ためし読み

『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』訳者解説

訳者解説

船 そのもの
船 自分
ひとりが
乗組員 自分も
まだ知らない自分の人生

アーシュラ・K・ル゠グウィン最後の詩集『ここまで上々』(So Far So Good: Final Poems: 2014-2018, Copper Canyon Press, 2018)に収められたゆるやかな物語性を持つ連詩「ここに至るまで」(“So Far”)もまた、航海をテーマにした作品であった。ここに掲げたのはその「十、船そのもの」だが、船と人生が重ね合わされ、詩集のタイトルとも相まって、ル゠グウィン自身の人生をも感じさせるものとなっている。日本では『ゲド戦記』として知られる〈アースシー〉の物語をご愛読のみなさまなら、航海のシーンがその旅の随所で用いられ、深い趣を添えていることはご存じのことだろう。実際の海、あるいは宇宙の航海は、ル゠グウィンにとって大事なモチーフのひとつである。

本書『文体の舵をとれ ル゠グウィンの小説教室』は、Steering the Craft: A Twenty-First-Century Guide to Sailing the Sea of Story, Mariner Books, 2015 の全訳であり、このル゠グウィンが行っていた執筆ワークショップをまとめた本のタイトルにもまた、航海の含意が込められている。原題にある「Craft」には船と執筆技巧の両方の意味がかけられていて、何よりも物語という海を航海するために、その技巧という船の舵をとるのだと、強い意気が感じられる題になっている。邦題では動名詞句からにじみ出る躍動感を表現するために、「とれ」という形にした。

文章の名手との声も高いル゠グウィンであるが、言語や翻訳の壁もあってか、その文の見事さや、各作品における文体の巧みな使い分けや書き分けには、本邦ではあまり注目されてこなかった。とりわけ活動中期から晩年にかけての中短篇群は、鋭敏な文体意識に貫かれた語り手の声の競演とも言うべきもので、本書訳者も関わった邦訳短篇集『現想と幻実』(青土社、2020)ではその素晴らしい書きぶりの一端が現れている(し、翻訳でもできるだけその点が伝えられるよう試みた)。もちろん、文体における声やリズムについてこだわりがあることは、ル゠グウィンの各種エッセイの節々から感じられることではある。しかし本書はそうして少しずつ語られてきたことが一冊に集大成された上で、それでいて執筆の指南書として役に立つよう繊細に配慮された貴重な一書となっている。こうして邦訳がお届けできたことは、一読者としても欣快きんかいの至りである。

本書の初版が刊行されたのは1998年で、ル゠グウィンの地元であるオレゴン州ポートランドの出版社から、『文体の舵をとれ 孤高の航海者と立ち上がる乗組員たちのための物語執筆をめぐる練習問題・解説集』(Steering the Craft: Exercises and Discussions on Story Writing for the Lone Navigator or the Mutinous Crew, The Eighth Mountain Press)として発表された。そこから20年弱の時を経て改訂されたのが本書底本であるが、興味深いことに単純な増補と思いきや、本文ページ数はむしろ172から141へと減少している。ここには作品をつづめながら書き直していくル゠グウィンの方法論が反映されている一方で、中身はけっして目減りしておらず、かえって豊かになっていると言えよう。初版の射程がともすれば英語小説や英語での執筆に限られがちであった点に比して、この改訂版では(本文中でも触れられているように)初版にあった文法の詰め込み講座をばっさりと割愛し、さらに初版のまえがきで募集していた読者からの意見をふんだんに取り入れて、より実地的かつさらに普遍的な内容へと深化を遂げている。本書底本がいち早く訳出されたのが大きく言語の異なるはずの繁體中文であり、『奇幻大師勒瑰恩教你寫小說:關於小說寫作的十件事』(木馬文化)として2016年に刊行されていることは、その証左のひとつでもあるだろう。

