ためし読み

『アニメーションの女王たち ディズニーの世界を変えた女性たちの知られざる物語』

ォルト・ディズニー・スタジオで活動した女性アーティストたちにスポットを当てる『アニメーションの女王たち ディズニーの世界を変えた女性たちの知られざる物語』が絶賛発売中です。ノンフィクションである本書では、『白雪姫』や『ピノキオ』、『バンビ』などさまざまな作品に関わりながらも、歴史から忘れ去られた女性たちの創造性と苦闘が明かされていきます。発売後、新聞や雑誌など数々のメディアで書評が掲載され、大きな反響を呼んでいます。今回はその中から第1章「若かりし日」の冒頭、ビアンカ・マジョーリーのお話を公開します。ウォルト・ディズニー本人とのやり取りや当時のスタジオの空気などを垣間見ることができます。ぜひご一読ください!

若かりし日
One Day When We Were Young

会議出席者の前に立ったビアンカ・マジョーリーは、血の気が引き、手のひらに汗がにじみ、心臓がバクバクするのを感じた。大きく息を吸い込み、しゃべろうと口を開けたが、何の音も出てこなかった。それどころか口の中が乾いてザラつき、まるで唾液が降参してお腹の奥に引っ込んでしまったかのようだった。それは1937年1月25日のことだった。できることならビアンカ自身がどこかに隠れてしまいたかった。ウォルト・ディズニー・スタジオで働き始めて2年、ストーリー部門のシナリオ会議ほど恐ろしいと思うものはなかった。脚本家がメンバーの前で自分のアイデアを提案する場だ。怖いのは能力がないからではない。ビアンカの考えたキャラクターや生き生きとした筋書きプロットは、いずれ映画に採用される運命にあった。それに、内気な性格のせいでもない。いつもは穏やかな口調も、いざというときには、仕事に情熱を抱く人の朗々とした声に変わった。問題は女に生まれたということ。ここでは男しか求められていなかった。
その会議にはできる限り欠席した。体調に関するありふれた言い訳を使うこともあれば、自動車事故をでっち上げることもあった。道路に散乱したガラスの破片と、タイヤの焦げた臭いの話をセットにして。会議には毎回出席する義務はなく、そんなアリバイはほとんど無用だったが、自分が提案する側となると話は別だ。自分の案を発表する番になったとき、ビアンカは、太平洋の氷のように冷たい水に飛び込んだつもりで臨もうと考えた。さっさと終わらせよう。頭から飛び込んで、あとは冷たさで体が麻痺するのに任せよう。
だが1月のこの日、会議室は北極以上に冷え切っていた。ウォルトは『白雪姫』に心酔していた。だからワンシーンでも変更を提案すれば、たとえ必要なことでも、部屋中の怒りを買うことは、誰もがわかっていた。無言のまま立ち尽くすビアンカの耳に、窓の外の無邪気な笑い声が聞こえた。ビアンカは一瞬、ガラスの向こう側の女性たちに混じって、何の悩みもなく芝生でのんびり過ごす自分を想像した。私もあんなふうになれる。この部屋を出て行きさえすれば。

