Books

眼がスクリーンになるとき

ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』

btn_buy


紀伊國屋じんぶん大賞2019 第5位!

ついに、『シネマ』がわかる!
思想界に颯爽と現れた26歳の新鋭、衝撃のデビュー作!
「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐって書かれた画期的なドゥルーズ『シネマ』入門。
本書は、「見る」ことと「読む」ことの復権を同時に実現する。

-------------------------------------------------------------------

千葉雅也さん推薦!!
「映画とは何かを考え抜いたジル・ドゥルーズの伝説的著作『シネマ』が、本書によって、ついにわかる。『シネマ』のロジックを一步一步解きほぐす、目からウロコの超解読。そして、これは映画だけの話ではない。あらゆる芸術・文化を考えるのに役立つツールがここにある。」

【ためし読みできます】
※以下のリンクから本書の「はじめに」全文のためし読みができます。
ためし読みはこちら

【メディア掲載】
■2018年9月8日(土)の朝日新聞「著者に会いたい」のコーナーでご紹介いただきました。
■週刊読書人ウェブに福尾匠さんの「タフだが面白いものを/『シネマ』が複雑である意味」という文章を掲載していただきました。
■雑誌『文藝』2018年冬号でご紹介いただきました。評者:山本浩貴さん
■「NOBODY」のWEBサイトに福尾匠さんのインタビューが掲載されました。「メディアよりイメージを優先する」態度
■フリーペーパー『intoxicate』で紹介していただきました。
■雑誌『キネマ旬報』11月上旬号で紹介していただきました。(評者:三浦哲哉さん)
■雑誌『美術手帖』12月号で紹介していただきました。
■フィルムアート社のウェブマガジン『かみのたね』で小泉義之さんに書評を書いていただきました。
■『読書人』で紹介していただきました。(評者:伊藤洋司さん)
■『図書新聞』の18年下期読書アンケートで紹介していただきました。(評者:鈴木一誌さん)
■『読書人』第3379号で「新世紀ドゥルーズ論――絶望とともに生きて死ぬドゥルーズの哲学 対談 小倉拓也×福尾匠」を掲載していただきました。

【イベント情報】
■10月7日(日)
『回転草』×『眼がスクリーンになるとき』刊行記念トークイベント ——書くひとと書かれたひとは書かれたもののなかで手をつなげるか?—— 開催のお知らせ
詳細はこちら

■10月6日(土)
『カオスに抗する闘い』&『眼がスクリーンになるとき』発売記念 小倉拓也さん×福尾匠さんトークイベント ドゥルーズはなぜ面白いのか――哲学と芸術の狭間で 開催のお知らせ
詳細はこちら

■9月20日(木)
『眼がスクリーンになるとき -ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』-』『思弁的実在論と現代について: 千葉雅也対談集』刊行記念福尾匠さん×千葉雅也さん トーク&サイン会開催のお知らせ
詳細はこちら

■9月10日(月)
『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』+『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(フィルムアート社)刊行記念イベントのお知らせ
福尾匠×石岡良治×三浦哲哉×平倉圭
詳細はこちら
※本イベントのご予約は既に定員に達し締め切りとさせていただきました。



20世紀最大の哲学者、ジル・ドゥルーズが著した芸術と哲学をめぐる二巻本『シネマ』。

本書は、『シネマ』にとって、映画は哲学の「フッテージ(footage)」、つまり「思考の素材=足場」であると捉えなおすことから議論を開始する。
その映画というフッテージに、もうひとりの重要な哲学者となるアンリ・ベルクソンの哲学が流しこまれる。そのとき映画はイメージ=映像による〈思考〉の実践として立ち現れてくるのだ。

『シネマ』と映画の関係、ドゥルーズとベルクソンの関係というふたつの問いは、哲学にとって「見る」ことと「読む」ことがいかにして概念の創造へと導かれるかということを指し示している。

映画という特殊な経験のシステムから立ちあがる、イメージがそれ以上でもそれ以下でもなく見たままで現れる地平、「眼がスクリーンになるとき」とはどのようなことか。
そのとき観客である私たちはどんな存在へと生成するのか。

また、「私は素朴な観客です」というドゥルーズの言葉どおり、「見たまま」を肯定する態度は、ドゥルーズの哲学の創造性とどのようなつながりがあるのだろうか。

映画から哲学へ、哲学から映画へ、まっすぐに『シネマ』の核心へとスリリングに論じぬく、新鋭のデビュー作 !

「ゼロから読む」という名前のとおり、この本はジル・ドゥルーズの『シネマ』という書物の入門的な解説書だ。したがって本書を読むにあたって、ドゥルーズについても、哲学についても、映画理論についても知っている必要はない。映画をどれだけ見たことがあるかということもまったく問題にならない。いずれにせよ本を読みながら映画を見ることはできないのだから。
本書「はじめに」より抜粋

目次

はじめに

第一章 映画と哲学、ベルクソンとドゥルーズ
 1-1 『シネマ』と映画
 1-2 ベルクソンにおけるイメージと運動
 1-3 ベルクソンの「映画的錯覚」批判とベルクソニズムによるその解決

第二章 運動イメージ――感覚-運動的に思考する映画
 2-1 運動イメージの分化――宇宙の構築
 2-2 運動イメージの種別化――主観性の物質的アスペクト
 2-3 映画的思考1――全体とフィギュールの思考、画面外と音声

第三章 運動と時間
 3-1 運動から時間へ?――ランシエールの『シネマ』批判をめぐって
 3-2 零次性としての知覚イメージ――物の知覚
 3-3 眼がスクリーンになるとき――運動と時間

第四章 第一、第二の時間イメージ――視-聴覚的に思考する映画
 4-1 結晶イメージの境位――知覚と記憶の同時性
 4-2 過去の共存と現在の同時性――「脳」と「宇宙」の新しい意味
 4-3 映画的思考2――〈外〉と定理の思考、視-聴覚的映画
 補遺 ドゥルーズの「減算と縮約」

第五章 第三の時間イメージ――ひとつのおなじ結論の三つの異なるバージョン
 5-1 私に身体を与えてください――瞬間に持続を導入する
 5-2 偽なるものが力能になるとき――『シネマ』の物語論
 5-3 ふたたび『シネマ』と映画、ベルクソンとドゥルーズ

文献一覧
あとがき

PROFILE

【著者プロフィール】
福尾匠(ふくおたくみ)
1992年生まれ。横浜国立大学博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC1)。現代フランス哲学、芸術学、映像論。論文に「映像を歩かせる——佐々木友輔『土瀝青 asphalt』および「揺動メディア論」論」(『アーギュメンツ#2』、2017年)など。翻訳にアンヌ・ソヴァニャルグ「リゾームと線」(小倉拓也との共訳、『ドゥルーズ——没後20年新たなる転回』河出書房新社、2015年)。

眼がスクリーンになるとき
ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』

福尾匠=著

  • 四六判・並製|304頁|定価:2,200+税|ISBN 978-4-8459-1704-4

btn_buy


動く出版社 フィルムアート社
logo_footer
株式会社 フィルムアート社
〒150-0022 東京都渋谷区恵比寿南1-20-6 第21荒井ビル │
tel: 03-5725-2001
fax: 03-5725-2626
e-mail: info@filmart.co.jp
Copyright©2023 Film Art, Inc. All Rights Reserved.