本書は、物語の作り方や発想法を教える本というよりも、本邦のいわゆる文章読本に近い。日本では谷崎潤一郎をはじめ、川端康成や井上ひさし、丸谷才一らが、古今の文章を引用しながらその文の書き方を解いているように、ル゠グウィンもまた、実例としてさまざまな文芸作品を引きながら文体の妙味を解説している。著者自身の「はじめに」にもある通り、文のひびきや視点人物、語り手の人称など、文体の制御に関する要点を(中級者のつまずきやすい)物語るという行為の基本要素として焦点に入れつつ、キプリング、トウェイン、オースティン、ストウ、ウルフ、ディケンズ、トールキン、ハーディ、ブロンテなど英米文学の錚々そうそうたる作家たちを例にその技巧を説明してみせる。そして比較文学の観点でも面白いのは、こうした抜粋からわかるル゠グウィンの文芸趣味がかの夏目漱石『文学論』とも重なり合うことで、(多少の意図は異なれど)引用箇所が重なるところさえある。また漱石の文学論がその実、小説の描写となる文体の読み解きでもあったのと同様に、各種名文を読み解いていくル゠グウィンの記述からはその文学観もうかがえる。そしてこうした名作の抜粋と解説は海外文芸を読むにあたっても有益であり、一般の読者のみならず、海外文芸を訳そうという人たちにも、本書は文芸の文体を読み進めるためのガイドブックとして役立ってくれよう。

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死後刊行となったインタヴュー本『執筆をめぐる談話集』(Conversations on Writing, Tin House Books, Tin House Books, 2018)は、もとはポートランドの文芸誌『トタンの家』とコミュニティラジオ局KBOOが共同配信しているポッドキャスト゠ラジオ番組「ビトゥイーン・ザ・カヴァーズ」で収録されたものだが(一部は同じく地元の文芸誌『ポートランド・レヴュー』(2017年春、63号)にも書き起こし掲載されている)、その第一部ではまさしく本書『文体の舵をとれ』を踏まえた上で、ホストを務めるデイヴィッド・ネイモンとゲストのル゠グウィンが各話題を論じ合っている。ここでは声・リズム・文法・焦点・視点人物など、本書の要点を語り直すものだけでなく、練習問題の好みや評判などもふんだんに語られている(なお原音声は公式サイト“Tin House: Between the Covers” から聴取可能)

さてその冒頭で、ル゠グウィンは〈声を聴く〉ことについてあらためて述べている。

わたしは、自分の書くものが聞こえるのです。本当に若かったころは、詩の執筆から始めたものです。かつてはいつもそれが、自分の頭のなかに聞こえました。執筆のことについて書く人でも、どうやらそれが聞こえておらず、耳を澄ませもしていない人が多いということは、わかっています。その人たちの知覚では、理論や理屈がもっと優先されているのです。でも、自分の体のうちにそういうことが起こっているのなら、自分の書くものが聞こえているのなら、正しいリズムにも耳を澄ますことができるはずで、その助けを借りれば、文章もはっきりと流れていくことでしょう。それに、若い書き手がいつも話していることですが――〈自分の声を見つけること〉――そう、それに耳を澄ませもしないで、自分自身の声が見つかるわけありません。自分の文章のひびきは、その行為の核になるものです。

そしてそのあと、この言葉に呼応するものとして聞き役のネイモンは、ル゠グウィンの講演記録「わたしがいちばんよくきかれる質問」の一節を引き合いに出す。この2000年になされた講演の原稿中には、辛抱強く登場人物の声に耳を澄ませる努力を、『星の王子さま(あのときの王子くん)』のキツネのシーンに喩えて説明する印象的なくだりがあるが、こうした声と文体への意識は、その原稿が収録されたエッセイ集『ファンタジーと言葉』(青木由紀子訳、岩波書店)の全体とひびき合うものである。その原題ともなった“Wave in the Mind”(心のなかの波)は、本書でも引用されるヴァージニア・ウルフの手紙を典拠とした語句で、本書初版とほぼ同じころに書かれた各エッセイを副読本として読むことで、本書の内容がよりよくわかるようにもなっている。