紙屑と化したビアンカの絵

ウォルト・ディズニー・スタジオでは、アイデアがあっても、脚本が書けても、それだけでは十分ではなく、ストーリー部門のスタッフは、メンバーの前で自分の案を演じてみせなければならなかった。ビアンカは、この演技をするのが大嫌いだった。でも他の脚本家が演じるのを見るのは好きだった。ディック・ランディーなどは、道路を渡ってくるドナルドダックをそっくりの声で真似し、座っているビアンカの前まで来ると、コメディグループの三ばか大将よろしくもんどり打って倒れ、次の瞬間、ミニーマウスのファルセットで屈託なく笑った。「あらドナルド、楽しそうなお散歩ね? うふふ」。部屋は爆笑に包まれ、ビアンカも涙を流すほど一緒に大笑いした。時には口紅を塗って女装したメンバーが大声で歌いながら、骨ばった膝を限界まで持ち上げ、フレンチカンカンを踊ることもあった。場がどっと盛り上がり、子供のようなおふざけは愉快そのもので、ビアンカはこの仲間の一員であることを誇りに思った。
その一方で、時には目も当てられないようなことも起こった。男たちは、見込みがないと感じたアイデアを出した発表者には卑猥な言葉と、くしゃくしゃに丸めた紙を投げつける。そういう瞬間に、ビアンカは同僚たちの攻撃性を感じた。準備してきた案を発表しただけのその不運な人にとって、そこはもはや針のむしろだ。中でも自分に対しては、どんな才能豊かな脚本家の自信をも揺るがすような、とくに口汚い非難の言葉を浴びせてくる、とビアンカは感じていた。自分に特別な魅力があったなら、きっと悪いところも大目に見てくれるに違いない。歌やダンスが上手だったら。絶世の美女だったら。それが贅沢なことなら、せめてミッキーマウスの陽気な声を真似ることができたなら。男になることが一番の願いになることもある。シナリオ会議に出席する、週に数時間の間だけでも。
そんな考えが頭をよぎり、ビアンカはメンバーの前で震えながら、自信満々に振る舞おうとした。深呼吸して恥ずかしがり屋な性格を脇に追いやり、準備してきたストーリーボード[コンセプトスケッチを物語の順番通りに並べ、コルクボードに画鋲で止めたもの]を木製イーゼルに載せ、同僚たちのほうに向けた。そこには躍っている花や動物が描かれている。すかさず反対の声が上がり始めた。ビアンカは自分の考えを説明しようと、気づけば声を張り上げていたが、そのもの柔らかな声はかき消されてしまう。激しい攻防のさなか、無言でイーゼルに近寄り、力任せにビアンカの絵をコルクボードから引き剝がしたのは、ウォルト・ディズニーだった。辺りに画鋲が飛び散った。ウォルトは一言も発しないまま、紙の束を真っ二つに破いた。部屋は静まり返り、紙屑と化したビアンカの絵が床に落ちた。紙片の下から笑顔の花が覗いていた。
それは、最も恐れていたことが現実になった瞬間だった。ビアンカは一目散にその場から逃げ出した。猟師に追われた白雪姫が必死に森の中へ逃げたように。男性たちが追ってくるのがわかった。足音はどんどん大きくなり、罵り声も続いた。ビアンカは、自分専用のオフィスがあることを、今ほどありがたいと思ったことはなかった。部屋へ逃げ込み、鍵を掛け、顔を覆ってそれまでこらえていた恥ずかしさと屈辱の涙を流した。呼吸が落ち着いた頃、ドアの向こうから怒号が、続いて同僚たちがしつこくドアを叩く音が聞こえた。その中で突然ひとりの声がはっきりと耳に飛びこんできた。すぐカッとなることで有名な熱血漢、〝ビッグ・ロイ〞・ウィリアムズだった。「そんなことをしても無駄さ!」。ノックの音が急に怒りを増したようだった。ビアンカは部屋の隅に身を潜めた。鼓動が激しく打ち、パニックで呼吸がどんどん早くなっていく。なすすべがなかった。自分を何度も擁護してくれた、尊敬するウォルトにアイデアを否定されたのに、それだけでは足りないのだ。彼らは、自分に徹底的に屈辱を味わわせようとしている。この涙は、その残虐さに油を注ぐだけなのだ。
ドアの木枠は曲がり始めていた。あれだけ大勢の男に押されたら、合板と釘は太刀打ちできない。バリっという大きな音と共に木枠が砕け、ドアが放たれ、男たちが一斉にビアンカの聖域に雪崩れ込んだ。ビアンカは頭を両腕に埋め、怒声を遮断しようと耳をふさいだが、無駄だった。男になって耐えるしかなかった。「これだから女性は使えないんです」。ウォルトはこの一件を指して言った。「ちょっとの批判も耐えられないんですから」

