したことを信じるんだ」という気持ちだけに頼って演技をしていました。私は役の人物なんだ、と信じきり、劇のなかの出来事は本当に起こっていることなんだ、と信じて演じていました。
そんな私がプロになり、いろんな知識が身につき始めると、「演技が好きだ」という気持ちは薄れていきました。その代わり、いわゆる「プロ」の演技術を自分なりに取り入れ、「プロ」を気どるようになりました。
私は見せることだけを意識した「トリック(ちょっとした技)」を使い、得意にすら感じていました。たとえば、『かもめ』でニーナが退場する時の終幕の演技。ドアへ向かう時に、キッと勇ましく上を向くと、観客から拍手喝采がもらえるのです。役を生きることに集中し、観客をいっさい意識せずに演じることが、本当はよいのだとわかっていたのに。なぜニーナはコスチャとさよならするのか、それだけを考えながら退場すれば、観客はシンと静まり、涙をこぼします。なのに、私はウケるための小技を使って演じるようになったのです。
その他、「きれいに」登場する方法や、笑いや涙を流す方法。叙情的な「クオリティ」を出す方法。プロになってから、私が得た小技は枚挙にいとまがありません。どれもみな、表面に見える効果を計算ずくで演じる方法でした。
もう勉強なんてしなくていいんだ。他の役も、こうやって演じればいいんだもの。それがプロというものよ──そう私は考えるようになりました。すると、演じても楽しくないのです。劇場に通う目的は、お給料を稼ぎ、レビューを書いてもらうためだけ。ごっこ遊びのように空想の世界を信じる喜びは、とっくに失くしていました。役に嘘が混じるようになり、「役が生きる」世界のリアリティは色褪せていきました。
1947年、私はハロルド・クラーマン氏が演出する舞台に出ることになりました。プロの演劇とはどういうものか、開眼させられたのはこの時です。彼は「小技」を使わせてくれませんでした。台本読みもしないし、ジェスチャーや立ち位置の指示もないのです。私はひどく面食らいました。長年、人物の仮面を被って演じてきたからです。外からどう見えるかを意識した演出に慣れきっていた私。それまでの私は、演技中ずっと、仮面の裏に隠れていたのです。
クラーマン氏に、この仮面は通用しませんでした。役のなかに「私」がいなくてはならない、と彼は言うのです。ふう変わりで、新しい役づくりのテクニック。やっていくうち、私のなかでゆっくりと、「演じることが好き」という気持ちがよみがえってきました。
前もって型をつくってはいけないし、型から入ろうとしてもいけない。色々やっていくうちに、結果として形がまとまってくるだろうからだいじょうぶ、と言われました。
公演が始まると、私はまた驚きました。客席がとても近く、親密に感じられるのです。それまでの私は、観客との間に壁があるように感じていました。その壁を取り払って頂けて、ハロルド・クラーマン氏には大変感謝しています。この体験で気づいたことをさらに深めるため、ハーバート・バーゴフ氏のところで勉強を続けることにしました。気づいたことを、今後どのように使っていくか。真の演技術を身につけ、私自身をとおした役づくりをするためにはどうしたらいいか。ハーバートは細やかな助言をくれました。
業界ではできないことを、演劇学校で
アーティストになりたい、表現がしたい。そう願う俳優に対し、アメリカの演劇界が提示するのは難題ばかりです。俳優活動がしたいなら、まずエージェントやプロデューサー、演出家への「売り込み」をしなくてはなりません。そして、オーディションで身も縮むような思いをし、リハーサルでも自分の能力を認めてもらうため、苦しい日々が続きます。
リハーサルを経て、ニューヨークでの公演にこぎつけるまでには、地方でのテスト公演で成功しなくてはなりません。そのプロセスのどこかで、俳優自身の心にも、仲間や脚本家の心にも、「妥協しなきゃ」という気持ちが芽生えます。妥協しつつも、自分の演技は世間やメディアから評価されなければなりません。また、俳優業には保障がありません。いつまで公演が続くかわからない。今週土曜で打ち切りなのか、向こう何年も続くヒットになるか、あるいはこれが最後で、二度と役はこないのか?
こんな環境のブロードウェイに、私は何度も幻滅を感じました。私自身の仕事にも、演出家や脚本家にも、マネージメントやその他、俳優業にかかわる全ての面に、夢がもてない。ただ1つ、私の心を満たしてくれたのが、HBスタジオという演劇学校です。私はそこで演技のクラスを教え、学びの機会を得ています。
成長したい。「リアリティのある演技」という奇跡を、実現させたい。その思いをぶつけられる場所を、幸運にも私は見つけることができました。HBスタジオの創設者は、ハーバート・バーゴフ。彼と私は結婚し、共に教師をしています。学生たちや俳優仲間と演技をし、演出もします。商業演劇では予算が出なかったり、また力を注がれることのない舞台劇の作品や場面を抜粋したものを練習しています。
これから述べていく内容について、教師として、お断りをしておきます。私は行動主義や意味論の権威でもありませんし、学者、哲学者、精神科医でもありません。演技の教師として、演技のお話をしていきます。正直なところ、舞台やクラスとは関係のない人生論にまで首を突っ込む演技教師には、ゾッとしています。私の演技指導は、私自身が実際に使っているアプローチに沿ったもの。私自身の実体験から人間のあり方を発見し、演技に生かす、という方法に基づいています。
私は自分自身が行なってきたことと、HBスタジオで行なっていることに信念をもっています。スタジオに集う皆さんが、忍耐と希望をもって一流のカンパニーを結成して下されば、と願っています。一流の演出家、そして願わくば一流の劇作家と手を携えて、すばらしい劇団をつくって欲しい。目標を共にし、互いに成長し合う仲間。共通の言葉で通じ合い、一つの表現に向けて力を集結できる同志。そんなグループが劇場づくりを目指してがんばれば、アメリカの演劇界に真の貢献ができるかもしれません。実現するよう、祈っています。もし、実現できなかったら? 目指し続けていきましょう。演劇には、それだけの価値があるのですから!
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