ただし残念なことに、日本語版では本書成立の背景を語るエッセイ「 群れプライズ――執筆ワークショップ論」(“Prides: An Essay on Writing Workshops”)が割愛されてしまっている。1989年に書かれたその小品は、当時すでに数多くの執筆講座をこなしていたル゠グウィンが、そのあり方に疑問を呈しながら、新しい方法論を模索するものだった。本書をお読みになった方のなかには、〈合評会〉に多くの紙幅が割かれ、その実践が前提になっている点を疑問に思う向きもあろう。しかしそれは、ル゠グウィンの経験をもとに慎重に採用された仕組みなのである。

その「群れ」ではまず、執筆講座の長短が語られる。とりわけル゠グウィンを悩ませたのは、そうした講座が有名な作家とその弟子になりたがる人々の自己承認欲求エゴ・トリップに蝕まれやすい点であり、ともすれば愛他主義に満ちた自己啓発セミナーにもなりかねない点だった。さらには売れる作品の作り方や、名士に仲間入りする方法を教えるビジネス講座を主宰するのは、ご免被りたいものであったらしい。質以前にマーケティングやコネを重視してしまう講座はアートを貶めるものであって、そうしたサロンに共依存する人たちや、ワークショップ中毒を生むばかりである、と。

また、尊敬する作家に手ひどく自作を貶されて執筆そのものをやめてしまう人たちを数々見てきたル゠グウィンは、お互い敬意と自信を持ち、なおかつ文章技巧とプロ意識を共有するというワークショップのあり方に関心を強めていくことになる。だからこその〈合評会〉なのだ。役立つ体験型の講習会を目指して、練習は訓練でありながらもまた技芸アートの行為であると位置づけ、グループで取り組むことで上下関係をなくした一体感と、核となるエネルギーをはぐくむ――そして参加者お互いの責任は何よりも、〈書くこと〉と〈評すること〉(を学ぶこと)だとする。ここにはもちろん、ル゠グウィン自身も書く人として参加し、評されることを厭わない姿勢がある。短篇集『現想と幻実』に収めた連作「四時半」が、執筆講座で出した課題に自ら取り組んだものであるのも、こうした経緯を考えれば納得できよう。

こうした〈合評会〉という貴重な経験を経た書き手たちは、そのあと何ヶ月も何年も小さな合評会を自分たちで続けていくことがあるという。ル゠グウィンはそのエッセイの末尾で、「〈書き手〉は、言葉という砂の沙漠にひとりきりで、自分がちっぽけな人間であると感じがちだ」と言う。そしてワークショップについて、こう結論づける。

おそらく、いいワークショップとは、水飲み場にいるライオンの群れプライドのようなものなのだ。みんなで一晩じゅうシマウマを狩って、そのあとみんなして大きく猛りながらそのシマウマを食べ、揃って水飲み場に向かい、一緒にのどを潤す。それから日中の暑いときには、ともに寝転びながら、うなったり、ハエを叩いたり、優しげな顔を向けたりする。そしてたった一週間であっても、ライオンの群れに所属したことが、何ものかになるのである。

むろん、この〈群れプライド〉には〈自尊心〉のニュアンスもひびいてくる。

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この本書改訂版の刊行前後には、サイト〈ブック・ヴュー・カフェ〉にて、「物語という大海をわたる」(“Navigating the Ocean of Story”)と題したオンラインワークショップが開かれた。その趣意文でル゠グウィンは、詩を書く体力が戻ってきたと述べるとともに、(さすがに長篇は書けないけれども)創作が恋しくなってきたとして、〈ある実験〉を行うことにしたと告げる。すなわち、執筆に関してオンラインで広く質問を受け付け、それに答えると。

その結果、(おおかたの予想通りではあるが)大量の質問が集まり、質問者の文とル゠グウィンの回答を合わせると、ゆうに2万7000ワードを超える一大セッションとなった。さながら質問百人組手の様相で、訊ねる側も初心者のみならず、デビューしたての作家や、かなりのプロとおぼしき執筆講師経験者まで現れるなど、かなりの活況を呈した。もちろん問いと答え自体は、本書と重複するものも少なくないが、その暖かくも率直なル゠グウィンの語り口が楽しめるものとして、(権利の都合さえつけば)本書にも付録として収録したいくらいだった。