ビアンカとウォルトの歩み

ビアンカがウォルター・イライアス・ディズニーに初めて会ったのは、まだ不器用な17歳の頃だった。ふたりは、イリノイ州シカゴにある同じマッキンリー高校に通っていた。アメリカ赤十字社の救急隊が着る淡褐色の作業服に身を包んだウォルトを見つけると、ビアンカは恥ずかしそうに近づき、寄せ書きを書いてもらおうとイヤーブック〔高校や大学の卒業アルバムのようなもの〕を手渡した。ウォルトは16歳だったが、アメリカの戦争努力に貢献したいがために17歳と偽り、噓の誕生日を告げて赤十字に志願した。3人の兄が凛々しく海軍服に身を包み、水兵帽を粋に斜めに被った姿で休暇に帰ってくるのを見て、自分も兄たちのようになりたくてしかたがなかった。あいにくそれは叶わなかったが、ヨーロッパで救急車を運転し、時おり車の幌にいたずら描きをしながら第一次世界大戦の終わりを迎えた。ビアンカのイヤーブックにも、同じようにささっと漫画を描き、ニコッと笑って立ち去った。ほんの束の間の、どちらにとってもどうってことのない出来事のはずだったが、その記憶は消えることなく、互いの未来を揺るがす運命的な出会いとなった。
ビアンカは、1900年9月13日に、ビアンカ・マッジオーリとしてローマで生まれ、1914年に家族と共にシカゴに移住した。高校に入るとすぐに、フランス語の先生に、アメリカナイズされたブランシュ・マジョーリーという名前を与えられたが、自分のことをブランシュだと思ったことはなかった。他人の名前であり、20年後に、そんな名前は捨てるべきだと説得したのは、ほかならぬウォルトだった。
ビアンカは、シカゴ・アカデミー・オブ・ファイン・アーツで構図や美術解剖学、油絵を学び、ニューヨークへ移ってからも、デッサンや彫刻の勉強を続けた。その後、ヨーロッパ各地でファッションの仕事に就いた。ローマとパリで暮らしたが、ファッションの世界は華やかなだけで生活はままならず、1929年、期待が外れたのと、少しの孤独を感じ、ニューヨークに戻ると、百貨店JCペニーのカタログのアートディレクター兼ブロシュアデザイナーとして働き始めた。
その最初の夏、スクエアケーキを切り分けるようにマンハッタン島を縦横に走る路面電車に乗りながら、ビアンカはうだるような暑さを味わっていた。ショートボブの髪にシフトドレスという装いは、オシャレなフラッパー〔この頃に流行し、伝統的な女性観を覆すファッションや生活スタイルを好んだ新しい女性〕そのものであり、流行の先端をいく新しい職場にぴったりだった。だがビアンカも他の人々も、自国に迫っていた危機に、まったく気づいていなかった。
1929年10月29日、自分のデスクで、カタログに載せるドロップウエストドレスの女性のイラストを描いていると、女性社員が叫んだ。「株式市場が崩壊したって! 皆が通りに出てる!」。ビアンカは窓へ駆け寄り、6番街と52丁目の角を見下ろしたが、普段と違う様子はなく、いつもその時間に行き交う車や人の量と変わらないように見えた。「ここじゃなくて」職場の女性が言った。「男の人は皆ウォール街へ行ったわよ、自分のお金を取り返しに」。確かに見回すと、職場には女性しかいなかった。この1週間、株式市場が崩壊寸前だというニュースで持ちきりだった。ビアンカは株を持っていなかったし、1200キロ離れたシカゴの実家にまで影響が及ぶとは想像もしていなかったが、緊迫した空気に不安になった。数日前、職場の男性が「状況はきっと改善する、銀行家も市場の回復に楽観的だ」と言って彼女を一安心させたのも束の間、のちにブラックチューズデーと名付けられたその日、ただならぬことが起こっていたことは、金融システムに詳しくないビアンカにも理解できた。
1929年、世界未曾有の金融危機のさなか、泥沼から這い出し、成功をつかんだ少数の起業家たちがいた。そのひとりがビアンカのかつてのクラスメイト、ウォルト・ディズニーだった。その前年、約7分のアニメーション作品『蒸気船ウィリー』に登場したキャラクター、ミッキーマウスが大当たりした。それは、動きと音を同期させたミッキーマウス初の短編アニメーション映画だった。手描きしたネズミの冒険マンガに音楽と効果音をつける―普通の人がやったら、ぎこちないだけで、生きているようにも滑稽にも、見えなかっただろう。でもウォルトには、物語とサウンドトラックを融合させる天賦の才能があった。ミッキーとミニーが山羊のしっぽを手廻しオルガンのハンドルよろしく回し、おっぱいを飲む子豚たちを引っ張ってきゅうきゅう鳴かせ、牛の歯をポンポン叩いて音楽を奏でた。動きに同期したサウンドがシーンに命を吹き込む様子は、観る人がそれまで経験したことのないものだった。

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アニメーションの女王たち

ディズニーの世界を変えた女性たちの知られざる物語

ナサリア・ホルト=著
石原薫=訳
発売日 : 2021年2月26日
2,600+税
四六判・並製 | 456頁 | 978-4-8459-2002-0
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