そこでル゠グウィンから質問者にもたらされた助言にはいろいろあるが、たとえば、静的な〈見せる〉と動的な〈語る〉は異なること、執筆の良し悪しを二項対立で考えないこと、実在宗教をモチーフとして安易に利用しないことなどは、一般的な意見としても参考になる。また本書で触れられたトピックを別の語で言い換えることもあり、短文ばかりの文章を〈マッチョ・スタッカート〉、本文中で〈説明のダマ〉と称されたものが唐突な〈差し込み解説コラム〉とも言われると、本書とは違ったくだけた言葉遣いが理解の支えともなる。

一方で質問者たちも本書に則って船の比喩で訊くことがあり、それもまた愉快味を添えている。短篇から長篇へとどう書き換えればいいのかと悩む質問者が「この小舟をクルーズ船に変えるにはどうすればいいでしょうか?」と訊ねると、ル゠グウィンは「クルーズ船のことなんて忘れなさい。むしろ、自分がどこに行こうとしていて、どうやってたどり着くつもりなのかを、気にするのです――あとたぶん、そうしたい理由についても」と返答する。

一連の質問のなかでも、とりわけこの〈行き先〉と〈行き方〉という考え方は特徴的に繰り返され、別の箇所では「物語の行き先と行き方をはっきりと知るために、短篇から始めるのは、おそらくいいアイデアでしょう。長篇の場合、書き始める前に、その行き先と予定している行き方がわかっていると意識しておくのが、いちばんいいことだろうと、まず言いたいのです」とも述べている。こうした手法は、ル゠グウィンが〈アースシー〉の物語を本格的に書くよりも前に「解放の呪文」「名前の掟」の二作を書いていることや、『ロカノンの世界』に先立つ「セムリの首飾り」、『闇の左手』を準備する「冬の王」、もっと後年の作品であれば『アースシーの風』の序章となる「ドラゴンフライ」、『ラウィーニア』の主人公の声を探る書簡体小説「前七六六年四月一日」(“The Kalends of June, 766 BCE”, 2008)などの存在を思い出させる――「完全な物語ではなく、まずごく短いもの、一段落、一ページなどを書いてみましょう。あるシーンだけを描いてみたり、ある人物を何らかの状況に置いたりして、その行為や感覚を語るのです。すると長篇があとから現れます」

おそらくこうした活発なやりとりにも影響されて、ル゠グウィンは執筆意欲を取り戻し、死後発表されることになる短篇「哀と恥」(“Pity and Shame”, 2018)や、ライブラリー・オヴ・アメリカ版『オールウェイズ・カミングホーム』の増補部分(Always Coming Home: Author’s Expanded Edition, LOA, 2019)、〈アースシー・サイクル〉の見事なエピローグ「火あかり」(“Firelight”, 2018)へと向かうことになったのだろう。

本書を読んだあとで訊きたくなるようなことについても、こうした一連の質問や前出のインタヴューで答えているのだが、ひとつご紹介すると、本書でワークショップ参加者がいちばん嫌がる練習問題は、最後の⑩「むごい仕打ちでもやらねばならぬ」であるという。なるほど自作の文章を削るのは、自分の身が削がれるようでつらい。とはいえそれでも「やらねばならぬ」。そのほか、第二章の末尾に置かれた英語構文のクイズについて気になる方もいらっしゃるだろう。これについて出題者当人の言及はないが、実はよく似た問いがあるのでそちらを参考にすると、おそらく正解は“All that is is; all that is not is not; that that is is not that that is not; that is all ”――すなわち、「存在するすべてのものは、ある。存在しないすべてのものは、ない。それがあるということは、それがないということではない。それがすべて」となる。日本語でも「すもももももももものうち」を適切に区切るという問題があり、翻訳でも別の問いをこしらえて入れてみようかとも思ったが、さすがに断念した。

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こうした英語特有のもの数ヶ所以外は、できるだけ日本語で読んでもわかるように、通じるように訳出し、必要なところには(やや煩わしいかもしれないが)理解の助けとして訳注を挟んだ。とりわけ英語と日本語との差や、比較文芸の視座から要点となってくる事項については、少々長めの解説を施したところもある。近代小説における視点や描写の問題は、それこそ前述した夏目漱石『文学論』が〈小説〉の本邦輸入に際して丁寧に論じてくれているわけであるが、そうした観点はあえて顧みるとなると厄介で、敬遠されがちだ。

それは日本語で物語を執筆するときのみならず、日本語に海外文芸を訳出するときにも、時として意識されなかったりすることがある。第八章では三人称限定視点の例文として、デラという女性が視点人物なら、「デラは、その信じられないほど美しいすみれ色の瞳を、愛するロドニーの顔へと向けた」とは書けず、「彼女は、自分のすみれ色の珠が相手に与える効果をわかった上で、上目づかいをした」と書くしかないと記されているが、翻訳では後者の原文が前者のような訳文に化けることもある。そうしたとき、訳者のうっかりであれ意訳であれ、原文のPOVからは逸脱するわけだ。ほかにも、遠隔型の作者を潜入型の作者のように訳出したり、その逆もやはりあるだろう。その場合は登場人物と原作者の距離感を翻訳で踏み外してしまっているのだが、わたし自身も小説を訳すときにそうした見誤りをしている可能性がある。ル゠グウィンの文体意識は、ただ小説を書くときのみならず、その先にある翻訳をも射程に捉えて、容赦なく問題を突きつけてくるのだ。

日本では〈西の善き魔女〉というあだ名がよく知られているル゠グウィンだが、ここには当人がアメリカ西海岸のオレゴン州ポートランドに住んでいるという含意もある。そしてこの言葉からわれわれ読者は〈西のはての年代記〉をも連想するわけだが、解説冒頭で紹介した最後の詩集『ここまで上々』の掉尾ちょうびを飾るのは、まさにその語を用いた「西のはての岸にて」(“On the Western Shore”)であり、その第一連でル゠グウィンは、海を越えてさらに西にある日本の〈本州〉を意識している。

引き潮が 長い浜辺を
ひとり 駆け巡っていると
忘れられたもの 不明なものの
投げ荷を 見つける
細長い胸骨
ホンシュー沖の船から 紛失された
ガラス製の 浮き玉
大洋を 越えてきた
百年も 壊れずに

§

実はわが実家には本物の舵がある。伝え聞くところによれば、それはかつて琵琶湖に浮かんでいた汽船〈京阪丸〉の舵であるという。祖父が戦後に独立して開いた衣料品店のなかに飾られていたものだが、後年その店をたたむにあたってゆずり受け、今でも実家の訳者の部屋にはその舵が置かれてある。祖父は店じまいの数年後に亡くなったが、彼がまだ若かったころ、その舵に自分の店の門出の思いを託したであろうことは、想像に難くない。わたしもその舵を見つめながら何度も、自分の行く先をさまざまに考えたものだ。

ル゠グウィンは、航海のモチーフが好きであることから、人から見事な帆走経験を期待されるそうだが、実際には高校時代に授業でやったことがある程度で、しかもそのときには浅瀬でヨットを転覆させたという。わたしも小学生時代に湖上実習でカヌーをやったことはあるが、あまりいい思い出もないままに舵にばかり思い入れがあるので、ひそかな親近感を覚えている。航海に憧れるのは、旅を夢見る人の習性なのだろうか。

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文体の舵をとれ

ル=グウィンの小説教室

アーシュラ・K・ル=グウィン=著
大久保ゆう=訳
発売日 : 2021年8月3日
2,000円+税
四六判・並製 | 256頁 | 978-4-8459-2033-4
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